121-out/R_目的(4)
オルグレンの宿の前で、アーサーは立ち止まった。
もうすっかり日が沈み、茜色だった空には夜の帳が下ろされている。早馬を飛ばしてきたとしても、やはり移動には時間を要するものだ。
アーサーはおもむろに振り返り、後ろに控えていた二人の男へ声を掛けた。
「二人は先に部屋で休んでいなさい」
「アーサーはどうするのだ?」
と
すると、其処に四人目の声が差し込まれた。
「ちと、俺と話があんだよ」
熊のように大きな男だ。アーサーも背がある方なのだが、それすらも越える、もはや巨人だ。サイラスが呆気に取られながらその大男を見上げていると、サイラスの横から、猫背の浮浪者然とした男がひょいと顔を出して愉快そうに言った。
「おやあ、ジェイコブじゃあないですたカ。キヒヒッ」
「久しいな、ロルフ。サイラスは半月ぶりだよな」
にんまりとジェイコブが嗤い掛けると、サイラスはふん、と鼻を鳴らして言葉を続ける。
「顔色がゴリラに戻ったな」
「其処は、人間じゃねえのかよ」
「貴様はゴリラで十分だ。脳筋頭め」
サイラスは何処に行っても喧嘩腰である。アーサーはサイラスとロルフの襟首を掴むと、にっこりと笑い掛けた。
「はい、其処まで。私はジェイコブと話があるから、二人は部屋へ戻ってくださいね」
ノーとはとても言えない、圧のある笑顔。ようするに、さっさと行け、ということだ。
宿の廊下で、アーサーは同僚のジェイコブとともに歩いていた。
窓から射し込む月光と星明かりがぼんやりと照らす、薄暗く長い廊下だ。今日は満月のお陰か、廊下の様子はくっきりとよく見える。
床に敷き詰められた深緑のカーペットや壁の所々に掛けられた絵画、そして何よりも細工の凝った大きな窓硝子――此処を宿ではなく貴族屋敷だと一瞬錯覚させる内装のすべてがよく見える。
アーサーは静かに、ふっと微笑んだ。
「なるほど。そういうことですか」
それは、すべてを
対してジェイコブは納得していない顔で、眉を顰めていた。
「なあ、本当に問題ないのか?オリヴィアもだいぶ不安がってんぞ」
「オリヴィアはあの子に惚れてますからねえ。そりゃあ、神経質にもなりますよ」
ふふ、とアーサーが笑うと、ジェイコブは別のことであんぐりと口を開いた。
「て、お前さん知ってたんかい」
実の子でない上、男の子なのだとしても、もしかしたら初彼女になるのでは?な相手に対して、アーサーは一度たりとも何の言及もしてこなかった。
無論、当人のいる前では言いづらいだろうが、ジェイコブと二人きりになった時など、話題にしようと思えばいつでも話題にできたはずだ。
「オリヴィアのことだけじゃなくてもよ。お前さん、あんまりハーヴェイのこと話さねえよな。気にかけなさすぎなんじゃねえか?」
「そうですかね?」
けろりと問い返すアーサーに、ジェイコブは脱力する。
「お前なあ」
「まあ、とにかく。大丈夫ですよ。私達はあの子が幾つのときから面倒を見ていたと思っているんですか?」
「そうだがよ……」
ふと、アーサーは一室の前で立ち止まった。ジェイコブとコリンが使っている部屋だ。
「後は私に任せて、ジェイコブも休んで下さい。明日から大忙しですからね」
「うへえ。
「そうです。今度またうっかり地下に埋まったら、置いて行きますからね」
さらりと、冷酷な発言だ。ジェイコブは思わず、「酷え!」と声を上げる。それでも、小声なのだからだいぶ理性が働き、落ち着いていると言えよう。
アーサーはにやりと悪戯っ子のような顔をして言った。
「私の子にまで迷惑を掛けたんだから、当然です」
ジェイコブにだけ見せる、素直な笑顔だ。敵わないとばかりに、ジェイコブは肩を竦めて見せると、
「お前さんの気にかけ方は唐突だな、まったく。以後気をつけるよ、相棒。お前さんもさっさと休めよ」
と言って部屋へ入って行った。
一人残されたアーサーは、その隣の部屋の扉へ視線を移す。アーサーと、養子ハーヴェイの使っている部屋だ。ハーヴェイとは三月以来。今は六月ゆえ、ほとんど
小さく息をつき、アーサーは独り言つ。
「さて、と」
あの暴れ馬はどうしていることか。アーサーはおもむろにドアノブへ手を掛け、扉を開けた。
✙
重たい目蓋を上げ、蓮はぼんやりと天井を見た。窓から射し込む白く目映い真昼の光が、薄暗い部屋全体を照らしあげている。
蓮はふと、横にあるもう一つの
――アーサーの奴、帰ってきてたのか。
あれはハーヴェイの養父の外套だ。上体を起こし、周囲を見渡すも、其処には貴族屋敷のような部屋以外、何もない。蓮は長い濡羽色の髪を掻き上げ、小さく息を落とした。
「外の空気、吸ってくるか」
この宿には見覚えがある。オルグレンにある、まさしく元貴族屋敷だ。ブルック隊はオルグレンに滞在する間、たいていこの宿を使う。
――時間のずれは、前とほとんど同じか。
日本ではちょうど真夜中へ時間が向かっている頃に、クロレンスでは真昼を迎えている。
――これなら、いざという時、両方に顔を出せるな。
宿から出ると、ヒュウっと温かな風が蓮の頬をなで、髪をさらった。日本に比べれば乾いた温かい外気に、懐かしさを感じる。こちらでなたった半月しか経過していないのだとしても、蓮にとっては二年ぶりなのだ。
蓮はとぼとぼとオルグレンの街を歩いた。夜中に降ったのか、乾いた水たまりの痕跡がちらほらと見受けられる。その上を馬車が通過し、幾人ものの人間たちが喧しく往来するものだから、泥水がはねて仕方がない。
何処か静かな場所へ行きたい。五月蝿いのは嫌いだ。蓮は久方ぶりの喧騒の中を潜り、
ようやくしんとした静寂の場所へ辿り着くと、蓮はそばにあった外壁に背を預け、嫌というほど眩しい青空を見上げた。こちらの気分なぞお構いなく美しい、青空を。
ふと、蓮は視界が揺らぎ、歪みのを感じた。
こみ上げてくるものに唇を噛み締めて、ひたすらに耐える。
「……ふっ」
声に出しそうになって、蓮は口元を覆い、その場で座り込む。
――必ず、見つけて見せる。
――あいつは、必ず俺が守る。
もう二度と、奪わせない。もう二度と、奪わない。すべては、彼のために。
体を震わせながらも、声を押し殺して泣いた。外も中も、静かゆえに、自分のわずかな息遣いすらもよく聞こえた。嘔吐感が襲ってきて、蓮は何度も吐いた。その時すらも、できるだけ声を押し殺した。
耐えろ。
耐えろ。
耐えろ。
すべては――…………。
聖暦1743年の、六月二十三日の真昼時のことだった。
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