031-d/[IN]Y_内世界(1)

 

 パパはお酒とお仕事が好き。

 ママは知らない男の人と、パパが好き。

 

 日曜日には家族でお出かけをする。

 

 お気に入りの花柄の白のワンピースを着て、ママとパパと手をつなぐ。

 

 いつものカフェへ行って、ママはサンドウィッチ、パパはオムライス、そしてわたしはふわふわのパンケーキを食べる。

 

 ホイップクリームを口の周りいっぱいに付けると、ママがみっともないわよ、と言って、拭いてくれる。


 パパは静かにそんなわたしたちを見守っている。

 

 わたしはママとパパが大好き。

 きっと、ママとパパも同じ気持ち。

 そう信じてやまなかった。


 パパがで、家に帰ってこなくなるまでは。




           ✙



 

「……な」

 誰かが、呼んでいる。

 

「……きな」

 誰だろう。何処かで、聞いた声だ。

 

「……、起きな!」

 その優しく深みのある女の声で、悠はうっすらと目を覚ました。

 

 ――あれ?

 

 痛みを全く感じず、悠は不思議に思った。つい先程まであんなにも痛かったのに。自分の体を見てみると、怪我をしたはずの腹や右腕、左脚には怪我の痕跡すら無かった。 

 というよりもそもそも、服装が違った。好きな作家さんのプリントTシャツに気に入りの青いジーンズを身に着けていた。いつの間に着替えたのだろうか。悠は状況を全く呑み込めず、無意識に言葉を落とした。 

「……え。どういう、こと?」

 

 悠は自分の声に驚いた。これは、ハーヴェイのものでも、蒼のものでもない。初めて聞く、十代の少年のような声だ。

 

 悠は慌てて周囲を見渡すと、其処は落ち着いた雰囲気のあるリビングルームのような場所だった。悠はその中央に立っていた。

 ダークブラウンの木目調の床に、黒いシャギーラグが敷かれている。壁には絵画が一つ飾られている。一人の男が磔にされている惨たらしい姿が描かれた絵画だ。何となく悠は、ディエゴ・ベラスケスの絵に似ていると考えたが、胸にあんな大きな釘は刺されていなかったとも考えた。

 

 ――日本に、帰ってきたのか?

 

 そこは、実家のリビングルームによく似ていた。ただし、自分の立っている場所にあるはずのウォールナットのダイニングテーブルはなく、代わりに二つのソファがある。一つは茶色の革張りのソファ。もうひとつは白いファブリックソファだ。静かな光を灯す三灯のペンダントライトがこれらのソファを照らしている。ペンダントライトは電球が剥き出しになっていた。

 

 ソファの近くにはそれぞれ、ウォールナットのサイドテーブルが置かれていた。見たことも無い、奇妙な形のサイドテーブルだ。四角い天板に引き出しがついており、脚は一本だけだ。どのように天板を支えられているのか分らない程にその脚は細く、緩やかなカーブを描いている。サイドテーブル全体に浮かぶ木目の模様は、まるで悲鳴を上げる人のようにも見えた。

 

 部屋の奥へ視線を移すと、見覚えのあるオープンキッチンがあった。三口のガスコンロのそばには小振りな食器棚。ヴィンテージ調の落ち着いたダークブラウンの食器棚だ。黒いキッチンカウンターには銀色のエスプレッソマシンが置かれていたが、冷蔵庫や電子レンジの類はなかった。

 

 悠は部屋に違和感を感じた。実家にしては部屋が広く、窓が一つもない。唯一あるベランダの窓は古びた木の扉で塞がれていた。その木の扉はぼろぼろで、茶色の塗装が剥げてささくれだっている。

 

「懐かしいかい?」

 

 先程の女の声がして、悠はビクッと肩を震わせて振り向いた。

 其処には、煉瓦色れんがいろのウェーブのかかった髪に垂れ目をした女がいた。赤くて丸っこいマグカップを片手に持った若い女だ。背は高く、筋肉質な印象がある。胸や尻は出ているものの、可憐さはなく、何処か猛々しい雰囲気がある。

 悠はおそるおそる、訊ねてみた。 

「……どなた、ですか?」

 

 悠の言葉に、女が驚いたように目を瞬かせて答えた。

「おや、ぼくのことを忘れてしまったようだね」 

 残念そうな顔をして女は笑っていた。彼女はどうやら悠を知っているようだ。もしかすると、あおいの知人かもしれない。

 

「とりあえず、そこに座って、これでも飲んで」 

 と言うと、女が悠に持っていたマグカップを差し出した。悠はそれを受け取り、促されるままに革張りのソファに腰掛けた。


 マグカップの中には、ミルクがたっぷりと入った、温かいミルクティー。アールグレイの茶葉の上品な香りがする。あおいは好まなかったが、悠が特に好んだものだった。 

「……これ、僕の好きな飲み物だ……。……なんで知っているんですか?」 

 悠は驚きを隠せないでいた。蒼の知人ならば、ミルクティーを振舞ったりはしないであろう。ということは悠を知っている人物となるが、彼女のような知人友人に覚えがない。

 

「ふふ。ユウはぼくたちの仲間なんだから、知らないはずはないよ」 

 と穏やかで、安心する笑顔を向けて女が応える。女の言葉に、悠は戸惑い、声を発した。

 

「なかま……?」 

「そうだよ。ユウは覚えていないみたいだけど、ぼくたちは言葉を交わしたこともある」 

「え……?」 

「アオが事故にあったとき、一緒に記憶が抜けてしまったのかな」

 

 女は人差し指を口元に当て、ふむ、と呟く。アオ。その名が気になり、悠はおそるおそる疑問を口にする。 

「あのう……。アオって「あおい」のことですか?」 

「そうだよ」 

「ええとあなたは……?」 

「ぼくは紫苑しおん。ここの纏め役リーダー的な役割を担っている者だよ」

 

 紫苑の言葉に悠は唖然とし、我知らず呟く。

纏め役リーダー……?」 

 纏める立場の者がいるということは、複数人の集まりがあるということだ。いったい何の集まりなのだろうか。そしてその集まりと、悠はどのような関係なのだろうか。

 

「ぼくも直接アオと会話したことはないけれど、ぼくたちはアオの肉体からだを共有する者たちなんだ。アオは言わば……家のようなもので、僕たちは其処の住人というところかな」 

「家……?住人……?」

 

 紫苑は解からないよね、と穏やかに言い、からからと笑う。紫苑は一息つくと、再び悠に説明を続けた。 

「此処には、君やぼくのようなのが他にもいてね」

 

 悠はただただ、静かに紫苑の話を聞くほかなかった。彼女が何を言っているのか、露程も理解できない。悠が茫然としていると、紫苑はちょっと待ってね、と悠に一言告げてオープンキッチンの方へ歩いていった。紫苑は食器棚の前で屈み込み、小さな白いマグカップを取り出している。

 

「君は幾ら呼びかけても全く聞こえないみたいだし。その上こちらに来られないみたいだから、ほとほと困っていたんだよ」 

 と紫苑は言い、そして「まあ、こちらも君の声は聞こえていなかったのだけどね」と付け足す。彼女はキッチンカウンターにあるエスプレッソマシンを操作していた。あれは、母が大切にしていたエスプレッソマシンだ。ふんわりとほろ苦い、珈琲豆の匂いが漂っている。

 

「話しかける……ですか?」 

「うん。聞こえなかったかい?何度も呼びかけたんだけど」

 

 ――もしかして……。

 たびたび聞こえた、あの声。頭痛の原因にもなっていたあの。 

「あの、頭痛がしたときに聞こえてきた……」

 

 悠紫苑が苦笑いをしながら、エスプレッソを入れたカップを持って悠のそばへ戻り、告白する。

「ごめんね。それはレンだ」

 

「お前がいつまでも経ってもこっちに来ないからだ」 

 やにわに、三人目の声が、部屋に響き渡った。

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