第139話 孔明の観測

周瑜は、諸葛亮の指示に従い南屛山の頂に、祈祷を行うための七星壇しちせいだんを築かせる。

ここで三日三晩、祈祷することによって東南の風を吹かせることができるというのだ。


にわかには信じられることではないのだが、諸葛亮であれば、あるいはと思わせるだけの智謀の冴えを、これまで見せている。

周瑜は、諸葛亮が吹かせると言い切った言葉を信じるのだった。


七星壇を築かせている間、諸葛亮は一人、夜空を見上げて星を読む。

天文暦学てんもんれきがくこよみ、自身の記憶とを重ね合わせて、正確な季節と天候の移り変わりを観測しているのだ。


『うむ。やはりあと数日で、東南の風は間違いなく吹く。あとはその日を、どれだけ的確に見定めることができるか・・・か』


曹操軍と孫権軍が対峙しているこの地は、荊州の南郡と江夏郡、長沙郡の境である。

荊州の地に移り住んで、十年余り。それ以前は、揚州豫章郡にも住んでいたが、その間、天文観測と気象観測は毎日の日課として実施してきた。


そして、注意深く観測していくうちに冬のある数日だけ、長江の流域でいつもと違う風向きになることを発見する。

その変わる風向きというのが、季節外れの暖かい南風。具体的に言うと北西から東南へと向きが変わるのだ。

その時期は年ごとに、多少ばらつきが出るのだが、その違いは気温や天候状態に左右されるということまでは、検証できている。


今年の南風がやって来る時期を正確に把握するため、事前に人を派遣し地元民や漁師などから、気温や天候などの情報収集を行っていた。

その集めた情報とこれまでの知識を掛け合わせ、来たる吉日を予測する。


毎年、さすがの諸葛亮も僅か三、四日のずれが生じてしまうのだが、今年については、より精度を高めた予報が必要だった。

諸葛亮は、心血を注いで星の輝きは勿論のこと、雲の流れから空気の変化にまで、神経を張り巡らせる。


息をするのも忘れるくらいの集中力が高まり、丹念に検証した結果、ようやく結論を導き出すことができた。

精神力を使いすぎたのか、諸葛亮の顔は青ざめている。

よろめきかけて、意識が飛びそうになったところ、その身を受け止めてくれる人物により、転倒を免れることができた。


「大丈夫ですか?」

「これは、簡雍殿。助かりました」


落ち着きを取り戻した諸葛亮は、徐々に血色も良くなり、自立が可能となる。

お恥ずかしいところを見せたと、また、簡雍に謝罪するのだった。


「気にしないで下さい。それより、東南の風の件は、どのようになりましたか?」

「吹く日が、ようやく読めました。四日後の夕刻から宵の口の間で東南の風が吹きます」


ということは、明後日から祈祷に入るということか。

簡雍が素早く計算していると、諸葛亮から劉備あての言伝を頼まれる。


まず、足の速い船を用意して、長江の畔に待機することと、趙雲に南屛山まで迎えに来てもらいたいということだった。

簡雍に関しては、先に趙雲と合流して、この地を去る準備をしていてほしいとのこと。


「全て承知しました。三日三晩、ろくな物を口にしていないでしょうから、簡単な食事も用意しておきますね」

軍略の差配であれば、見落とすことがない諸葛亮だが、自身の食事に関しては完全に盲点だった。

簡雍の気配りに感謝する。


「すいません。それでは、よろしくお願いいたします」

「ええ。それでは、本日はゆっくり休みましょう。休めるときに休んでおかないと、体が持ちませんから」


いつもは軍略の再確認などに時間を要し、睡眠時間を削る癖がある諸葛亮も、今回ばかりは素直に簡雍の言葉に従うことにした。

先ほどのように大事なところで倒れては意味がない。


さりげなく、そのことに気づかせる簡雍には、諸葛亮も敵わないと思う。

軍師とは違う能力が抜きんでているのだろう。

長年、劉備の相談役的な職務を担ってきたのでは、伊達ではなかった。


「何か私の顔についていますか?」

「いえ、これからも見習わせていただきます」

「私を?・・・いやいや止めて下さい」


照れる簡雍を尻目に、一足早く、諸葛亮は歩き出す。

鋭く高まった神経も緩和してきたのか、程よい疲れでぐっすり休めそうである。

諸葛亮は、自分の役割に備えて、英気を養うことにするのだった。



闞沢が烏林から戻ると、密かに周瑜、程普、黄蓋、韓当、諸葛亮が集まり、今後の方針について軍議を行う。

魯粛が、この場にいないのは蔣幹の相手をしてもらっているからだ。


蔣幹は、すでに用済みなのだが、今、手にかけると黄蓋、韓当の内応が疑われてしまう。

これからは、余計な情報を与えないように制御していかなければならなかった。


闞沢の話に戻すと、一応、曹操からの信用は得られたようだが、曹操側につく期日が書かれていないことに疑いを持たれたという。

なるほどと思わないでもないが、これに関しては、総司令の周瑜ですら、決定することができなかった。


全ては、東南の風次第なのである。

自然と視線が諸葛亮の方に集まるのだった。


諸葛亮は羽扇で顔を隠し、目を瞑ったまま、黙っている。

ゆっくりと開眼すると、ただ、一点、机上の地図に視線を落とした。


「明日より、三日三晩、七星壇にて祈祷を行います。三日目の夜の祈祷中、この赤壁に東南の風が吹くことでしょう」

赤壁とは、陸口と烏林の対岸を総じた地名である。長江の岸壁、そこにむき出しとなっている土の色が赤いことに由来した。

諸葛亮は、陸口と烏林の間に東南の風が吹くと宣言したのである。


「確認するが、三日後の夜で相違ないな?」

「間違い、ございません」


周瑜が念押しするが、諸葛亮はそう言い切った。

これを受けて、孫権軍は慌ただしく動き出す。


周瑜は、曹操を火攻めにするための作戦立案に集中し、程普は戦船の点検、確認に奔走した。

闞沢は、再び黄蓋の書簡を持って、烏林へと出発する。


そして、忘れてはいけないのが蔣幹の身柄拘束だった。

自由にしておくと、東南の風に関する情報が、どこで漏れるか分からない。

これに関しては、秘中の秘でなければならなかった。


衛兵を派遣し、逃げ出さないように軟禁にし、外部との情報も遮断する。

最後に諸葛亮は、沐浴にて身を清め、明日の大役に備えるのだった。



その夜、周瑜の天幕を魯粛が訪ねる。

丁度、作戦にも目途が立ち、周瑜が一息ついたところだった。


「お疲れさまです」

「うむ。我ながら、見事な作戦に仕上げることができたよ」

「それは重畳ちょうじょうというものですね。」


会話が止まると、お互い天候を気にしていることに苦笑いをする。

諸葛亮の言を信じると言い切ったが、やはり不安なのだ。


「本当に東南の風が吹くのでしょうか?」

「吹いてもらわねば困る。・・・しかし、私がここまで他力本願で戦をすることになろうとは、思いもしなかった」

「他力ではなく、周瑜司令が味方の力を引き出して、勝利を得るのですよ」


まだ、戦は始まってもいない。勝利を口にするのは、早すぎる気はするが、敗れるつもりで戦を仕かける者などいない。

二人は、勝利を信じて笑い合うのだった。

その後、周瑜が真顔となる。


「私は東南の風が吹いた後、諸葛亮を亡き者にしようと思っている」

「曹操の兵を一兵も斬る前に、味方を誅殺するのは、士気に影響するのでは?下手をすれば劉備殿が裏切りますよ」

「分かっているが・・・諸葛亮が、もし天候すら操るとなれば、私はまともに戦って、太刀打ちできる自信がない」


将来の孫呉のためだと、周瑜は言い切った。

そこまで言われては、魯粛に止める手立てはない。


「公瑾殿の言い分、分かりました。ただ、諸葛亮殿も一筋縄ではいかない相手。あまりこだわり過ぎず、目の前の曹操に集中するようお願いします」

「ああ、そこは見誤らないようにはするつもりだ」


二人は、その後もこの戦のことから、孫呉の将来のことまで話し合った。

話に夢中になり、いつの間にか朝日が昇る時間となる。二人は、時が過ぎる早さに驚いた。


「いよいよ、本日からですな」

「ああ、我らの命運、ひとまずあの者に託そう」


諸葛亮の祈祷が、今日から始まる。

二人は、そのまま起きていることにし、白装束に身を包んだ諸葛亮を徹夜のまま見送るのだった。


「頼んだぞ」

「お任せください。決戦は、まだ先。お二人とも、それまで、十分に英気を養って下さい」


諸葛亮は、自身が簡雍に指摘されたことを、そのまま周瑜と魯粛にも伝える。

眠い素振りを見せたつもりはなかった、諸葛亮ほど洞察力に鋭ければ、勘づくのだろう。


「承知した。ただ、私が安心して眠れるかどうかは、君次第だ」

「おお、そうでしたね。重ねて言いますが、お任せ下さい」


会話で諸葛亮から、一本取ることができた。

周瑜は、心地よく眠れそうな気がするのである。


気分がいいまま、本日は全軍、休養にあてるよう指示をする。

弓の弦も張りっぱなしでは、いざという時には役に立たないのだ。


周瑜は、自身の天幕に戻ると久しぶりにゆっくりと休む。

来たる決戦は、敵の艦隊の数を考えるに、激しいものとなるだろう。


しかし、どれほど激しくなろうと、耐えられるだけの体力を蓄えておこう。そう思っている矢先、いつの間にか眠りにつく周瑜だった。

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