第137話 苦肉の計
孫権軍の様子がおかしい。
その噂は、曹操の耳にも届き、すぐに様子を探らせることにした。
白羽の矢が立ったのは、蔣幹である。
以前、蔡瑁の手紙を持ち帰ってきたのだが、結局、真偽が分からず大手柄とはならなかった。
そこで、今回、再び潜入し、孫呉の機密の一つでも手土産とした場合、中央の役職に取り立てる約束をする。
前回、手紙を盗んだことは周瑜にも気づかれているはずなので、再潜入は、非常に難しいものとなると予測できた。
そのことは、十分、承知しているが、自身の立身のために蔣幹は、陸口に赴く。
警戒していた蔣幹だが、意外と孫権軍陣内には、すんなり入ることができた。まだ、周瑜の旧友という肩書は、通用するようである。
一歩、陣内に足を踏み込むと、噂になっている異変にすぐ気づく。
中の雰囲気がまったく変わっているのだ。
戦時中ということを差し引いたとしても、異常にピリピリとした空気が張りつめている。
これは何かあると感じた蔣幹は、その秘密を炙り出してやろうと、意気込んだ。
ところが、その理由を知るのに時間はかからない。陣内の中央で、将軍の一人が公然と周瑜を批判しているのだ。
「周瑜司令は、今日も引き籠りか。これでは士気が上がらんぞ」
そう言い放っているのは孫家宿将の黄蓋である。近くに副司令の程普の姿を見ることができたが、不敬を叫んでいる同僚を止める素振りが、まったくなかった。
このようなことがまかり通るような組織ではなかったはずである。
明らかに異常な状態に、蔣幹は周瑜の天幕へと急いだ。
どうして、このような仕儀となったのか?
その理由を持ち帰れば、出世が近づくと思ったのだ。
「周瑜殿、失礼する」
「一体、どなたか?」
「蔣幹です」
周瑜からの返事はない。しばらく待つが、その後も応答がないため、蔣幹は「ごめん」といって、天幕の中に入るのだった。
そこで、蔣幹が目にしたのは、机に伏しながら、やつれた表情を見せる周瑜である。
あの貴公子然とした姿が、見る影もないのだ。
「陣中の様子を見ましたが、何があったのです?」
「お恥ずかしい話、曹操の大軍を撃ち破る策が思いつかないまま、時が過ぎ、ついには部下たちから愛想をつかされてしまいました」
周瑜は力なく笑った。蔣幹には、半ば諦めているようにも映る。
この状況を曹操に伝えるだけでも、十分かと算段するが、蔣幹は更に欲が出た。
「しかし、このままでは軍規に関わります。しかと対応なさった方がよろしいのではないでしょうか?」
「今の私が何を言ったところで・・・」
「何をおっしゃいますか。貴方は、ここの総司令ですぞ。正しいことをなさるのであれば、皆、周瑜殿を尊重されるはずです」
蔣幹の勇気付けが効果あったのか、周瑜が少し前向きとなる。
あと一押しと踏んだ蔣幹は、周瑜の手を取り、「この蔣幹がついております。周瑜殿は、ぜひ、自信をお持ちなって下さい」と、奮起させた。
「分かりました。蔣幹殿が近くにいると思えば、私も力が湧いてきます」
周瑜は、天幕の入り口に手をかけると、一気に開く。
久しぶりの外の空気を味わうと、真っすぐ黄蓋の元へ向かうのだった。
周瑜の姿を驚くように見る兵士たち。更に黄蓋が手を広げるふりをして、その周瑜を待ち構える様子に、不穏な空気を感じるのだった。
「黄蓋将軍、あなたは上司である私を貶めて軍規を乱した。軍律に則って、死罪を言い渡す」
あまりにも突然の宣告に、皆、凍りつく。
確かに黄蓋の言動は目に余るものがあったが、周瑜が無策にも天幕の中に閉じこもりっきりでいたのも事実。
その辺を差し引くと、孫家三代に仕えた名臣に与える処罰としては重過ぎる。
「お待ちください。黄蓋殿は、大殿の時代より孫家を支え続けた忠臣です。なにとぞ、ご助命をお願いいたします」
そう言って、周瑜の前に飛び出してきたのは、
そんな闞沢を黄蓋は、何かと目にかけて世話をしていた。
闞沢の他には、呂蒙や周泰からも減刑の願いがあり、更に普段から仲の悪いことで有名な甘寧、淩統が並んで嘆願するに至ると、ついに周瑜も思い直す。
「皆がそこまで言うのならば、分かった。では、黄蓋に
百杖の刑とは、その名の通り、木の杖を使って百回打ちつける
刑の実行を伝えられると黄蓋は大人しく服する。上半身裸になって地に腰を下ろした。
その背中に向けて、兵が杖罰を与えていく。
杖を打ち据える内に、黄蓋の背中の皮は裂かれて血がほとばしった。裂け目から、肉がむき出しとなり、思わず見ている者が目を背けるほどの凄惨さがある。
それでも杖刑は続いたが、丁度、五十杖を数えたところで黄蓋の意識がなくなってしまった。
「周瑜総司令、いかがいたしますか?」
「よし、本日はここで止め。残りの五十杖は私が預かる」
黄蓋は連れ出されて、軍医の元へ運ばれる。
あまりの衝撃の光景に陣中では、言葉がでない。
周瑜が自分の天幕に戻ろうとすると、畏怖から自然と人垣が割れた。
その時の周瑜を見る周囲の目に、不安の影が灯るのを蔣幹は認める。
蔣幹は、この状況に内心、ほくそ笑んだ。
自分が周瑜をそそのかし、孫権軍を分裂に憂き目に追いやった。そう信じて疑わないのである。
黄蓋を連れ出したのは、最初に助命を願い出た闞沢という男だったはず。
あの時の周瑜を睨む目つきには、また一波乱あることも予想できた。
蔣幹は、この後、闞沢を含めた黄蓋の周辺を念入りに探ることに決めるのである。
うめき声が聞こえる天幕の中には寝台にうつ伏せで横たわる黄蓋と寄り添う闞沢、そして、韓当の姿があった。
「黄蓋さま、傷の痛みはどうですか?何でしたら、軍医を呼んで参りますが?」
「それには及ばん。これしきの傷、戦場では何度も受けたわ」
歴戦の雄らしき言葉を黄蓋は返すが、その表情は実に痛々しい。
闞沢は見ていられなかった。
「それにしても周瑜司令の今回のなさいようは、あんまりです」
「そう言うな。・・・これには・・」
黄蓋の話の途中で、韓当が咳ばらいをする。腕を組みながらあごで指した先に人影が映っていた。
その姿から、おそらく蔣幹だろうと推測できる。
黄蓋と韓当は目で合図を送り、意識を合わせると芝居を始めるのだった。
「確かに今回の公覆、お主への刑罰は、あまりにも一方的すぎる。元を正せば、自分自身の不甲斐なさゆえのことなのにな」
「おお、このまま、今まで通り公瑾の下でやっていくなど、到底不可能だ」
二人が突然、周瑜を非難し始めたので、闞沢はどうしていいものか分からない。
確かに周瑜に対して、憤りを感じたが、それでも忠心を失わないのが武門の道と黄蓋から教わっていたからだ。
「後で説明するゆえ、今は黙っていろ」
闞沢が余計なことを口走らないように、韓当が小声で制すると、芝居を続ける。
「ならば、いっそ二人で曹操に寝返るか?」
「そうだな」
闞沢は声を出しそうになるのを、何とか堪えた。事情があるようだが、孫家宿将の二人が寝返るなど、尋常なことではない。
「闞沢、お主に私の名代を頼みたい。代わりに曹操の所に行ってきてくれないか?」
「・・・はい。承知しました」
とりあえず話を合わせた闞沢の返事の直後、天幕に映っていた影はいなくなった。
それを見て、黄蓋と韓当は大きく息を吐き出す。
生来の武辺者である二人に人を騙す芝居は、もっとも苦手とするところ。
何とか演じきって、安堵するのだった。
これで訳が分からないのは闞沢である。状況を、いまいち飲み込めずにいた。
「お二人とも、申し訳ありませんが、ご説明願えますか」
闞沢の言葉で、「そうであった」と思い出す二人。
用心のため、声を落として今回の計画を打ち明けるのだった。
そこで、闞沢にも協力してほしいと頼む。
「先ほどの使者の件でしょうか?」
察しの良い闞沢は、二人の意図を汲み取った。
曹操の陣営に単独で乗り込むことになり、かなりの危険を伴うのだが、頼める者は他にいない。
「命がけになるが頼めるか?」
「何をおっしゃいます。黄蓋さまが、この役目を他の者に頼んだと聞いたら、この
「すまんが、よろしく頼む」
三人は、ここで細かい打合せをした。
蔣幹からの報告が、曹操に届いてからの方が信用を得やすいため、使者として長江を渡るのは、二日後とする。
寡兵が大軍を撃ち破るには、計略を用いなければならないが、今回、黄蓋が行ったのは、『苦肉の計』。
曹操を罠にはめるための計略の成否は、闞沢に託されるのだった。
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