第136話 二つの問題
陸口の孫権陣内において、数日前から総司令の周瑜が姿を現さないことが、そこかしこで噂になっていた。
かろうじて副司令の程普が、陣営内の雰囲気を引き締めているため、大きな動揺には至っていないが、不穏な空気が流れつつあった。
この状況を心配したのは魯粛である。
すぐさま、諸葛亮に相談するのだった。
「周瑜司令がここに来て、ご病気とあれば、我らは一大事ですが、どう思われます?」
「まぁ、病と言えば病でしょう。治療薬は、簡単には見つからないと思います」
諸葛亮の言葉に卒倒しそうになるが、寸前で堪えると、何の病気だろうかと落ち着きがなくなる。
荊州の地に名医の知り合いがいないか、尋ねるのだが諸葛亮は首を振った。続けて、簡雍にも問うが、答えは一緒である。
「孔明さん、少し意地悪ですよ」
「いえ、私も話の途中だったのですが・・・。少々、面白くて、申し訳ございません」
要は魯粛が慌て過ぎなのだ。その様子に諸葛亮がからかったのである。
「病と言っても気の病です。きっと、曹操軍を撃ち破る必勝の策が思いつかず、気を揉んでのことでしょう」
「そこまで理解しているのならば、諸葛亮殿には対処方法もすでに見当がついているのではないですか?」
そこは諸葛亮も頷いた。では、早速、周瑜の元へ行きましょうと魯粛は誘うのである。
十万本の矢を調達した一件から、周瑜の態度も軟化し、諸葛亮に対しては敬意を払うようになった。
その諸葛亮の意見であれば、周瑜も納得し気持ちが回復するのではと、期待するのである。
「ちょっと待って下さい。ここは譜代の忠臣の皆さんにお任せした方がいいかもしれませんよ」
無理矢理にでも諸葛亮を連れて行こうとする魯粛に簡雍が待ったをかけた。
程普、黄蓋、韓当の三人が、それぞれ神妙な面持ちをしながら、周瑜の天幕に入って行くのが見えたのである。
すると、諸葛亮も簡雍に賛同した。
「ここは孫家三代に仕えている三人衆の皆さまの方が、適任でございましょう」
魯粛もあの三人を敬慕している。しかも周瑜に対して、物怖じせず意見を言える数少ない軍部の人間なのだ。
とりあえず、お任せするのが最善と、魯粛も考え直す。
事の成り行きを天幕から離れて見守ることにするのだった。
周瑜は寝台の上で横になっていたのだが、程普、黄蓋、韓当の三人が来たとあって、寝ていては失礼と、すぐに起き上がった。
衣服を整えると、三人に腰掛けを用意し、自分も椅子に座った。
「皆さま、お揃いでいかがされましたか?」
三人は、周瑜の天幕に入りはしたが、口を閉ざして、一向に来訪目的を告げない。
ただ、重たい雰囲気だけが四人の間に流れる。
そんな中、切り出したのでは韓当だった。
「公瑾よ。我らは、そんなに頼りないだろうか?」
出世し役職が上となってからは、周瑜のことを字で呼ぶことはなかったが、韓当はあえてそう呼んだ。
周瑜は、孫家の先輩としての意見を下さろうとしていると察し、その身を正す。
「いえ、そのようなことは決してございません」
「ならば、なぜ。一人で思い悩むのか」
さすがに若き頃より周瑜のことを知る歴戦の雄たち。
周瑜が姿を現さない原因を正確に掴んでいた。
「あの曹操軍を破るには火計しかあるまい」
黄蓋が指摘するように周瑜も、そう思っている。
しかし、火計を成功させるためには二つの問題があったのだ。
その一つは、どうやって曹操の旗艦に火をつけるかである。
水上での戦い。火矢の一つや二つでは、簡単に消火されてしまう。
「何、俺が敵陣深く切り込んで、火をつけてくる」
火計を言い出した黄蓋がそう言い張るが、あの曹操が易々と侵入を許すわけがない。
「曹操軍に内応者を作り、内から火をつけてもらうのが一番なのですが」
周瑜の歯切れが悪いのは、都合よく篭絡できそうな相手はいないからだ。
結局、曹操を倒す方法は思いついているのだが、具体的な手法を考えた際に手詰まりとなる。
それで、周瑜は思い悩んでいたのだった。
「敵に内応者を作るのが難しければ、我が軍から偽の内応者を作るのはどうだろうか?」
今まで黙っていた程普の思いつきに、一堂、関心を寄せる。
発想としては面白いが、曹操を騙すことは非常に難しいように思われた。
「簡単ではないのは分かっているが、我々にできることは、これしかあるまい」
「ああ、そのためだったら、どんな協力も惜しまないぞ」
三人にここまで言われると、周瑜も覚悟を決める。曹操を欺き、火計を成功させるための策を懸命に絞り出した。
ただ一つ、これならばという策を思いつきはするが、実行するためには尊敬する三人に汚名を被せなければならない。
周瑜が、言い出せずにいると、程普が後押しをするのだった。
「我らは、公瑾、お主の部下だ。遠慮はいらぬぞ」
「承知いたしました。・・・皆さまには悪者になっていただきます」
程普、黄蓋、韓当は迷うことなく、「問題ない」と言い放つ。
「では、程普殿は、まず私と反目する立場をとって下さい。若造の風下に立つのは我慢ならないと表明するのです」
「それは構わないが、態度が急変過ぎないか?」
確かに日頃の周瑜と程普の関係を知る者が見れば、不自然に思うかもしれなかった。
ところが、周瑜はこのまま天幕に閉じこもるので、ついに愛想をつかして、憤慨したという体にすれば、周囲も納得するだろうと説明する。
「次に黄蓋殿ですが、火計の発案者として少々、痛い目をみていただきます」
黄蓋には、程普に同調し、周瑜のことを臆病風に吹かれた軟弱者となじる役目を与えた。
そこに周瑜自身が登場し、言い争いの末、皆の前で打首を言い渡す。
当然、周りの者は止めに入るはずだ。そこで、
「ふふふ、問題ないわ」
そして、最後に韓当は、周瑜のそんな仕打ちに憤り、黄蓋を連れ出して曹操に投降するという役目をお願いした。
すると、韓当は違うことで憤る。
「俺の役目が楽ではないか。公覆の役を俺に任せろ。百回だろうと二百回だろうと、いくら叩かれようが問題ないぞ」
「いや、この役目だけは、絶対に譲れない」
苦痛を受ける役目を取り合うという、おかしな現象が起きているが、程普のとりなしで周瑜の発案通りの配役となった。
あとは、いつ実行するかだが、曹操の密偵である蔣幹が、性懲りもなく、再び現れるはずだから、彼が来てからということにした。
蔣幹からも報告があった方が、黄蓋、韓当の降伏に信憑性を持たせることができるからである。
話がまとまり、三人衆は天幕を出るのだが、火計を成功させるための二つ目の問題について、周瑜が思い悩む。
これが解決されない限り、全てが無駄になってしまう可能性があった。
あの三人に、あそこまでのことをお願いしておいての失敗は許されない。
程普には仮病で天幕から出ないと言ったが、このままでは本気で出られなくなるかもしれなかった。
考え込んでいた周瑜が、再び、天幕の入り口が開くのに気づく。
何か忘れ物でもあっただろうかと思ったが、入って来た人物は別の者だった。
「火計を成功させるための最後の問題を、私が解決いたしましょうか?」
それは諸葛亮だった。思い悩んでいた周瑜からすれば、まるで救いの神のように見える。
「それは、本当のことだろうか?」
「ええ。周瑜殿が望んでいるのは、東南の風でございましょう?」
やはり、この男、相手には隠し事などできない。
そう認めると周瑜は、素直に頷いた。
「しかし、これは自然現象。いかに諸葛亮殿の叡智をもっても不可能であろう」
「準備が必要ですが、東南の風を吹かせることは可能です」
普通の人間が言うことならば、単なる虚言だろうと言い切ることができるが、それが諸葛亮の口から出た言葉であるならば、十分、信じるに値する。
「準備というのは?」
「近くにある
それくらいの事であれば、すぐに対応可能だ。
手詰まりと思い天幕に引きこもっていた周瑜だが、やっと希望が芽生える。
「よし、これでやっと勝てる要素が揃った」
周瑜は天幕を出て、大きな声で叫びたい衝動にかられたが、諸葛亮に止められた。
外に出て、元気な姿を見せては、三人衆に関わる計略が頓挫するのである。
「これは、私としたことが」
照れ隠しもあったが、周瑜と諸葛亮。勝利を信じ、静かに笑い合うのだった。
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