第135話 鉄鎖の陣

夜が明けた烏林の曹操陣営、曹操をはじめ主だった者が集まり、孫権軍の奇襲に関する検証を行っていた。

「昨夜の襲撃は、何だったのであろうか?」


曹操の問いかけに荀攸も司馬懿も首を傾げ、答えることができない。

濃霧の中、敵影らしきものが見えたため、矢を射かけさせたが、結局、相手からの応戦はなかったという。

朝一番、長江を確認させるも水面に死体はなく、何故か場違いの藁だけが大量に浮かんでいたという報告を受けた。


「夢、幻にでも撃ち込んだか。どうやら、矢だけを損したようだな」

曹操は冗談のように笑い飛ばすが、追随するように龐統も笑って手を叩く。

その仕草に、何が喜ばしいことでもあったのかと確認すると、「曹操丞相の慧眼に驚いただけです」と答えた。


「私の慧眼とは?」

「概ね、曹操丞相がおっしゃっていた通りです。なぜか陸口は矢を所望しており、こちらはその矢を献上したというのが、昨晩に起こった出来事なのです」


龐統の言っていることが真実であれば、笑い事ではなかった。

江陵県で得た物資により、矢の在庫も豊富に残っている。

昨夜のように十万の矢を失ったところで、大した痛手はないが、いいように弄ばれたという事実は面白いことではなかった。


なぜ、そのような事を周瑜が企んだのかは、龐統でも分からないという。

さすがの龐統も諸葛亮が、味方から命を狙われる羽目に合っているということは、想像の外にあった。


「分からないことを、これ以上、詮議しても始まりません。今は、もっと重要な事を話し合うべきかと思いますが」

龐統の言に、荀攸と司馬懿も頷いた。途端に重たい空気が流れる。

現在、曹操は軍を維持していけるかどうかという、重要な問題を抱えていたのだった。


それは、戦前、諸葛亮や周瑜が予測していた通り、曹操軍の中に疫病が蔓延まんえんしてしまったことである。

当初から、曹操も懸念しており、江南の食物をできるだけ口にしないことや風土に慣れるため、時間を設けたのだが駄目だった。


曹操が陣取る烏林は、水郷地帯であり、ほとんどが湿地帯で占められている。

上陸して利用できる野営地が、多くはなかった。


北方の兵たちは、慣れない水上生活を強いられている内に体調を崩す者が続出したのである。

しかし、前述の理由から、簡単におかに上げて、治療することができなかった。その場所がないのだ。


狭い船内では衛生面でも問題があり、傷病者は次々と増殖していく。発症した原因とそれを止める手立ては分かっているのだが、現状、対処することができなかった。

ついには、軽い症状の者まで含めると、半数近くの兵が体調の異変を訴えるに至る。


このような状況が続けば、戦が始まる前に曹操軍は壊滅するという、前代未聞の事態にまで、発展する懸念があった。

曹操も、ただ手をこまねいていたわけではなく、地元の名医や良薬を求めるが、さすがに五十万の大軍では、対処しきれるわけがない。


百戦錬磨の曹操とはいえ、このような経験はなく、いかんともしがたい状況が続いているのだ。

龐統は、この現状をどうにか改善すべきと説いたのである。

それは、至極当然の訴えだった。


「分かってはいるが、考え得る手は尽くした。これ以上、何かよい手立ては他にあるだろうか?」

荀攸や司馬懿も博識ではあるが、疫病の対処法については、一般的な常識しか持ち合わせていない。

いくら知恵を絞っても、いわゆる門外漢では、劇的な対処法など見つけることはできなかった。


「兵が体調を崩しているのは、長江特有の水面の揺れにあると思います」

そんな中、龐統は体調不良の原因が船酔いにあると断言した。

もちろん、そこまでは曹操を含めた知者たちの間の共通認識となっている。


では、その船酔いをどう止めるかが問題だった。

船の生活に慣れるまで待つという考えもあったが、それがいつのことになるのか見当もつかない。

そもそも周瑜が、それまで待ってくれるとも思えなかった。


「完全に船の揺れを止めることはできませんが、ある程度、抑えることならばできます」

「そのような方法があるのか?」


やはり、水上戦は北方人より、荊州人に一日の長があるのだろう。

曹操は、龐統の知恵に頼った。


「旗艦は大型船で揺れも少なくなっています。その旗艦を中心に鎖で連結することによって、各船の揺れは大分抑えることができると思われます」

「しかし、それでは鈍重となり、戦にならないのではありませんか?」

「もちろん、戦で使用する蒙衝などは鎖で止めることは致しませんよ」


龐統の提案に荀攸が疑問を投げかけたが、するりと躱す。

船の揺れを抑えることに限って考えれば、確かに龐統の案に勝るものはないように思われた。

但し、懸念事項がまったくないわけではない。


「もし、火矢を使われた場合、鎖で連結されている状態では、逃げ場がないのではないでしょうか」

司馬懿は、龐統の案に強い疑念を抱き、その弱点を指摘した。

一度、火攻めにあえば、艦隊全てが消し炭になる可能性は十分に考えられる。


しかし、龐統はその指摘に対する回答も用意していた。

風になびく『曹』の旗を龐統は指さすのである。


「ご覧の通り、今の季節は北西の風しか吹きません。もし火計を周瑜が用いた場合、その火はたちまち、己の身を焼き焦がすことでしょう」

周瑜たちが本陣を置く陸口は、烏林から見て北西の位置取りだった。

火は風下へと流れて行くもの。


この場合、周瑜が火計を用いるのは、自分たちの首を自分で絞めるのと同義だと、龐統は説明した。

今は、天候が曹操に大きな利をもたらしている。

司馬懿も、そのことは認めるしかなかった。


「これを『鉄鎖てっさの陣』と申します」

「鉄鎖の陣か。なるほど」


曹操も納得し、鎖で船をつなげるという提案が通ると、龐統は次に疫病について、症状の重度によって、収容する船を分けるべきと話す。

傷病者の状態によって、段階分けを行い、重症な者ほど旗艦から遠ざけた位置にある船に収容していくと続けた。


そして、傷病者のいる船への行き来は、看護をする者だけに限定する。

これで、疫病の感染を防ぐことができるというのだ。


龐統の話を最後まで聞いた者たちは、まさに今、我らが求めていることだと感じる。

鎖で船をつなぐことに疑念を持っていた司馬懿ですら、納得してしまった。


曹操は、龐統の案をすぐに運用するよう、指示を出す。

その日のうちに、船をつなぐ準備を始めて、数日の内に主要な船の全てが強固な鉄の鎖で連結された。

曹操の艦隊は、あたかも巨大な一隻の船へと変貌するのである


龐統の予想通り、船の揺れはおさまり、疫病の発症は徐々に減っていった。

気になっていた感染による被害拡大も収束の兆しが見え始める。


また、板を設置することで船間を馬で行き来できるようにもなった。

情報の伝達が早まったのと、馬に乗れることで、いい気分転換ができるようになる。

将兵たちの評判も上々だった。


今のところ、良いことづくめで、曹操の機嫌も良くなる。

これほどの智謀を見せられては、龐統をこの荊州の地に置いておくのは勿体ない。

この龐統を是が非でも北方に連れて行かなければならないと、曹操は考えた。


「さすがは龐統殿。水上の知識では、敵いませんな」

「それほどのことではございません」

龐統は謙遜するが、心の中では舌を出す。


『勝っているのは水上の知識だけでは、ありませんよ』

半分冗談だが、半分本気でそう思っていた。

そもそも、この鉄鎖の陣は、曹操を追い詰める策略の一つである。


このお為ごかしに気づかず、浮かれている曹操を見るに龐統は、笑いをかみ殺した。

龐統から始まるのは、いわゆる『連環の計』で、次の策略につなげるもの。

あとは周瑜と諸葛亮に仕上げを託すだけであった。


『さて、あの色男と孔明ちゃん。残りは頼みますよ』

自身の役目を終えた龐統は、この船を去る機を逸しない事だけを念頭に置くことにする。


火計は無理だと司馬懿に言ったが、あの諸葛亮ならば勝利のために必ず火計を仕かけられる環境を整えるはずだ。

曹操とともに、この船で焼かれるのは、まっぴらごめんである。

龐統は何気ないふりをして、船内を歩きながら逃走する手段と道を探すのだった。

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