第134話 十万本の矢

蔣幹より届いた報告に曹操は、頭を悩ませた。

内容は蔡瑁と張允が裏切っているとのことだが、その真偽が判断できないでいる。

「このような手紙、身に覚えがありません。偽物でございます」


蔡瑁は、そう訴えるが本物だろうと偽物だろうと、この場合、弁解の言葉は皆、同じことしか言わない。

確かに蔡瑁には、劉琮に対する処遇の件や造船の遅れによる叱責など、曹操への不満はあるはずである。


しかし、それが曹操を裏切って、孫権と内応するほどのことかと言われると、疑問が残った。

荀攸や司馬懿も難しい顔をしている。蔡瑁の裏切りが事実であれば、首を刎ねなければならないほどの事案だからだ。


「龐統殿は、どう思う?」

「これは判断に困りますね」


龐統にして、迷うのであれば、もうお手上げかもしれない。

疑わしきは罰せずともいうが、今は戦時中。

曹操自身の命にも関わるとなれば、この場合、疑わしきは罰すべきだ。


「ただ、同じ荊州人としては、白だと思いますがね」

「その根拠は?」

「根拠はありません。ただ、この手紙、一つで斬首とするの少々やり過ぎ、劉琮殿がいる青州への更迭でいいのではないでしょうか?」


その辺が無難なのかもしれない。

曹操は、龐統の意見を容れることにした。


「蔡瑁よ、嫌疑が晴れたわけではないが、荊州降伏を勧めた功が君にはある。よって、不問とするが、水軍都督の任は解く。これより、青州へ向かってもらう」

これは決定事項。蔡瑁としては、もはや従うしかなかった。ここで騒ぎ立てては、折角、つながった命も吹き飛んでしまう。

その日のうちに、張允とともに青州へと向かうのだった。


この様子に司馬懿は、困惑する。

龐統の挙動を疑って見ていたのだが、今回の対応では、偏りのない公平な意見で見事な裁きを示した。


もし敵対勢力に与しているのならば、迷わず処断すべしと叫んだと思われる。

司馬懿は、龐統への疑念が単なる取り越し苦労だった可能性もあると、心に留め置くことにするのだった。


一方、そんな司馬懿の心情を知る由もない龐統は、単に蔡瑁がこの戦場からいなくなるだけで成果としては十分と考えている。

この策で親族の蔡瑁が殺されたとあっては、諸葛亮の目覚めが悪いだろうという配慮から、助命を請うただけのことだった。


たまたまだが、司馬懿の疑惑が薄れたのは、龐統にとって吉である。

いずれにせよ、蔡瑁は青州送りとなり、結果、周瑜が大いに喜ぶことになったのだった。



陸口の本陣にて、打倒曹操に向けて連日、軍議が行われている。

その中で、ふと周瑜が諸葛亮に問いかけた。

「水上戦において、重要な武器とは何と思われるだろうか?」


そのようなこと、誰に聞くまでもなく弩弓どきゅうである。

それをわざわざ問うてきた周瑜の思惑を諸葛亮は感じ取った。

明らかに何かを仕かけてくるつもりなのだろう。


「水上では斬り込むことは容易ではないため、弓、いしゆみでの攻撃が主流と言ってよいでしょう」

「うむ、私もそう思う。そこで、相談なのだが、我らのために十万本の矢を用意することは可能だろうか?」


まともに戦が始まっていない段階で、矢が不足しているということはありえなかった。

これは諸葛亮を陥れようとする周瑜の罠であろう。


そうと分かっても、周瑜は無理矢理でも理由をこじつけて、必ず諸葛亮にこの仕事を振るはずだ。

そもそも断ることができないようになっているのである。


「用意はできますが、刻限はいつまででしょうか?」

「うむ。腕の良い職人を用意するうえ、十日でどうであろうか?」


十日とは、また無理な日数を言ってきた。

腕の良い職人をいくら集めても、通常、ひと月以上はかかる量である。


しかし、ここは受けないことには話が進まない。

更に諸葛亮には、ある勝算もあった。


「承知しましたが、ただ、十日と言わず三日で用意いたしましょう」

「三日だと」


任務をしくじるために、わざと無理な日数を伝えたのだが、更に区切ってくるとは周瑜も予想外の返答に驚く。

しかし、これで正式な言質をとったことになった。


「三日の刻限で相違ないな」

「ございません。四日目の朝にはお渡しいたします」

「一応、念のために言っておくが、正式な軍議の場において、戯言ざれごとは通用しない。任務の重要性を理解した上での発言だな?」


諸葛亮は、表情を崩さず頷いた。逆に周瑜は、真顔を保つのに苦労をする。

これで、諸葛亮に処罰を加えることが可能となったのだ。

どうしても相好が崩れそうになる。


その後の話題は、ほとんど周瑜の耳には入らず、諸葛亮を亡き者にすることだけを考えて、頭が一杯となるのだった。

軍議が終わった後、諸葛亮は簡雍に相談して、何か用意をさせているようだが、所詮は無駄な努力。

適当に泳がせて、周瑜は様子を見る。


そうして、一日、二日と経過していくのだが、肝心の諸葛亮には矢を準備している気配がまったく見られなかった。

これに慌てたのは魯粛である。


劉備から、諸葛亮と簡雍を預かった折り、身の安全を保障してきているのだ。

このままでは、その約束を反故にすることになる。


「諸葛亮殿、私が急いで船を用意いたします」

魯粛は、諸葛亮と簡雍を夏口へ逃がそうと考えたのだ。

しかし、そんな魯粛の心配はよそに、諸葛亮は突然の提案に驚いた表情を見せるのである。


「おお、さすがは魯粛殿。私の方からお願いしに行こうと思っていた矢先でした」

「やはり、諸葛亮殿もそう考えていましたか。足の速い船を用意いたしますので、お待ちください」

「ええ、二十艘ほど、ご用意お願いいたします」


承知したと言いかけて、魯粛は言葉に詰まった。

「いま、二十艘とおっしゃいましたか?」

「はい。そうです。今夜、その二十艘の船を使って、十万本の矢を用意いたします」


諸葛亮の言葉を魯粛は理解できなかった。ただ、その程度であれば賛軍校尉の魯粛の権限で、どうにかできることではある。

「承知しました。では、入り江に止めてある二十艘、ご自由にお使いください」

「ありがとうございます。後、この件は周瑜殿にはご内密にお願いします。もしかしたら、妨害されるかもしれませんので」


魯粛は、分かったと返事したものの、迷った挙句、やはり周瑜に話を通しておくのだった。

二十艘の船で十万本の矢。

報告を受けた周瑜をもってしても、読み解くことができなかい。

今後のためにも、諸葛亮はどんな手法を用いるのか、周瑜は知りたかった。


「今夜、何かするということだと思う。申し訳ないが、様子を見に行ってくれないか?」

「私も気になりますので、そう致します」


その夜、孫呉より借り受けた船に乗りこもうとする諸葛亮に魯粛が声をかける。

「これから、どこにいかれるのですか?」

「少々、遊覧に出るだけです」


諸葛亮の返答に、はぐらかされていると思い込んだ魯粛は、自分も乗船すると申し出た。

周瑜から、顛末の確認を依頼されていたこともあったが、諸葛亮が何をしようとしているのか自分自身が興味を抱いたのである。


魯粛の目を引いたのは、異様な船団だった。

全ての船が藁と布で覆い隠されており、その甲板には、人を模した藁人形も立てられている。昼間見た船の様相とはまるで違った。

三日前から、諸葛亮が簡雍に何かの手配をお願いしていたようだが、この準備をしていたのだろう。


「一緒にいかれるというのでしたら、お酒の用意もいたしましょう」

諸葛亮は、微笑をたたえながら、魯粛を迎え入れた。


船を出して、しばらくすると濃い霧が辺りを支配し始める。

屋形の中まで、濃霧が立ち込めてきた。

遊覧などという言葉を真に受けてはいなかったが、これでは景観が台無しである。


「この霧では、何も見えませんね。・・・ところで、この船はどちらに向かっているのでしょうか?」

「もうじき、分かりますよ」


杯を口にしながら、諸葛亮はとぼけるのだが、魯粛はどうも落ち着かなかった。

魯粛の方向感覚に狂いがなければ、この船は曹操軍が待つ烏林に向かっているはずなのである。


「そろそろですかね」

諸葛亮が停泊の指示をした瞬間、けたたましい警鐘、銅鑼の音が響きわたった。

すると、船体に強い衝撃を受ける。


何事かと魯粛が立ち上がろうとすると、危ないと言って諸葛亮が止めた。

当然、魯粛は説明を求めるのだが、諸葛亮は事も無げに、今は烏林におり、曹操の勢力圏内にいると言い放った。

であるならば、この止まることがない衝撃は、曹操軍が浴びせる矢の嵐に違いない。


「火矢は飛んできませんか?」

この船団、藁が敷き詰められている。火矢一つで、たちまち業火に包まれることだろう。

「この濃霧です。種火の取り扱いを間違えれば、火だるまとなるのは、あちらさんでしょう。使ってはきませんよ」


そう言いながら、諸葛亮は酒を口にする余裕を見せた。

付け加えるならば、こちらの船団の数も把握できない状況であるため、必要以上に接近もしてこないという。

できることは、今のように矢を浴びせるのが関の山だと、諸葛亮は笑った。


つられて魯粛も笑うのだが、以降、酒の味はまったくしない。

早く、この場から逃げ出したいという一心だけだった。


「もう、いいでしょうか」

魯粛の願いが届いたのか、諸葛亮が合図を送ると船が動き出す。

銅鑼の音が小さく聞こえ出したので、曹操の領域から離れていることは分かった。


曹操の矢が届かなくなると、魯粛はホッとする。

陸地がこんなに恋しいと思うのは、生まれて初めてのことだった。



その翌日、十万を余裕で超える数の矢が周瑜の前に並ぶ。

もちろん、それは昨夜、手に入れた曹操軍の矢だった。

この結果には、さすがの周瑜も言葉がない。

長江の天候すら、読み切っている慧眼には、恐れ入った。


「諸葛亮殿の智謀、凡人が及ぶところではございません」

「この程度、単なる小知恵ですよ」


諸葛亮は笑って立ち去る。見送る周瑜に魯粛が擦り寄った。

「敵は、曹操です。今は、目の前の強敵に集中した方がよろしいかと」

「確かにな」


仮に諸葛亮の首を取ったところで、この戦で勝利するわけではない。

蔡瑁が去ったことで、少し気が緩んでいたのかもしれないと周瑜は、反省した。

諸葛亮のことを気にするだけ損だと思い直すと、周瑜は、曹操との対決に心を切り替えるのだった。

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