第115話 徐氏の執念
丹楊郡
いや、その結果は目論見以上と言ってもいい。
嬀覧と戴員の武勇を見初めた孫翊は、二人の才能に惚れ込む。
その結果、嬀覧は兵の指揮を任される大都督、戴員は太守の補佐である
それを妬んだのは、孫翊に長年仕えていた辺洪である。
辺洪の心情を読み取った嬀覧と戴員は、早速、懐柔を試みるのだった。
「大都督のような重要な職は、辺洪殿こそ相応しいと孫翊さまに申し伝えたのですが・・・」
「私も郡丞は、辺洪殿とお伝えしたのですが、何故か叱責を受けてしまい申し訳ございません」
「いや、何もお二人が悪いわけではございますまい」
嬀覧と戴員が持ち上げるので、次第に辺洪は気分を良くする。
辺洪は二人があまりにも
分かりやすい性格の辺洪に嬀覧と戴員は、陰で高笑いをする。
一方、孫翊に対する工作にも余念はなかった。
「辺洪殿に事あるごとに辞職を要求されます」
「私もでございます。さらに孫翊さまに郡丞へ推薦せよと脅迫されるのです」
嬀覧と戴員が涙を浮かべて訴えると、孫翊は真に受けて、
「自分の能力を顧みず、愚かな男だ」と、本気で憤慨するのである。
ある時、公衆の面前でその件を叱責すると、辺洪は孫翊に深い恨みを抱くのだった。
そんなある日、県令たちを交えた月例の報告会が開かれることになる。
通例では、その後、皆で慰労を兼ねて宴会を行うことになっていた。
その宴だが、孫翊はやや憂鬱な気持ちで迎えることになる。
それは占いに通じている孫翊の妻、
しかし、県令たちも忙しい身。
日程を延期して、郡地所に拘束することは
結局、孫翊は政務を優先するため、あまり乗り気はしなかったが宴会を、予定通り開催したのだった。
とはいえ、酒好きの孫翊のことである。宴も半ばころになっても何も起きないことが分かると、ただの杞憂かと次第に酒量が増え出した。
宴会がお開きとなったときには、足元がおぼつかないほどに酔っている。
県令たちの大半が帰路につき、見送っている孫翊に近づく影があった。
そして、その影は無情にも無防備な孫翊の背中に刃を立てる。
袈裟斬りにして、孫翊が倒れた後に見えたのは、辺洪の姿だった。
武勇の誉れ高い孫翊も不意打ちでは対処できない。酒に酔っていたこともあり、倒れたところ、辺洪にとどめを刺されてしまう。
誰も止める間もないまま、孫翊は絶命し、衛兵が来た頃には、辺洪はその場から逃げ出しているのだった。
見事、山中に逃げおおせた辺洪だったが、孫翊の妻である徐氏は、この殺人者を許さない。
辺洪に賞金を懸けることによって、地元の無頼漢たちを使った山狩りを促すのだ。
この徐氏の執念には、嬀覧と戴員も慌ててしまう。
もし辺洪が捕まり、自分たちの関係が明るみに出た場合、どのような処分が待っているか分かったものではない。
二人も積極的に辺洪捜索に参加するのだった。
幸いにも辺洪は、二人に好感を持っているはず。
嬀覧と戴員は、自分たちの呼びかけには、応じてくれるのではないかという期待もあった。
すると本当に、辺洪は姿を現すのである。
「貴方たち、二人は私を高く買ってくれていた。孫翊の無能も理解してくれていたはず。どうか私のことを上手く取り成してくれないか?」
こんな状況でも辺洪は返り咲きを願っていた。しかし、そんな調子のいい話など、この世にあるわけがない。
嬀覧と戴員は、都合のいい操り人形を早く始末しようとお互い目配せをする。
「我らの主君、孫翊さまを殺しておいて、何を寝ぼけたことを言っているのか」
「お前のような不忠者など、我らが評価するわけがないだろう」
引き連れている兵士の手前、忠義者の仮面を被り、辺洪を断罪した。
ここにきて辺洪は、二人に利用されていたことにようやく気づくのだった。
「騙していたのか」
「人聞きの悪いことをいうな。さっさと捕らえよ」
あえなく兵士に捕縛された辺洪は、嬀覧と戴員を睨みつける。
「お前ら、覚えておけ。必ず、天罰がくだるぞ」
「ほざけ」
嬀覧は、白刃を振り下ろし辺洪の額を割った。口封じを兼ねて、この場で処断したのである。
「孫翊さまが殺された怒りで、思わず手を出してしまったわ」
あくまでも忠義者として立ち振る舞う嬀覧は、辺洪の死体を兵士に運ばせるのだった。
内心、これで徐氏も大人しくなるだろうと、ほくそ笑む。
あとは孫翊の兵を我がものとして、権力を手に入れればいい。
嬀覧と戴員は、下山しながら笑いをこらえるのに必死になるのだった。
辺洪の死体を確認した徐氏は、嬀覧と戴員に感謝の気持ちを伝える。
謝礼を渡そうとするが、二人はあくまでも孫翊さまのためにやったことだと言って、受け取るのを固辞するのだった。
夫の仇を取った徐氏だったが、何故かその心は晴れない。
それは先ほど、立ち去った嬀覧と戴員に不審な点を感じたからだ。
ただの直感だが、占いを得意にする自分の勘には自信を持っている。
何より、宴会場から辺洪が簡単に逃げ出せたことが、どうしても納得できないのだ。
あの会場に共犯者がいたとしか思えない。
そして、その直感が確信に変わる出来事が起こる。
丹楊郡の隣、廬江郡の太守、孫河が弔問のために訪れると、大都督の嬀覧と郡丞の戴員に対して、二人が職務を怠ったせいで孫翊が変事にあったと責めたのだ。
孫河の言い分は、言いがかりに近いが、この論調が孫権の耳に入った場合、自分たちの過去の経歴から、何らかの疑いをもたれる可能性がある。
そう考えた、二人は秘密裏に悪事を相談するのだった。
「ここで、大人しくしていては、何かの拍子に坂を転げ落ちてしまうかもしれん」
「そうだな。孫河を殺して、いっそ曹操に降るか」
孫権が動き出す前に嬀覧と戴員は先手を打つ。
孫河を闇討ちし、許都に使者を送るのだった。
自分たちが丹楊郡で反乱を起こした後、曹操が新たに任命した揚州刺史、
ここに至って、嬀覧と戴員は、ついに本性を現した。
嬀覧は丹陽太守を自称すると、孫翊の兵を吸収し宛陵県の郡地所を占拠する。
元々、軍を指揮する立場と太守を補佐する立場の二人、丹楊郡の掌握は簡単なことだった。
こうなると嬀覧の無法ぶりは留まることを知らない。
孫翊の屋敷に乗り込んで、妾から侍女までを我がものとすると、連日連夜、自身の欲望をはき出した。
その様子は、まるで
徐氏は、吐き気がするほど嫌悪感を持つが、今、嬀覧に逆らえる者は丹陽にいなかった。
嬀覧の触手が徐氏にも伸びると、
「月末で夫の法事が終わります。それまで、どうかお待ち下さい」と、何とか時間を稼ぐ。
徐氏は一族の
密書の内容は、孫翊の法事が終わった夜、嬀覧と戴員を酒で酔い潰すので、その隙に二人を手にかけてほしいというもの。
奇しくも、夫が殺されたときと同じ状況を作って、天誅を成立させるというものだった。
受け取った孫高と傅嬰は、ともに涙を流す。
「孫翊さまから恩顧を受けながら、今まで手を出せずにいた自分が情けない。徐氏さまの願い、必ず聞き届けます」
使者の徐元と固い約束を結んだ。
果たして、月末に催された孫翊の法事の夜。
ささやかな宴会が開かれる。
そこで徐氏は、嬀覧と戴員をもてなした。
嬀覧の視線は既に、徐氏のしなやかな肢体にまとわりついている。
何も考えずに勧めるまま酒を口にするのだった。
つられる様に戴員も盃を空けると、宵の口には二人とも、ろれつまでも回らなくほどに酒に吞まれる。
「お二人とも、今です」
頃合いを見計らっていた徐氏は、合図を送ると孫高と傅嬰が飛び出した。
有無を言わせず、二人は刃を一閃する。
見事、本当の夫の仇を討ち取るにことに成功する。
悲願を達成した徐氏は、嬀覧と戴員の首級を孫翊の墓前に捧げるのだった。
その後、孫権が丹楊郡にやってくると嬀覧、戴員に与した残党を殲滅する。
続いて、反乱の首謀者を討ち取った孫高と傅嬰を牙門将に抜擢し、新たな丹陽太守には、人望が厚い従兄の
そして、巻き添えのような形で亡くなった孫河の兵だが、息子の
これで丹陽における乱を鎮めた孫権だったが、背景にはやはり山越族が絡んでいたことに一抹の不安を覚える。
孫家と山越族の争いは、今後も続いていくのだった。
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