第179話 ふたたび涪城へ

白水関が落ちたという報せに成都は大騒ぎとなった。更に陥落させた相手が、張魯ではなく劉備と知った時は、劉璋の顔が青ざめる。


「だから、老人兵ではなく、普通に援軍を送れば良かったのではないか?」

「いえ、あの劉備のこと、遅かれ早かれ本性を現したはずです。戦力を渡さなかった分だけ、まだ、吉かと思われます」


黄権は、劉備を益州に招き入れた時点で、この未来は確定していたと譲らなかった。

その是非は定かではなく、昔に戻って、やり直すこともできるわけではない。

今起きている問題に対して、議論しなくてはならないのだが・・・


「劉備は葭萌関を発して、付近の豪族たちの帰順を受け入れながら南下中、今頃は梓潼県しとうけん辺りだと思われます。早急に何か手を打ちませぬと・・・」

劉巴が過去の話を捨て、現実を直視する。


当初、劉備は二万の兵を連れて荊州からやって来た。ところが、今は白水関の兵と進軍中に加えた帰順兵と合わせて、その兵力が五万にまで膨れ上がっているという情報がある。

このまま傍観していては、ますます増えていくことが容易に想像できた。


「迎え撃つのであれば、涪城ふじょうがよろしいかと思います。早速、将兵を派遣いたしましょう」


劉巴と黄権は口を揃えて、迎撃を主張する。劉璋もそれしかないと思いつつ、劉備軍に勝てるのかという、一抹の不安が残った。

今なら、まだ和睦する機会が残っているのではないかと、弱気になる。


裏切り者の張松を怒りの感情のまま、処罰したところまでは良かったが、その後の劉備への対応は、もう少し冷静になっていればと、まだ、悔やんでいるのだ。

劉備と戦うことに尻込みする劉璋は、和睦はできないかと、群臣に投げかける。


「和睦など提案すれば条件として、巴郡はぐん広漢郡こうかんぐんくらいは要求されますぞ。この成都の近くに虎を住まわす、おつもりですか?」

「ならば、成都を離れ、越嶲郡えつすいぐん辺りに引っ越せばいいではないか」


劉璋は簡単に言うが、越嶲郡はすでに南蛮の異民族の勢力圏だった。

政治の中心たる州都を置けるような地ではない。


「現実問題として、戦うしかありません。賽はすでに投げられているのです」


これ以上、劉璋が馬鹿なことを言い出さない内に、黄権、劉巴らが主導して迎撃に向かう将の選抜を行った。

選ばれたのは、張任ちょうじん冷苞れいほう劉璝りゅうかい鄧賢とうけん呉懿ごいの五人である。


この中では、年長の張任を総大将として、五万の精鋭で涪城に向かうことになった。

戦の経験が少ない益州にあって、張任は名将と名高い人物の一人。


彼が劉備を撃ち破るもよし。万が一、敗れたとしても時間は十分、稼げる見積もりだった。

その間に成都の防備を高めることができる。


涪城が落ちた場合、次に通過するであろう綿竹関めんちくかんにも兵を派遣する準備を行った。

そして、広漢城主でもある黄権は、劉備への帰順者を、これ以上出さないように地域の安定を図ると言って、自身の居城に戻る。


「劉巴殿、成都はお頼み申した」

「承知いたしました。黄権殿もご成功、お祈りしております」


劉巴は黄権を見送ると、現在、置かれている状況を整理した。

成都には、他にも張粛や陰溥いんほなどの重臣はいたが、内政はともかく軍事に通じている者は劉巴しかいない。

別れ際に黄権が声をかけるように、自然と劉巴に期待が高まっていくのだ。


その劉巴は劉備に対して、特別な感情がある。

それは数年前、赤壁大戦の直後のこと。


曹操から荊州南部の防衛を託されながらも、力及ばず全ての所領を奪われたということがあった。

しかも、その時に関わった黄忠と魏延が先鋒として攻めてくるという。これは何かの巡り合わせ、まさしく因縁と言わずにいられなかった。


劉巴は、昂る感情を抑えて、慎重に綿竹関の防衛の任に当たるべき将を選考する。

適任なのは、劉巴も有能と認める李厳りげんしかいないという結論に至った。


これで、劉備を迎え撃つ体制としては、十分に整う。

あと涪城の攻防に際して、張任に助言を与えるための早馬を飛ばした。


攻め手の武将、黄忠と魏延であれば、魏延の方が与しやすいという情報を伝える。

あの魏延の性格を考えれば、必ず和を乱して、功に逸ることが予想できるのだ。


長沙郡での恥辱の借りを、ここで魏延に返してもらう。

劉巴は、そう目論見を立てるのだった。



劉備が駒を進めて、涪城に近づくと、言葉では言い表せない思いが駆け巡る。

ほんの数日前には、この城で劉璋からの歓待を受けていた。それが今は、完全に立場が変わって、この城郭を眺めているのである。


野心、決断を変えるつもりはないが、あの時、劉備を見ていた涪城の人々の目には、今の自分がどう映っているのだろうか?

悪鬼の如しと恨まれても、全てを受け止めようと劉備は考えていた。

それが侵略する者の責任なのである。


「今は、乱世。深く考えない方がいいと思いますけどねぇ」

黙り込んでいた劉備に龐統が話しかける。劉備の心情を察したのだろうが、そんな龐統を不思議な目で見た。


「何だ、憲和の奴がいるのかと思ったぜ」

声色は、全然違うのだが、話し方と内容がいかにも簡雍が言い出しそうだったため、そう感じたのである。


龐統は、にんまりと笑うと、真似てみましたと舌を出した。

劉備を元気づけるのには、これが一番だと判断したのである。


この龐統の態度で、初めて自分が気落ちしているのだと劉備は気付いた。

続けて、今、胸中にある思いを話し出す。


「周の武王が殷を滅ぼしたのは、正義の戦だというが、あれは、勝ったからこそ言える話だよなぁ?」

「まさしく、勝った方が歴史を作る。これは、古来より続く不文律でしょうね」


歴史とは、そういうもので、今の世で周の反乱を悪く言う者は、ほとんどいない。

しかし、一方では伯夷はくい叔斉しゅくせいのような兄弟の逸話も残っている。


当時、生きていた人々にとって、周の軍事行動は、本当に正義と思えたのだろうか?

今の涪城に住まう人々と同じ気持ちがあったのではないかと、劉備は思う。


「この戦、勝って終わらせて、俺は益州を取る。だが、大義なき侵略だった事実は、絶対に歪めない」

龐統は、黙って返事をしなかった。劉備の言うことは、見方によっては、ただの感傷と受け取られかねない。

考え方としては、立派だとは思うが・・・・


「分かっている。ただの自己満足にしか過ぎないってことも。だがら、俺は責任を持って、益州の人々の暮らしを豊かにする」

「それであれば、俺も同意しますよ。必ず、蜀を取りましょう」

劉備と龐統は、約束を交わす。また、これで劉備の決断が揺るぎないものに変わるのだった。


翌日、龐統は涪城を前にして、攻略のための指示を黄忠、魏延の二将軍に与える。

涪城を援護する形で、冷苞、鄧賢が左右に砦を築いていた。

まず、この両砦を撃破しないと涪城の攻略に取りかかられないのである。


そこで、黄忠と魏延、二手に分かれて、それぞれの砦に当たってもらおうというのだった。

黄忠が冷苞の砦、魏延が鄧賢という取り決めになる。


二将軍は、自分の隊に戻ると作戦決行の準備を始めるのだった。

敵の砦は、山岳の多い益州の地の利を活かしたもの。


森林に隠れての強襲を軍師から指示されている。

攻撃開始は、明朝、朝日が昇った後だった。


ここで明日の決戦に備える魏延に邪な気持ちが生まれる。

鄧賢を討っただけでは、冷苞を討つ黄忠と同じ手柄だ。黄忠よりも大きな戦功を挙げるためには、自身で二つの砦を落とせばいいと考えたのである。


今の劉備陣営では、関羽、張飛、趙雲が別格として不動の地位にいた。

それに次ぐのが陳到と言われているが、魏延に言わせれば、ただの古株で大したことはない。


あの絶大なる三将の次席を争う本命は、黄忠だと見ていた。

ならば、その黄忠を出し抜かねば、自分自身の出世は遠くなる。


幸い、今回の遠征は荊州から加わった新参者たちが手柄を立てやすいように組まれた編成となっていた。

この機会を利用して、少しでも三将に近づかなければと、一種の焦燥感のようなものが魏延には、あったのである。

密かに軍をまとめると、自分たちの担当とは違う方向を指示する指揮官に不審に思う者たちがいたが、それらの者は魏延が力づくで抑えつける。


「俺が出世したら、お前らにもいい目を見せてやる。だから、黙ってついて来い」


味方の黄忠にも見つかってはならないため、魏延隊は、かなり無理な行軍を強行した。

それでも何とか、予定の地点にたどり着くと息を潜める。

魏延は、朝日が昇る直前をじっと待つのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る