第180話 魏延の謝罪

朝日が顔を出す直前、魏延は冷苞の砦に攻撃を仕掛けた。

冷苞軍は、まだ、深く眠り込んでいると踏んでの奇襲である。


「まだ、後がある。この砦はとっとと占拠するぞ」

号令勇ましく砦内に斬り込むが、様子がおかしい事にすぐに気づいた。

敵兵の姿がまったくないのである。


「これは、どういう事だ?」

魏延が怪しんでいると、突然、高笑いが聞こえるのだった。


その方向に視線を送ると、弓を構えた兵たちの先頭に冷苞が立っている。

しかも、ご丁寧に四方を弓兵で囲まれてしまった。


「劉巴殿の言う通りだったな。貴様は、必ず功に走ると言っていたが、まさにその通りだ」

「劉巴?そう言えば、あのペテン師は、今、益州にいるんだったな」


魏延は長沙での出来事を思い出す。見方が変われば、抱いている感情も違い、当の本人は今でも劉巴に騙されたと思っているのだ。

それは言うことを聞いていれば、勝てるという触れ込みだったのが、結局は劉備の軍門に降ることになったからである。


結果的に、現在、魏延にとって、いい方向に転がっているのだが、それとこれは別の話だ。

囲まれても怯むことがない魏延に、冷苞は苛立ちを覚える。


「いきがっていられるのも今のうちだ。撃て」

その命令で弓隊の一斉射撃が始まった。四方から放たれる矢に、逃げ場がないように思われたが、何とか囲みの薄い場所を見つけると、そこめがけて魏延は突撃する。


必死の抵抗で、何とか砦から、命からがら逃げ出すことができた。だが、そんな魏延に追い討ちをかけて来る別動隊がいる。

よく見れば、反対の砦にいるはずの鄧賢だった。


劉巴によって、自分の行動が読まれて、このような罠に嵌められたかと思うと魏延は、歯噛みをせずにはいられない。

だが、今は敵砦から脱出してきたばかり、息と態勢の両方を整えるための時間が必要だった。


逃げる魏延に追う鄧賢。

勢いが僅かに鄧賢の方が上で、ついに追い付かれると思われた時、糸を引くような鋭い一矢が飛んできた。その矢は見事、鄧賢の左手を射抜いたのである。


その矢を射たのは、刻限通りに出陣していた黄忠だった。

「文長、しっかりせい」


出し抜こうとした黄忠に助けられ、魏延は面目を失う。

そんな魏延を尻目に黄忠は、鄧賢軍を追い払うと、作戦通り、冷苞の砦に攻撃を開始するのだった。


ここで魏延を討つために、躍起になっていた冷苞は、黄忠の対応に出遅れてしまう。

鄧賢が怪我で戦線離脱する中、冷苞が踏ん張らなければないのだが、黄忠の猛攻に耐えられないのだ。


瞬く間に砦を制圧されてしまう。今度は冷苞が、慌てて逃げ出す番となった。

冷苞の砦は、黄忠が制し『黄』の旗が立てられる。


「ちっ、老将軍に手柄を取られたか」

それを見ていた魏延が、思わず舌打ちをした。


自分の隊の損失を確認し、被害が二割ほどだと知ると、まだまだ戦えるという見込みがたつ。

では、鄧賢が出張って来ため、空となっているはずの砦を落とそうと動き出した。


静かに山中を行軍していると、不意に軍馬の音が魏延の耳に届く。

動きを止めて、様子を見ると、それは逃げ出している冷苞軍だと分かった。


この発見に魏延は、内心、小躍りする。

先ほどは、煮え湯を飲まされたが、早くも失点を取り戻す機会を得たからだ。


しかも、従えている兵の数は魏延軍より少ない。これを見過ごす手は、まったくなかった。

慎重に近づきながら、一気に襲撃する。


「冷苞よ、先ほどは、散々、言いたいことを言ってくれたな」

「くっ。くそ」


思わぬ敵兵に、冷苞軍は慌ててしまい立て直しがきかなかった。

率いる将が、あっさりと、魏延に囚われてしまうのである。


士気を盛り返した魏延が、そのまま、動き出そうとしたとき、鄧賢の砦から煙が上がるのが見えた。

どうやら、味方の軍が砦を落としたらしい。


両砦が落ちれば、今回の作戦は終了。

魏延は捕らえた冷苞を連れて、自軍本陣へ報告のために戻るのだった。



魏延が本陣に戻ると、すでに戦果報告が始まっている。

第一の功は、やはり黄忠だった。

予定通り、冷苞の砦を奪ったのだから、それは仕方がない。


今回の第一功は黄忠だと、素直に認めて自分が報告する番を待っていた。

すると、黄忠は恩賞を受け取った後、退き下がらずに、鋭い視線を魏延にぶつけてくる。

今朝の魏延の振る舞いを問題視したのだ。


「このような勝手、抜け駆けを認めていては、信を置いて戦えませぬ」

その訴えを聞いていた劉備は、もっともなことだと思う。ただ、実は今回、その魏延の先行は、龐統の予測の範囲であり、それも込みで、作戦を立てていたのだ。


そのおかげで、空になった鄧賢の砦を、劉封と関平が簡単に落とすことができたのである。

魏延が勇み足すると分かっていながら、放置していたのは、他ならぬ劉備ら首脳陣なのだ。


これで、厳罰を与えるのは、少々忍びない。とはいえ、何かしらのけじめは必要だろう。

劉備は、魏延を近くまで呼んだ。


「文長、何か申し開きはあるか?」


魏延は、今朝の失態については、冷苞を捕らえたことで相殺、うまくいけば逆に恩賞をもらえると皮算用していたが、その目論見が外れたことに気を落とす。


「私が若輩者ゆえ、時刻と場所を違えました。漢升殿には、ご迷惑をかけ申し訳なく思っています」


魏延は、そう謝罪するが、若輩者と言えば、何でも許されると思うなと、老将は憤りを示した。確かに、この言い訳で納得しろというのは、無理がある。

ただ、あまり長引かせて両者の関係が険悪になるのだけは避けなければならなかった。


「文長、まだあるだろ。もう一言、詫びろ」

劉備の問いかけに、鄧賢の件だと察した魏延は、すかさず黄忠に対して、頓首とんしゅする。

頓首とは、頭を地につけるようにして拝礼することだ。


「漢升殿の矢がなければ、某の命はありませんでした。この通り、感謝いたします」

「う、うむ」


若者を見下ろす黄忠の表情が、苦笑いに変わる。

ここまでされては、黄忠も矛を収めるしかなかった。あまり、しつこいようだと、年寄りが若者いじめをしているように映ることだろう。

続けて、劉備は納得させるため、黄忠だけにネタばらしを行った。


「そういう事でしたら、致し方ありますまい。文長は、文長で自分の役割をこなしたとも言える」

「漢升、すまないが理解してくれ」

「承知いたしました」


黄忠が下がると、改めて魏延を呼ぶ。

いつもの元気はなく、しなだれているのは当たり前のことか。


そんな魏延に劉備は、冷苞を捕まえたことに関しては、一定の評価をしていると告げる。

それで元気が出るのだから、現金なものだ。

但し、締めるところは締める。


「以降、勝手な行動は慎むように」

「もう懲りました。天地神明に誓います」


その誓いを受け取ると、劉備は魏延を下がらせた。

続いて、劉備の前に出てきたのは、捕虜の身となった冷苞である。


冷苞は、じっと目を閉じて、何も語らなかった。

口汚く劉備を罵るかと思っていたが、そうしないところ、すでに諦めているのかもしれない。


「冷苞とやら、何か言い残すことはあるか?」

「私、囚われてから、劉皇叔の前に引き出されるまで、ずっと考えておりましたが、劉璋さまでは、この乱世を生き残れないという結論に至りました」


突然、何を言い出すかと思えば、冷苞は帰順を申し出てきたのだった。

勿論、戦争を仕掛けたのは劉備の方だが、だからと言って、益州の全ての将を殺すつもりはない。

降伏するという者がいれば、全て受け入れるつもりだ。


ただ、それが偽りない降伏であればの話。

この冷苞の話し方は、どうも見ても胡散臭い感じがした。


しかも、この男、自分を解き放ってくれたら、涪城にいる張任と劉璝を説得し、劉備に帰順させてみせるとまで、言うのである。

もう怪しさを叩き売りしているのかと思うほど、いかがわしさに満ち溢れていた。


「本当に、そんなことが可能なのか?」

「はい。涪城を守る張任と劉璝は、私の親友でございます。必ず彼らを説き伏せて参ります」


冷苞は真剣な表情で、訴え続ける。だが、強く言えば言うほど、その言葉は、劉備の顔をするりと滑り抜けていった。

どう返答したらいいか、考えている劉備に龐統が耳打ちする。


「この男、逃がしたところで、大した問題じゃない。むしろ仁君であるところを広めるために利用した方が面白い」

その言葉に、なるほどと劉備は納得した。

龐統が、そう言うのであれば、本当に問題がないのだろう。安心して冷苞を開放した。


「それじゃあ、二人の説得、頼んだぜ」

「しかと」


冷苞は劉備から馬を与えられると、わき目もふらず涪城へと駆け出す。

その姿は、どう見ても、逃げ出す逃亡犯のようだったため、劉備は笑いをかみ殺すのに必死になった。


「まぁ、これで傷がつくのはあいつの名だけだ。好きにするがいいさ」

劉備は、すでに冷苞の件は、なかったものと考えている。

厄介な砦は、占拠したので、残すは本城だけとなった。


戦果報告が終わった後、涪城攻略について、龐統、法正と話し合う。

軍議の中、劉備は、ふと自陣近くを流れる涪江ふこうの流れに目を移した。


ゆるやかに流れる水面が、きらきらと光を反射して美しい。

この水が長江に合流し、荊州に着く頃には、涪城は落としているだろうか?

劉備は、ふと、そんな考えに浸るのだった。

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