第181話 珍客からの助言
冷苞が劉備陣営を去った後、しばらく経っても涪城に変化は見られない。
もともと当てにはしていなかったが、冷苞という人物の底が知れた。
劉備に話した通り、敵として戻ったとしても冷苞ごときは、いないのと一緒である。
涪城攻略のための話合いでは、対張任に関することが、話の中心となった。
結論としては、張任の力を発揮させないように仕向けることが肝要ということで、本日の軍議が終わる。
その後、法正とも軽い打合せを行った龐統は、それらをまとめておこうと自身の天幕へと戻った。
何気なしに龐統が天幕の入り口を開けると、床に寝そべる大男がおり、思わず声を上げそうになる。
死体が転がっているのかと、一瞬、思ったが耳を澄ますと寝息が聞こえた。
どうやら、ただ寝ているだけのようである。
しかし、このような不審者の侵入を許すとは、衛兵は何をしていたのだろうかと眉をひそめた。
この大男を観察すると、身長は八尺と長身で髪の毛が、やたら短い。
首の周りだけが白く日に焼けていないところを見ると、近頃まで
髠鉗の刑とは刑罰の一つで、髪の毛を剃られ首に鉄の首枷をつけられる。罪の重さにもよるが基本、五年間の労役に服する刑のことだ。
そうなると本物の不審者という目が強くなる。
龐統が衛兵を呼びに行こうとした時、その大男が目覚めて身を起こした。
「あんたが龐統士元さんかい?」
「いかにもそうだが、そういうあんたは誰だい?」
大男は、龐統の問いかけにあくびで返す。この尊大な態度に、もしやただ者ではないのかもしれないと、龐統は考え直した。
「食事をくれたら、何かいいことを話すかもしれない」
「かもしれないってのは、確定じゃないってことか。・・・さて、どうしようかねぇ」
「屁理屈を言ってないで、早く食事を出せ」
罪人上がりが生活に困窮したという、ただの
もし見込み違いであれば、後で追い出せばいいだけの話なのだ。
言われるまま食事を用意し、この大男に与える。すると、貪るように食事にありつくのだった。
食事を終えた、この大男が何を語りだすか待っていると、再び、眠りこけてしまう。
これでは、さすがに埒が明かないと判断した龐統は、法正を呼ぶことにした。
法正であれば、益州の人物に詳しいはずである。
この珍妙な居候が、著名な男であれば、その知識の網に引っ掛かるはずだ。
すると、慌てた法正がすぐにやって来る。
その様子に何事かと尋ねると、人を探していたところで龐統の話を聞いて、もしやと思ったということらしかった。
「おそらく法正殿の探し人は、こいつじゃないか?」
であれば、この人物ではないかと、床に寝そべる男を指さす。
すると、まさしくその言葉通りだった。法正は、いたたまれない気持ちになって、龐統に謝罪をする。
この大男は、実は法正の客人だったのだ。
法正と一緒に歩いていれば、陣中で衛兵に捕まることはない。
隙を見つけて、龐統の天幕の中に潜り込んだのであろう。
これで、この男が簡単に入り込めた理由が判明する。
「これ
永年と呼ばれた男は、瞼をこすりながら自分を起こす人物を認めて、正気を戻した。
「何だ、孝直ではないか」
「何だ孝直ではない。お前は、誰の天幕に居座っていると思っている」
「この軍の軍師だろう。分かり切ったことを聞くな」
法正の前でも横柄な態度を崩さない。どうやら、龐統の前だけ、虚勢を張っていたわけではなさそうだ。
「法正殿、この永年という方を紹介してもらえるかい」
何か重要な情報を握っていることをにおわせている。もう少し、腹を割って話し合う必要があるだろう。
そのためには、この男のことを知らなければならない。
「これは、失礼いたしました。この男の名は
それが、この髠鉗の刑というわけだ。彭羕といわれた男は、短くなった頭を撫でまわしている。
「ただ、能力だけはございます。その力を認めた僅かな人物とだけ、今も交際を続けているのです」
「ってことは、法正殿は、彭羕殿を認めているってことかい?」
「まぁ、本意ではございませんが・・・」
不承不承といった法正とは反対に彭羕は、ニヤリと笑った。
対照的な表情だが、お互い評価し合っていることは十分に分かる。
「それで、彭羕殿。何か伝えたい情報があったようだが」
「ああ、そうそう。今、あんたたちは死地にあることを理解しているかい?」
ことさら自然に話すが、死地とは非常に大きな言葉が飛び出した。
現在、何かが危険という状況には思えないが、法正が認める男の発言である。
ただの虚言とも思えない。
「死地ってのは、この陣取る場所ってことかな?」
「俺は、そう言っている」
龐統は法正に顔を向けるが、理解できないようで首を振った。
敵の増援が来たという情報はない。攻撃の危険からくる死地ではないとしたら、この場所自体に意味がありそうだ。
だが、確認するも益州の土地柄に詳しい法正ですら気づいていない。
「もっと、詳しく話してもらえると助かるんだが」
「ふん。孝直よ、腕が鈍ったか?涪江の水位をよく確認してみろ」
彭羕の言葉にはっとした法正は、天幕を飛び出すと本陣の西側に流れる涪江を確認しに行った。龐統も後を追う。
「・・・これは、私としたことが・・・」
「何か問題があったのかい?」
法正は頷くと、この時期にしては涪江の水位が低いというのだ。
このことを意味するのは、上流側に堰を築いている可能性があるという。
「もし、涪江が氾濫を起こしたら、どうなるんだい?」
「ここら辺、一帯、水の底になってもおかしくありません」
その言葉を聞いて、龐統はぞっとした。涪城はやや小高い場所に築城されているため、水害は免れるという。
これは、明らかに蜀陣営が何かを仕掛けていると思って間違いないだろう。
敵の策略、堰を決壊する前に処理しなければならなかった。
では、相手が動くのはいつであろうか?
龐統が顎に手を当てて考え込む。
「やはり、明日の夜かねぇ」
龐統の呟きに彭羕が驚いた。軽く舌打ちも混ぜる。
「何だ、ここじゃあ、俺をあまり高く売り込めなさそうだな」
「いや、そうでもない。後で殿に紹介しよう」
明日の夜とは、堰を決壊するであろう刻限のことだ。龐統が、そのことをなぜ予想できたかというと、明日の正午過ぎから、雨が降り出すことを天の運行から予測できていたからである。
ならば、敵は最大限の成果を上げるために、水かさが増した夜に策を決行するのは、考えるまでもないことだ。
とりあえず、敵の手が読めた龐統は、その対策を打つことにする。
その前にまず、彭羕を連れ立って、劉備の元へ報告に向かうのだった。
「駄目だ」
劉備は出された献策を即座に却下する。その言葉を聞いた彭羕は、拗ねたようにそっぽを向いた。
龐統と法正の紹介があり、彭羕を採用するという
そして、具体的な方法が、こちらも堰を打って、涪城を水浸しにすることだと説明すると、即座に劉備が否決したのだった。
彭羕の案を一蹴した理由としては、水攻めを行った後、城内の民の暮らしが悲惨なものに変わることを知っていたからだ。
しかも、復旧にも、相当時間を要することは、下邳城での体験で理解している。
そんな民を苦しめる策を採用するわけにはいかないのだ。
劉備の戦いは涪城をとって終わりではない。
民から多くの恨みを買う作戦を選択すれば、これからの戦、より抵抗が激しくなるだろう。
また、この後の統治のことまでを考えると、民の生活を脅かす方法は上手くはないのだ。
その意見には龐統も概ね賛成だが、彭羕は違う様子。
まだ、ぶつぶつ文句を言っているため、劉備は「俺は、こういうやり方で蜀をとる。気に入らないのなら、野に戻ってもらっても構わない」と断言する。
「いや、分かりましたよ」
やっと手に入れた職を手放したくない彭羕は、無理矢理にでも納得するのだった。
「それじゃあ、実際に堰を決壊するために出て来たところを叩きましょうか」
龐統が手頃な次策を述べたため、劉備は頷く。
水攻めは、予定しての行動ではなく天候に合わせて、明晩の実行を決めるはずだ。
であれば、用意周到に動くとは思えず、綿密に罠に嵌めれば、一気に涪城の奪取にまで漕ぎつけると龐統は言う。
早速、黄忠と魏延を呼んで、作戦を伝えた。
解散間際、黄忠が意味深な視線を魏延に送ると、「分かっていますよ」と少しむくれる。
勿論、抜け駆けの件を言っているのだが、からかわれていることに気づいたため、魏延のこの態度なのだ。
「いや、年寄りだけに老婆心というのは、すぐ働くのでな」
「年寄り扱いもしないので、もう勘弁していただきたい」
黄忠相手に魏延が白旗を上げる。戦前だというのに和やかな空気が流れた。
二人の関係性、劉備が懸念していたことにはならなさそうである。
「それじゃあ、よろしく頼む」
劉備の一言に、黄忠と魏延が拱手で応えた。
一礼の後、そのまま、二人は立ち去る。
年長者と若者が手を取り合い、作戦を遂行するようになれば、劉備軍の力はますます強固になるはずだ。
そんな期待を込めて、劉備は二人を見送るのだった。
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