第182話 呉懿の帰順
正午から降り続く雨。夜になっても、その雨足は衰えることがない。
天を見つめた張任と呉懿は、互いに頷き合うのだった。
「今こそ、涪江上流の堰を決壊させるべきかと思うのだが」
「全くの同意です。すぐに手配いたしましょう」
この涪城防衛の総大将は張任だが、呉懿には気を使い、常に作戦協議を持ちかける。
呉懿は、妹が劉璋の兄・
但し、それが因で、張任が呉懿に敬意を払っていたわけではない。
外戚という立場でありながら、一切、鼻にかけることはなかった。いち将軍としての立場を貫き、謙虚な姿勢を崩さない。
そんな呉懿の態度が立派だと感銘を受けていたのだ。
張任、呉懿の意見が一致し作戦の実行を取り決める。
今夜こそ、涪江の上流に設置した堰を取り壊す時となった。
作戦の実行だが、前回の戦闘で負傷した鄧賢は動くことができず、敵陣から脱出してきた冷苞と劉璝が務めることになる。
雨足が気持ち強まる中、二人は、五千の部隊を率いて、密かに涪城を出るのだった。
雨で視界がかなり悪い中の行軍は、進むだけでも困難を極めたが、ようやく堰を仕掛けた場所に到達する。
そして、破壊工作に入ろうかと思った矢先だった。
突然、敵の強襲を受けるのである。
「馬鹿な」
行軍途中、この天候のため、斥候には細心の注意を払ってきた。
つけられて来たということは、絶対ないはずである。
冷苞は、敵の攻撃を受けることを理解できずにいた。
「そこにいるのは、恥知らずの冷苞か」
「ぎ、魏延」
深く思考を巡らす間もなく、戦場でもっとも出会いたくない相手に冷苞が遭遇する。それは自身の後ろめたさから出た感情だった。
「どうして、ここが分かった?」
「お前らの作戦など、うちの軍師はとっくにお見通しだ。今日の夕刻から、ここで待ち伏せていたというのに、なかなかやって来ないから、すっかりびしょ濡れになってしまったではないか」
魏延の言葉を額面通り受け取れば、冷苞を尾行したのではなく、先回りして、待ち伏せしていたことになる。
なぜ作戦がばれたのか?今日の決行は前もって決めていたわけではない。
「馬鹿な」
冷苞は、思わず本日、二回目の同じ台詞を吐くのだった。
「世の中、頭のいい奴はいくらでもいるってことだ。考えても仕方あるまい」
魏延に攻め込まれると、冷苞隊は総崩れとなる。乱戦の中、冷苞は魏延に討たれるのだった。
もう一方の劉璝隊だが、こちらは黄忠が対応している。
残念ながら劉璝は取り逃がすことになったが、肝心のものは手に入れることに成功した。
魏延と黄忠は、龐統の指示に従い、そのまま涪城に向かって行軍する。
本日で、涪城の攻防戦に終止符を打つつもりだった。
涪城の物見が、『冷苞』と『劉璝』の旗を認める。
雨で視界が悪くなって、詳しくは分からないが、旗指物だけは、しっかりと見えたのだ。
味方が帰って来たと思った城兵は、すぐに門を開ける準備にとりかかる。
この雨の中、任務に走った味方にとりわけ同情し、開門作業を急ぐのだった。
門が半分以上、開かれた時、見回りをしていた呉懿が異変に気付く。
冷苞と劉璝が帰って来たというのであれば、付近、一帯が水浸しになっていないとおかしいのだ。
「門を閉めろ」
そう叫ぶが、後の祭り。冷苞、劉璝軍に扮した魏延と黄忠の部隊が、開いた門から城内に突入するのである。
完全に虚を突かれた守備兵は、浮足立って、本来の力が発揮できずにいた。
次々と兵たちが討たれ倒れていくと、張任はたまらず涪城を捨てて退却するのである。
まだ怪我が癒えていない鄧賢も、張任の後を追って逃げ出した。
結局、最後まで城に残ったのは、呉懿だけとなる。
呉懿は楼閣に立て籠もって、矢で応戦するも、戦況はかなり厳しかった。
僅かながら意地を見せることができたが、矢が尽きたところで、打つ手がなくなったのである。
攻め手が迫り、自害する間もなく、呉懿は捕まってしまった。
すると拿捕された呉懿を、奪還しようと追いかけて来る将が二人ほど現れる。
それは、呉懿配下の
そこに黄忠と魏延が、二人の思惑を阻止しようと登場した。
呉懿の配下、二人は、なかなか鋭い攻撃を見せるも、所詮、黄忠や魏延の敵ではなく、この二人も、あえなく捕らえられてしまう。
最終的に、仲良く三人で劉備の前に引っ立てられるのだが、それは城が完全に落ちた後のこと。
涪城の城主の間で、蜀将の三人は敵の総大将と対面を果たす。
若者二人は、口汚く劉備を罵るが、呉懿は現実を受け入れているのか黙ったままである。
その様子に、劉備は、ただ者ではないと感じるのだった。
この三人の処遇をどうすべきか、劉備は頭を悩ませる。
同じく捕らえた冷苞を見逃した結果、約束を反故された経緯があったためだ。
そんな劉備に助言するため、法正が耳打ちする。
「この呉懿将軍は、殺すに惜しい人物です。どうか寛大な処置をお願い致します」
法正の人を見る目は確かだ。ここまで言う以上、ひとかどの人物なのだろう。
劉備は仕方ないと、雷銅と呉蘭を下がらせて、呉懿だけを残した。
一人となった呉懿の前に立つと、劉備は膝を折って目線を合わせる。
「呉懿将軍、あんたの目に俺は、どう映っている?」
その問いに呉懿は無視を決め込んでいた。ところが、あまりにも真剣な表情で問いかける劉備を前にして、ついにその固い口を開く。
「私の目に映るのは侵略者だ。・・・ただ」
「ただ?」
「同族の土地を奪おうというのに、どうして、あなたの目には迷いも狂気すらも宿していないのか?」
呉懿は、目の前にいる男が欲望まみれの男であれば、口汚く罵ってやろうと思っていた。ところが、それが劉備には、一切、当てはまらない。
それが不思議でならないのだ。
「俺にはやるべきことがある。確かに始まる前は大いに迷ったが、こうなってしまった以上、目的のために進むのみ。余計な感情が入る余裕がないだけなんだろうな」
「そのやるべきことが益州を奪うことですか?」
「いや、漢室を助けることと言えば、ありきたりに聞こえるかもしれないが・・・俺には、その責任があるんだ」
劉備は皇室に連なるとはいえ、今の天子とはかなり遠縁だったはず。それならば、自分の主君である劉璋の方が、まだ、近い。
その劉璋ですら漢室を見限っている感があった。劉備がそこまで責任を感じる必要があるとは、呉懿には思えない。
よく劉姓の者が、通り一遍に言う台詞とも違う印象を受けた。
「そこまで、思い込む理由が、私には分かりません」
「これは、あまり人に言ったことがないが、実は曹操に天子奉戴を薦めたのは俺なんだ。だから、漢室を見守っていく責任が、俺にはある」
これは、世間には広まっていない話。呉懿は勿論のこと、龐統すら知らない話だ。
劉備は、そのために曹操に対抗する力を求めていると続ける。
「これは俺の個人的なことで、そこに正義も大義もないのは分かっている。だが、俺には益州の土地と民が、どうしても必要なんだ」
「侵略者のあなたが、土地はともかく民の心まで奪えるとお思いか?」
「勿論。じゃなきゃ、俺は今、ここにいない」
自信たっぷりの劉備の姿に、呉懿は大きな嘆息を漏らした。
実は益州の民は、東州兵と地元豪族の対立で、恐々としながらの生活を送っている。
ただ、劉璋の政治が悪政とは言えないだけに、表立って不平を言えず、我慢の日々が続いていたのだ。
だが確実に、その現実を憂う者たちがおり、まぎれもなく呉懿は、その内の一人だったのである。
「では、劉備殿は東州兵と豪族の争いを止めることができますか?」
「できる」
「益州の民を安んじることができますか?」
「できる」
その言葉を聞いた呉懿は、満足して自分の首を劉備の前にさらす。
「安心して、旅立つことができます」
「いや、そいつはしばらく延期してくれ」
そう言うと、劉備は呉懿の縄目を解くのだった。
近くにいた衛兵などは身構えるが、龐統と法正が刀を収めさせる。
「これは、どういうことでしょうか?」
「俺の仲間になってくれ」
「まだ、承知しておりませんぞ」
呉懿が立ち上がると、逆に劉備は座り込んだ。
気に入らなければ、好きにしろと言わんばかりである。
すると、突然、呉懿が笑い出した。
「参りました。ご自身の野望は、どうあっても譲らない姿勢をみせるのに、ご自分の命は、何故、こんな簡単に投げ出せるのですか?私には到底、理解できません」
「俺は稀代の人たらしらしい。行動原理は、俺にも分からんさ」
呉懿は、もはや承服するしかない。劉備と自分では、格が違い過ぎるのだ。
この人物が、どう益州を塗り替えるのか。
その世界を見てみたいと思ったのだ。
「承知いたしました。よろしくお願いいたします」
これで劉備は呉懿を説得し、配下とすることができたのである。その呉懿から、早くも提案があり、一緒に捕まった雷銅と呉蘭を責任もって、説き伏せて味方にするというのだ。
劉備は二つ返事で、任せる。間もなくして、雷銅と呉蘭から、臣下となるべく挨拶を受けるのだった。
ここに涪城を落とし、呉懿、雷銅、呉蘭という新しい仲間も得ることにも成功する。
成都にたどり着くまでの要所は、あと二つだ。
綿竹関と雒城である。
劉備は、軍をまとめると次の綿竹関へと駒を進めるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます