第183話 名将の帰順
新たに呉懿、雷銅、呉蘭を加えた劉備軍は、次なる関門、綿竹関を目指した。
呉懿の情報から守るのは、
「益州には、さしたる将はいないと言われておりますが、そんなことはありません。私の知る限り、張任殿と
「それほどなのか?」
「はい。彼らであれば、他国に行っても最前線の一軍を任されると思われます」
呉懿が、ここまで言うのだ。李厳の実力は、相当なものなのだろう。
心して攻め込む必要がある。但し、その辺は龐統に全て任せているため、劉備は大船に乗ったつもりでいた。
その龐統は、「では、李厳の実力を図りたい」と、黄忠に先鋒を任せて、何やら指示を与えている。
黄忠は三千の兵を伴って、綿竹関の前に立った。
「儂は劉備軍先鋒の黄忠だ。潔く、降伏するというのであれば手荒な真似はしない。返答や如何に?」
すると綿竹関の門が開き、五千の兵が現れる。威風堂々とした将が先頭におり、あれこそが李厳かと劉備は推測した。
しかし、綿竹関の総大将が、そんな簡単に戦場に出て来るものかと訝しむのである。
「この綿竹関の主将は費観の方です」
劉備の疑問に呉懿が答えた。費観は呉懿と同じく劉璋とは縁戚関係にあるのだという。
しかも聞くと娘婿だというから、相当、期待をされた人物なのだろう。
だが、李厳の方が将器は、はるかに上ですと呉懿は繰り返した。
李厳は、元々、荊州に住んでいたのだが、劉琮が降伏した際、曹操に仕えるのを嫌って益州に避難したのである。
つまり外様の将であったがために、能力はあっても費観の下についているのだそうだ。
「そう気色ばまずとも、この李厳がお相手いたす。黄忠将軍、お久しぶりでございます」
「うむ。五、六年ぶりか?久しいな」
二人が挨拶している様子に、先ほどの呉懿の説明を劉備は思い出す。
荊州でともに劉表に仕えていたというのであれば、面識があってもおかしくなかった。
「未だ現役なのには、驚きましたよ」
「ふん。まだ、腕は衰えておらん。それより、ひよっこがどれほど、成長したか試してやろう」
「あまり無理すると、冷や水を飲むことになりますぞ」
両軍の兵が見守る中、両雄の一騎打ちが始まる。得物は、ともに薙刀であった。
一合目を合わせて、互いに視線が近くでぶつかる。口元がやや綻んでいたのは、軽い挨拶を交わしただけだからだ。
二合目から、本番が始まる。
三合、四合と打ち合うごとに激しさを増していった。
僅かに黄忠の方が優勢に見えるが、それでもよく李厳がついていっている。
五十合、打ち合ったところでも決着がつかず、龐統が引き上げの合図を送った。
李厳の力量を十分に把握したのだろう。
この退却の合図に、黄忠は悔しがるが、主命は主命。
年長者として軍律を守る大切さを下に示すという矜持を持っており、素直に従うのだった。
「
「相変わらず、お固い考えですね。承知しました、後日、改めましょう」
黄忠が退くことを伝えると、李厳も無理を言ってこない。
物分かりが良く、黄忠の性格を熟知しているため、挑発などをしても乗ってこないことを分かっているようだ。
黄忠が無事に本陣まで戻ってくると、退却の理由を龐統に尋ねる。従いはしたとはいえ、どうやら不満を溜め込んでいる様子だ。
「もう少しで、正方の首がとれたところ。いかなる理由で退却を命じられたのか?」
「確かにあのまま戦っていれば、将軍が勝ったと思いますよ」
「ならば」
黄忠が詰め寄るが、龐統は軽くいなす。一騎打ちに勝つことが目的ではなく、綿竹関を落とすことが一番の目標だと伝えたのだ。
そう言われると黄忠も黙るしかない。
「それにね。あれほどの将であれば、ぜひこちらに側に引き込んでおきたい。そっちの方が本音かな」
龐統が観察した結果、それほどの価値がある男と見込んだようだった。
そこで、龐統が黄忠に深々と頭を下げる。
「李厳を捕らえるためには、将軍の顔に泥を塗る行為を命じなければならない」
「それは、どのような事かな?」
「一騎打ちの途中で、逃げ出してほしい」
近くにいた劉備は、この二人のやり取りをやきもきしながら聞いていた。
誇り高い黄忠が怒り出すのではないかと、気を揉んだのである。
そんな劉備の様子も視界に入っているのか、黄忠は考え込んだ後に天を仰いだ。
そして、承諾するのである。
「それで綿竹関を落とせるのであれば、この黄忠、どのような恥辱にも耐えましょう」
「ありがたい。まさに将軍には
淮陰侯とは、漢の三大功臣の一人、韓信のことである。
彼に関しては、様々な逸話が残っているが、その中でも有名なのが『韓信の股くぐり』だろう。
若き日に町のごろつきと揉めたことがあった韓信だったが、その頃から、胸に大志を抱いていた。余計な仇持ちになることは、その志の邪魔になると考えたため、あえてその男を斬らずに股をくぐって、その場を収めたのである。
その後、韓信は大成し、劉邦の天下統一に大きく貢献したことは、周知の事実だ。
大きな目的達成のためには、小さな恥辱など受け流す。そのような大きな度量が黄忠にもあると、龐統は最大級の賛辞を送ったのだ。
持ち上げられた黄忠は、不満を解消し龐統に詳しい作戦を確認する。
そして、翌日を迎えるのだった。
再び、綿竹関の前に黄忠が立つと、間を置かず李厳が現れる。
昨日の一騎打ちの続きが始まるのだった。
両者の均衡が崩れたのは、三十合を過ぎたあたり、黄忠が手にしていた薙刀を弾かれてしまったのである。
得物が地に落ちた瞬間、黄忠は馬を返した。
「くそ」
「昨日の疲れが残っていましたな。老将軍、お待ちあれ」
逃げる黄忠を李厳が追う。作戦通り、最初から逃げる気でいた黄忠を李厳は、なかなか捕まえることができなかった。
追い続けて、黄忠が消えた茂みに李厳が入ったところ、目の前に突然、網が飛び出す。
罠と気づいても、さすがに急には止まれない。そのまま、網に搦めとられるのだった。
「くっ、こんな手に引っ掛かるとは・・・」
今回ばかりは、黄忠と知り合いだったことが裏目となる。あの自尊心の強い黄忠が、このような作戦をとるとは、想像もしていなかったのだ。
悔しがる李厳の前に、黄忠が現れる。
「すまんな、正方。お主の力量を見込んでの作戦だ。許せ」
「私の力量とは?」
「詳しいことは、主君劉備さまから、お言葉がある。ついて来てくれ」
縄目姿だが、李厳はそのまま、劉備の前に引き出された。
そこで李厳が目にしたのは、中央に座する劉備とその脇に立つ軍師・龐統。
それと、最後に目が止まったのは、呉懿の姿である。
行方知れずと聞いていたが、あの呉懿が投降していたことに、李厳は、驚きを隠せなかった。
更に驚かされたのは、脇見をしていた李厳の前にいつの間にか劉備本人が近づいており、自らの手で縄を解いたのである。
「その姿じゃあ、ゆっくり話もできないだろう」
「私と話がしたいのでしょうか?」
「ああ、はっきり言うが俺に降ってくれ」
いきなり、直球で核心をついたことを劉備が口にした。
何と答えていいか李厳は迷うのだが、迷っている時点である程度、答えが出ているようなものである。
劉備は、李厳が納得しやすい言葉を選んで、説得を続けた。
「益州の民を安んじる。季玉殿の命を奪うような真似はしない。この二点は必ず約束する。他に条件があれば、何でも言ってくれ」
「何でもでしょうか?」
「ああ、何でもだ」
李厳は、しばらく考え込んで、一つだけ条件を追加した。
それは綿竹関にいる費観についても、投降を認めてほしいというのである。
しかも、自分が説得に行くので、綿竹関に帰してくれというのだ。
実は李厳は、冷苞が同じ手口で涪城に戻ったことを知っている。
果たして、劉備はどう返答するのか?
それでも李厳を信じて、綿竹関に戻っていいと言う度量を劉備が示すのであれば、付き従おうと思ったのだ。
すると、劉備はにこりと笑う。
「費観殿を説得してくれるのは、助かる。ぜひ、頼む」
迷うことも躊躇うこともなく、李厳の提案を了承した。
もう自分の主君は、劉備しかいないと李厳は決めたのである。
綿竹関に戻った李厳は費観を説得する。
劉璋の娘婿だけあって、簡単に首を縦に振らなかったが、李厳は誠意を持って説得を続けた。
「私の見たところ、劉備殿は本物の英雄だ。いずれ、曹操の手が益州に伸びても劉備殿なら、きっと守ってくれる」
「劉璋さまでは・・・、いや、卑下することは言及したくない。正方殿がそう見たのなら、きっと、そうなのでしょう」
元々あった二人の信頼関係と劉備が李厳に出した二つの条件、人格者である呉懿まで帰順している事実が後押しとなって、費観もついには劉備の軍門に降ることを了承する。
二将の降伏により、兵を損することなく綿竹関を落とすことができた。
これで残る要所は雒城のみとなる。
劉備は成都へと、また、一歩、近づいたのだった。
そして、運命のいたずらも大きな口を広げて待ち構えているのだが、この時の劉備には知る由もない。
ただ、希望が近づいていることだけに気持ちを弾ませるのだった。
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