第161話 甘露寺の奇跡
劉備は、自分の屋敷に戻って来た喬国老から、明日、甘露寺という寺院で孫尚香の母親である呉国太と会っていただきたいとお願いされる。
城内で、今回の婚姻についての話合いが行われ、その結果、一度、呉国太が劉備を見分するということになったようだ。
丁度、劉備が喬国老の屋敷に滞在していると知った孫権に、この言伝を頼まれたとのこと。
喬国老は、固唾をのんで劉備の返答を待った。
勝手に話を進めたが、劉備に断られるということを屋敷に着くまで考えてもいなかったのである。
喬国老は、安請け合いしたのを悔やむが役目は、役目。全うしなければならなかった。
劉備としては、心情的には断りたいが受けざるを得ないとと思っている。
それは、喬国老から聞いた情報を整理すると、孫権、孫尚香、呉国太、三人とも意見が微妙に違うように思えたからだ。
ばらばらに動かれて、それぞれに対応するより、一度で済ませた方が後腐れのないような気がする。
要は、面倒事は一度にまとめたいのだ。
「承知しました。明日、甘露寺ですね」
「いい返事をいただいて助かりました。よければ、このまま当家に滞在していただいて、明日の迎えを待っては、どうでしょうか?」
「それでは、ご迷惑でなければ、ご厄介になります」
その夜、軽い接待を受けて、劉備は早めに休む。
最初は、孫権に一杯食わされた感じがしたが、予定通りにいっていないのは孫権も同じ。
さて、ここで劉備には選択肢が二つあった。
それは、呉国太に気に入られるように振舞うか否かである。
どちらが、自分にとって都合がいいのだろうか?
自問していると、不意に簡雍が劉備にあてがわれた部屋に入って来た。
「どうした?」
「いえ、今頃、きっと、どっちが得かなぁなんてくだらないことを考えているだろうと思いまして」
「くだらなくないだろ。大事なことだぞ」
劉備は反論するが、長い付き合いの簡雍。
今までの経験談を延々と説く。
「大将が、余計なことをごちゃごちゃ考えるときは、得てして失敗することが多いのですよ。自然体が一番です」
一部、納得できない過去の話もあったが、概ね、簡雍の言う通りだった。
どうやら、劉備は変に策を弄しない方がうまくいくことが多いようである。
この辺は、諸葛亮にも真似ができない、今まで近くで劉備を多く見て来た簡雍だからこそ、できる助言であった。
「分かったよ。とりあえず、何も考えずに呉国太さまとやらに会うことにするわ」
「そうして下さい。では、私はこれで」
言いたいことだけ言って、簡雍は劉備の部屋を去る。
だが、簡雍のおかげで変な気負いはなくなった。
どうやら、ぐっすり眠れて、明日の会見を迎えることができそうである。
肩の力が抜けた劉備は、いつの間にか眠りについていたのだった。
翌朝、身支度を整えて、劉備は甘露寺の敷地の中に足を踏み入れた。
目ざとい護衛の趙雲は、そこかしこに兵が伏せられていることに気づく。
すぐに劉備に耳打ちするのだった。
まぁ、その程度のことは劉備も織り込み済み。慌てることはなかった。
逆に、程よい緊張感を劉備に与える。
いつ襲われても動じないように堂々とし、余裕を誇示するため笑顔も見せた。
これが事情を知らずに見た者に好印象を与えたようである。
『温にして
まさに当代の英雄、ここにありという感じであった。
敵視する孫権ですら、唸るほどである。
呉国太は、すぐに今までの考えを改めた。
娘の孫尚香が、やけに強気だった理由がやっと分かる。
劉備が近づき、呉国太に対して慇懃な礼をする頃には、すでに彼女の中で結論が出ていた。
娘の婿は、この男しかない。いや、二十年若ければ、自分が妻になどと馬鹿な考えを起こして、はっとする。
心の中で、亡き孫堅に謝罪するのだった。
「お初にお目にかかります。劉備玄徳にございます。本日は、呉国太さまにお会いできまして、この上ない感激でございます」
「こちらこそ、貴方のような殿方を当家に迎え入れることができるとは、至上の喜びですわ」
『!』
孫権と孫尚香が呉国太の言葉に反応する。
発言の意味をそのまま受け取ると、劉備を認めたということだ。
「お母さま、それではお認め頂けるのですね」
「もちろんよ。残念ながら、文句の付けどころがないわ」
女性二人が盛り上がっている中、納得いかないのが男二人。
孫権は、劉備を英雄と認めるものの、父親のような年齢の男を弟と呼ばねばならず、劉備は、その逆。
何と表現していいか分からない、微妙な間柄となることだろう。
それに劉備としては、刺客に襲われても対処できるようにして、ただ歩いていただけだった。
どこに気に入られる要素があったのか、さっぱり分からない。
話がとんとん拍子に進み、劉備自身が婚姻に対して言及する機会を、つい失ってしまう。
案内されるまま、劉備は用意された席につくと、横に座る簡雍に小声で話しかけた。
「なぁ、これはもう、断れる雰囲気じゃないよな?」
「雰囲気は、そうですが、言ってみたらどうですか?面白いことが起きますよ」
「そんなこと、できるかよ」
甘露寺は、地元の名士などの婚儀にも利用する格式高い寺院らしく、善は急げとばかりに心の準備が整う間もなく式典が始まる。
新郎の意思とは、無関係に孫尚香との婚儀は、進んでいくのだった。
新婦の孫尚香と会うのは、これで都合、三回目。
きちんと聞くと年齢は、十八歳とのことだ。
二十歳は過ぎていると見ていたが、思っていたより、だいぶ若い。
向かいに座る孫尚香からは、十分に大人の色気を感じるが、それは歳の差を感じさせないような化粧を施す、彼女ならではの工夫のようだ。
そのことから、夫のことを思いやる気遣いができる女性だと、いかに鈍感な劉備とて分かる。
男としての覚悟を決めるのだった。
江南の婚儀でのしきたりは、よく分からないが、言われるままに行動し、何とか無事に式を終了する。
晴れて、孫尚香と夫婦になったのだ。
「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「ああ、こちらこそ。この江南のことは、まだよく分からない。色々、教えてくれると助かる」
「ええ、もちろんですわ」
こんな若い娘と何を話していいか分からなかったが、印象としては、今の所、気兼ねなく一緒にいられそうである。
それだけでも、十分、助かることだ。
「あら、早速、仲がよろしいのですね」
「これは、お恥ずかしい。・・・こんな立派なお嬢さまに育てられ、呉国太さまに感謝いたします」
劉備からの謝辞を受け取った呉国太が、後ろに立つ趙雲のことを気にしている様子だったため、股肱の臣を紹介する。
「まぁ、この方が長坂で赤子を抱いて、曹軍百万の中を単騎駆けした勇将ですか」
敵軍の数がやけに増えているが、噂話とは得てしてそういうものだろう。
特段、訂正することなく、劉備は頷いた。
その他、関羽や張飛の武勇譚も聞いてくるので、意外と呉国太は好奇心にあふれる女性だと、初めて知る。
その血を受け継いでいるのが孫尚香。劉備の元に飛び込んでくる度胸は、彼女譲りなのだろう。
婚儀の後、宴会が始まると、極上の酒や山海の珍味に舌鼓を打つ。
宴もたけなわとなった頃、劉備は酔いを醒ますために裏庭に出た。
護衛の趙雲も、多少、酒を口にしたようだが、しっかりと劉備の後をついて来る。
どうやら、伏してある兵は、まだ解かれていないようだ。
ご苦労なことだと思いながらも歩を進めると、すでに先客がいる様子。
よく見ると、それは孫権だった。
ここで、お節介かもしれないが、ある助言を孫権にする。
「伏してある兵を解いていないみたいだが、呉国太さまに見つかるとまずいんじゃないか?」
「おお、そうだ。色々ありすぎて、すっかり失念していた」
刺客を用意していたことを誤解だとも弁明しないことに、一種、清々しさを感じた。
担当していたのは、
「あれが、俺の義兄ちゃんね」
孫権の後ろ姿を見送る劉備が、踵を返すと大きな石が目に止まる。
劉備の腰には、旗揚げ当初から帯びている雌雄一対の剣が、相変わらずあるのだが、この時、何を思ったか、あることを念じて、その石を斬りつけるのだった。
『俺が荊州に戻り、覇業成るというのであれば一太刀で斬れろ。成らぬというならば、刃が砕けよ』
すると、その大きな石は、見事に真っ二つに裂ける。
それを戻って来た孫権が、軽く見咎めた。
「劉備殿は、その石に何か恨みでもあったのだろうか?」
本当のことは、さすがに言えない劉備は、咄嗟に、
「いや、この婚姻を機に曹操を撃ち破ることができるのならば、斬れよと念じたまで。特に恨みがあったわけではないよ」と、ごまかした。
しかし、それがかえって孫権の興味を引く。
では、私もと剣を取り出すのだった。
『荊州を我がものとし、天下も手中にできるならば、斬れよ』
孫権は渾身の力で、剣を振り下ろす。その剣は、石を通り越して大地に深々と突き刺さった。
孫権の一太刀も、見事に石を裂いたのである。
丁度、劉備の切り口と交差する形で、十文字が出来上がった。
「斬れた」
「斬れたな」
孫権が驚くが、劉備は、それ以上に驚く。
何を念じたか、あえて聞かないが、恐らく劉備とは反対のことだろう。
とすると、この石占いは、果たしてどちらに軍配が上がるのか。
お互い、腹の中の思惑は別として、石を斬ることができたという事実を喜び合った。
この奇跡の石は後に、『甘露寺の十字紋石』と呼ばれるようになる。
占いの結果がどうなるのかは、この石を観光する後世の人にしか分からない。
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