第162話 京城からの脱出

江陵城を守る周瑜の元に孫尚香、婚姻の報が届いた。

「まさか、呉国太さまがお認めになるとは・・・」


孫尚香との婚儀を餌に劉備を留めおき、その間に骨抜きとする策を提案したのは周瑜である。しかし、婚儀はあくまでも見せかけで、本気でこの縁談をまとめる気はなかった。

一体、京城で何が起こったのだろうか?


周瑜は考え込むが、千里眼を持つ身ではない。遠く京城で起きたことなど、分かりようがなかった。

分からぬことは、きっぱりとこだわらず、大切な勘所だけは抜かりのないようにするのが周瑜である。

劉備を国外に出さない。これだけは守るよう孫権に手紙を出すのだった。


このところ、体調が思わしくない日々が続く。矢傷の影響、いわゆる金瘡きんそうの病によって、左腕も自由が効かなくなってきた。

そのため、思うように字も書けず、先ほどの孫権宛の手紙も、何度も書き直したのである。


何とも情けない体となったが、これも運命。受け入れるしかなかった。

体は動かずとも脳漿の冴えは変わらない。


命が尽きる日が、何となく近いことを察している周瑜は、自分が存命のうちに劉備とのけりをつけておかなければならないと感じていた。

劉備が揚州にいる限りは、我が掌中にあり。


諸葛亮がでしゃばって来る前に、劉備軍を乗っ取り、荊州、益州と立て続けに奪い取る。

これが周瑜が描く、『天下二分の計』だった。

せめて、その礎だけでも構築しておけば、後は後任に託せる。


その要点となるのが、やはり劉備なのだ。

最初に抑えておかなければならない最大の相手を、じわりじわりと当人が気づかぬうちに追い込む。


周瑜は劉備を蜘蛛の巣にかかった羽虫に見立てていた。

こちらに逃がす意思がなければ、もう逃げられないはずである。


警戒すべき諸葛亮に悟られないように、後出しで婚儀の話も持ちかけた。

打つ手がない憐れな劉備には、孫呉の傀儡にでもなってもらおうか。

周瑜は、劉備を贅沢の蜜漬けにして絡めとり、全てを奪い取るように仕向けるのだった。



婚礼の儀式を無事終えた劉備は、とりあえず不自由なく京城で過ごしていた。

ただ、一つ辟易としたのは、新婚のねやに薙刀を持った侍女たちが立ち並んでいることである。


さすがの劉備も護衛のためとはいえ、寝所で刃物をちらつかされていては、落ち着いて眠ることもできないのだ。

これだけは止めてほしいと懇願するも、孫尚香の方は、逆に薙刀を持った侍女たちがいないと落ち着かないと言う。


ようは慣れだから、最初のうちは我慢して下さいと逆に説得されたのだ。

早くも年下の女房に尻に敷かれている感があるが、この揚州の地では仕方ないと諦める。


それにしても、連日のようにお祝い事のような料理や酒が劉備の前に出されるが、孫権はどういうつもりなのだろうか?

この美味珍味や美酒に劉備が溺れると思ったら、大間違いだ。


残念ながら、劉備は貧乏舌を自認している。

何でも美味しく感じる一方で、食事に対して深い感動がないのだ。

逆に、これほどの料理を用意してもらって、段々、申しわけないという気持ちの方が大きくなる。


それと揚州の美女を劉備のために用意しているようだが、これは孫尚香が全て排除していた。

劉備も新婦が近くにいる中、他の女性に触手を伸ばそうとは思わない。


孫権が劉備を堕落させようとしている思惑は、痛いほど分かるが、結局、全てがうまくいっていないのだ。

そんなことより、今、劉備の頭を悩ませているのは、呉国太の存在である。


一人娘への愛情が強いのか、孫尚香が揚州を離れることを気に病んでいるのだ。

劉備に対しても圧力をかけてくるので、荊州に帰るというのをなかなか切り出せないまま、幾日も京城で過ごす羽目となる。

そのため、孫権の作戦は失敗しても、結果として劉備が揚州から出られずにいるのだった。


この状況に簡雍が、諸葛亮から授かった二つ目の袋を開ける機ではないかと、趙雲に持ちかける。

趙雲も、丁度、そう感じていたところで、二人で袋の中の指示を検めるのだった。


『曹軍五十万、荊州来襲』


書かれた内容を見て、二人は納得する。

この偽情報を使って、劉備が荊州に戻る理由を正当化しようというのだ。

早速、このことを劉備に伝えに行く。


「大将、今、荊州から報せが来て、曹操が五十万の大軍をもって武陵郡が攻められているそうです」

「なんだって。周瑜の南郡は抜かれたってのか?」


劉備が過剰に反応するが、これは演技でない。孫尚香や呉国太を前に器用に嘘をつける男ではないと判断し、劉備にも偽情報とは告げていないのだ。


「詳しいことは、まだ、分かりませんが、急ぎ戻らないと」

「そうだな。分かった」


事情を孫尚香に告げると、二つ返事で荊州に戻ることを了承する。

劉備は呉国太にも話にいったが、事情が事情だけに彼女も承諾するのだった。


孫尚香だけは、このまま揚州に残ることもできるが、ついて来るというので、急いで彼女を乗せる馬車を用意する。

ただ、孫権に知られると引き留められる可能性があるとし、婚姻を先祖に報告するため長江の畔へ赴くと偽って、京城を出ることにした。

京城の門を孫尚香が打合せ通りの説明をして抜けると、趙雲が率いる五百の兵とともに荊州へと急いだ。


このことを孫権が知ったのは、その日の夕刻ころである。

聞いた内容は、午前に出かけた劉備と孫尚香が、まだ戻らないという話だった。


行き先が長江の畔というので、京城の位置からいうと、すぐそばで目と鼻の先である。

往復に、それほど時間がかかるとは思えなかった。

試しに門番に、どの方向へ向かったか確認すると西と応える。


長江へ行くのなら、北のはず。西は荊州がある方角だった。

劉備が荊州へ向かったと察した孫権は、すぐに追手の手配をする。

指名されたのは、陳武と潘璋だった。


かれこれ半日以上経過しているため、逃げられたかと苛立ちを覚える。

そこに異変を感じ、登城した程普が現れた。


「劉備の追手に、誰を差し向けたでしょうか?」

「陳武と潘璋だが、問題があるだろうか?」

程普が腕を組んで考えるに、役者不足だという。


「呉妹君が進んで劉備に協力しているのであれば、彼女の気性から、陳武、潘璋では抑えることはできないでしょう」

そう言われると、妹のことをよく知るだけに孫権も不安になってきた。

程普の推薦は、蒋欽と周泰。ここは程普に従って、孫権は二人を呼ぶ。


「もし、駄々をこねて戻らぬというのならば、この剣を使って劉備もろとも斬り伏せよ」

蒋欽と周泰は、孫権から剣を受け取ると、千騎率いて、早速追いかけるのだった。



昼夜問わず走り続けたおかげで、劉備一行は早くも豫章郡の鄱陽県(はようけん)まで進むことができた。

今のところ、追手の影もない。

疲労の色が見える孫尚香を気遣って、休憩することを提案した。


「あなた、私は大丈夫よ。それよりも兄の手が届く前に荊州に入った方がいいわ」

「分かった。もう暫く、辛抱してくれ」


そんな気丈に振舞う孫尚香を、必ず荊州へ連れて帰ると誓う劉備だが、災いは突然、やって来る。三千の兵が立ち塞がっているという報告を受けた。

ついに追いつかれたかと、前方を確認すると『徐』と『丁』の旗印がある。


趙雲は、諸葛亮とともに揚州を脱出する際に、この旗印を見たことがあり、行く手を遮るのは、徐盛と丁奉ではないかと推測した。

ここで一戦交えることを趙雲が進言する。しかし、簡雍が止めて諸葛亮の最後の袋を開けてみるべきだと、一堂、納得させた。

劉備は趙雲から、最後の一袋を受け取り、中から紙を取り出す。


『奥方さまを頼られよ』


以前に、諸葛亮の錦嚢の計で開けた袋は二つ。その中身は、どれも的確な助言だったが、袋を用意したと思われる出発前、孫尚香との婚姻の話はなかった。

それなのに、この三つ目では、孫尚香と呉臣の力関係まで見抜いているとは、まったく恐れ入る。


劉備は、諸葛亮の指示通り、徐盛と丁奉が前を塞いでいることに、何とかならないか相談した。

孫尚香は、そんなの簡単とばかりに馬車の中から飛び出す。


「お二人ともご苦労さま。私の護衛は趙雲将軍、一人で十分、下がりなさい」

「いえ、我らは呉妹君の護衛に来たわけではございません」

「護衛ではないとすると、まさか私を捕らえにきたと言うんじゃないでしょうね」

息巻く孫尚香に、徐盛と丁奉の二人の返す言葉は力がなかった。


「捕らえるなど、滅相もございません。この地を警備するのが我らの役目。不審な一団があるとのことで、確認に来ただけでございます」

「不審?私が不審人物だとでも言いたいのかしら?」

「そ、そんなことはありません」

こうなれば、もう駄目である。孫尚香の言うことを聞くしかなかった。


「まぁ、役目上、確認にくることは分かります。不審な一団ではないと分かった以上、持ち場に戻りなさい」

「承知いたしました」


殿を趙雲が守っているため、余計な手出しはもうできないと判断する。

徐盛と丁奉は、すぐに孫権に報告のための使者を送り、黙って劉備一行を見送るのだった。

しばらく、この地に留まっていると味方の一軍がやってくる。

それは、主命を帯びた陳武と潘璋だった。


「劉備一行を見かけなかっただろうか?」

「いや・・・それが」


徐盛と丁奉の歯切れが悪いことに陳武と潘璋は訝しむ。

事情を聞くと孫尚香に追い返されたと知り、二人は憤慨した。


「我らは孫権さまより、直接、指示を受けている。いかに呉妹君とはいえ、主命の方が上であるぞ」

「それは、重々承知しているが、あの方の気性ゆえ・・・」

「まぁ、よい。我ら、これから劉備を追う。趙雲が相手では兵が多い方がいい。ついて来てくれ」


当然、それは構わないと徐盛と丁奉は承知するが、正直、気が進まない。

陳武と潘璋では、自分たちの二の舞となるのが目に見えているからだ。

しかし、孫権の主命がある以上、追跡を止めるわけにはいかない。

四人の将は、劉備を捕まえるため、急ぎ荊州方面へと走るのだった。

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