第163話 錦嚢の計のからくり
孫呉の四将は、劉備一行を視界に捉える。場所は、
その四将の存在は、劉備側も察知する。最初に気づいたのは、殿を務めている趙雲だ。
「孫呉の追手が、再び、やって参りました。いかがいたしますか?」
「分かった。私が何とかするわ」
劉備が答える前に、孫尚香が馬車から顔出す。旗印から、先ほどの徐盛、丁奉に陳武、潘璋を加えた面子だと分かった。
その四人であれば、対処可能だと安心する。
「そこの一団、待たれよ」
ある程度、近づくと陳武が大声で劉備一行に声をかけた。それでも止まる気配がないため、更なる警告を与える。
「止まらぬとあれば、我らは武力行使に出る」
その言葉があって、やっと劉備一行はその場に停まるのだった。
それを認めると、四将はすぐに馬車の元へ駆けつける。
「呉妹君、我らとともにお戻りください」
当初、無言であった馬車の中から、孫呉の将の呼びかけに応じて、孫尚香が姿を現した。
四人をひと睨みすると、一喝する。
「そなたらは、孫家に仕える将では、ないのですか」
「無論、孫家に仕えております」
「ならば主家の者が姿を見せているのに、なぜ、下馬せずに馬上で居丈高としている。それが孫家に忠義を尽くす者の姿なのですか」
その言葉に四人は、慌てて馬から降りると地に膝を着けるのだった。
陳武、潘璋は、孫尚香の激高に触れて、最初の勢いをなくしている。
主導権を完全に握られてしまっているのだ。しかし、主命はまっとうしなければならない。
「孫権さまのご命令です。どうか、我らとともに京城にお戻りください」
「私が戻ったとして、我が夫はどうなりますか?」
「・・・それは」
この状況で、正面切って劉備を殺すとは言い出せなかった。陳武も潘璋も返答に窮する。
「まさか、兄上は、私の目の前で殺害してまいれと申しましたか?」
「い、いえ。そのようには言っておられませんでした」
孫尚香の勢いに、本当のことを言えない陳武は、ついいい加減な返答をしてしまった。
しかし、その言質をとった孫尚香は、にっこりと微笑む。
「そうでしょう。兄上は、少々、心配し過ぎなのです。私を世間知らずの小娘と決め込んで揚州から出るのを心配されているのでしょう。私は、最愛の夫とともに荊州へ行くので、心配なさらずとも結構と伝えなさい」
「・・・いや、しかし・・・」
ここで了承しては、主命に反する。陳武と潘璋は困ってしまった。
徐盛と丁奉を顧みるが、二人は最初から諦めていたので、助ける気はない。
「いいですね」
更に念を押されると、黙って見送ることしかできなかった。
何となく情けなく虚しい空気が四人の中に流れる。
「こうなっては仕方がない。お叱りをうけるが事実を、そのまま報告しよう」
確かに、それしかない。
四人は、黙って頷くのだった。
荊州を目指す劉備一行の前に、
孫尚香曰く、この川を下れば、荊州長沙まで行くことができるということだった。
それは、利用しない手はないと、近くの漁村を探して船を借りることにする。
程なくして、見つかった村の名は、
早速、村に足を踏み入れるが、すぐに劉備の顔に失望の色が浮かんだ。
そこは寂れた村で、既に漁は止めているとのこと。
残念ながら、劉備一行が乗れるような船はなかった。
この支川の先に、もう一つ村があるそうで、そこであればあるいは?という情報を得たため、劉備はそちらに急ぐことにする。
その情報の対価という名目で、劉備はここの村長に路銀の一部を渡した。
「玄徳さま、感謝致します」
それに礼を述べたのは孫尚香である。
得た情報に対して、あまりにも過ぎた謝礼。揚州の村を援助してくれたことに対し、孫家を代表して謝意を示したようだ。
「だから、情報料だよ。気にするほどじゃない」
照れ隠しをする劉備の後ろ姿に、父孫堅の面影を見る。
孫堅も若いころ、海賊退治をしながら困っていた漁村を救ったと聞いたことがあった。
『やはり、この人は、父と同じく英雄』
孫尚香は、劉備とともに生きる決意を更に強めるのである。
劉備一行が劉郎浦を離れて、進んでいると呼び止める声が聞こえた。
振り返ると、先ほどの村の若者の一人。
血相を変えているその様子に、何事かと身を構えた。
「村の他の者の話しでは、劉備さまを追う一団が、この近くまで来ているそうです。お気をつけて下さい」
「そうか、わざわざすまない」
村の若者は、先ほど村に施していただいたことへの感謝の気持ちです。と返答すると、来た道を戻って行く。
もう一つの村の話よりも、こちらの方が重要な情報だったかもしれない。
善行はしておくべきだと、改めて思うのだった。
新たな追手ということは、先ほどの四将より上位の者が来ている可能性が高い。
孫尚香に頼るのも限界が近いのではないかと感じた。
とにかく、出くわさぬように注意をしなければと思った矢先、銅鑼の音が四方から鳴り出す。
この銅鑼は、間違いなく孫呉の兵によるものだ。
しかも獲物を取囲んで仕留める狩りの要領と同じ。銅鑼の音がどんどん大きく、近づいてくる状況に逃げ道を封じられたかと、劉備は、危機感を募らせた。
銅鑼の音が迫り、万事休すと思われた、その時である。
やや高く育った、葦の隙間から帆を立てた船団が登場したのだった。
その船の舟先には、綸巾を被り、羽扇を手にする天才軍師の姿がある。
「孔明」
思わず、劉備は大声で叫んでしまった。
「我が君、早く船にお乗りください」
諸葛亮の後ろには、更に二十艘ほどの船があり、率いている五百の兵、ことごとく船に乗り込む。
そこに主命により、劉備と孫尚香を追ってきた、蒋欽と周泰が姿を現した。
一足遅かったかと歯噛みしつつも、大声で呼びかけてみる。
「劉皇叔、孫家の姫君をかどわかすとは、どういう了見でしょうか?」
「そちらが申し込んだ縁談だろう。それを今になって、どういう手のひら返しだ?」
ここまでくれば、もう孫尚香の出番はない。船の奥で休んでもらっていた。
武力衝突したとしても、こちらには趙雲の他、黄忠と魏延がいる。
劉備としては、盤石の布陣だった。
そこに諸葛亮が、一歩、前に出る。
「この策を考えた方にお伝えください。荊州はすでに一国です。国が国を謀るもよし、攻めるもよし。ですが、美人をもって掠め取ろうというのは、あまりにも下策。品位が疑われますと」
この言葉に蒋欽と周泰は、返す言葉がなかった。
計算外だったのは、劉備があれほど贅沢に無頓着だったことである。
しかし、今は、それを言っても詮無きこと。離れて行く船団を見送ることしか二人にはできないのだった。
船上で劉備は、諸葛亮の神算鬼謀を称賛する。
特に錦嚢の計は、まるで預言者に域にあると思えた。
すると、簡雍と趙雲がばつの悪そうな顔をする。
そして、自らの懐に手をしのばすと、都合、九つの袋が出てくるのだった。
「これは?」
「我が君、私は預言者ではありません。今回、揚州に行かれるにあたって、幾つかの罠を想定いたしました。その一つが、奥方さまとの婚姻だったのです」
つまり、諸葛亮は複数の罠に合わせた対応策を簡雍と趙雲に渡しており、二人は状況にあった袋を開いていただけということ。
からくりが分かれば、納得できるが、それでも凄い事には変わりない。
揚州に行くまでは、孫尚香との婚姻など、劉備の想像の中にもなかったが、諸葛亮は可能性として、拾い上げていたのだ。
だが、何故か諸葛亮は、浮かない顔を表す。
「どうした?」
「いえ、今回、我が君には嘘をお伝えしました」
その嘘とは、曹操が荊州を攻めて来たということだが、劉備も薄々、勘づいていたので、問題ないと慰めた。
ところが、諸葛亮は大きく頭を振る。
「違うのです。今回の嘘で、呉国太さまを敵に回してしまった可能性があるのです」
確かに呉国太は、孫尚香に執着していた。揚州を出る許可も国の一大事だから出してくれたようなもの。
それが嘘だと知れたら、さぞお怒りになることだろう。
「いや、それも済んだことだ。仕方がない。機会があれば、俺が詫びる。孔明が気にすることじゃない」
そう言うと、劉備は諸葛亮の肩を叩く。あの状況では、つかなければならなかった必要な嘘と割り切るしかないのだ。
とにかく今は、急いで荊州に戻り、安全を確保するのが先である。
長い揚州の滞在、帰る時に花嫁を連れて帰るとは、思ってもいなかったが、荊州の地が見え出すと、懐かしさと相重なり、ようやく劉備は、心休めるのだった。
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