第164話 周瑜、最後の罠

周瑜は、江陵城で劉備が荊州に戻ったことを聞く。

その去り際、諸葛亮が孫尚香を餌としたことを嘲笑ったとの報告を聞いたが、意外と冷静に受け止めることができた。

今となっては、周瑜も、まったくその通りだと思うからである。


劉備を篭絡することに失敗した以上、これで荊州に手を出すことは厳しくなった。

すでに劉備は、一大勢力である。


軍師には、鳳竜の双璧があり、豪傑の数は関羽、張飛、趙雲、黄忠、魏延と綺羅星の如しだ。

曹操に追われて、窮地をさまよっていた憐れな姿は、もうどこにもない。


荊州の地を攻めとることができないのであれば、標的を変えなければならなかった。次に狙うとすれば、それは益州である。

矢傷の治りは見込めず、日に日に体力が落ちている周瑜は、自分の死期が近いことを認めていた。


「私が存命のうちに益州を取り、曹操と対抗できるだけの基盤を整える」

孫策より、託された孫家の未来を明るく盤石なものとするのは、周瑜にとって絶対的な使命である。

これを果たせぬうちは、死んでも死にきれないという思いが強かった。


周瑜は、京城の孫権に益州への出征の許可をもらう使者を送る。

巴蜀はしょく攻めには甘寧も賛成していた。


彼は、元益州の武将、土地勘もある。副将に益州からの降将・襲粛をつければ十分だろう。

後は、漢中の張魯と同盟を結べば、夷陵から近い巴郡はぐん広漢郡こうかんぐんは容易にとれるはずだ。


周瑜は、本来、臥せていなければならない身を無理矢理起こし、益州の地図を睨み込む。

益州の主、劉璋りゅうしょうがいる成都にまでは、命あるうちに届かぬかもしれないが、益州の北部くらいは切り取る自信があった。

周瑜は、目を閉じながら、戦略を練る。軍略の限りを尽くし、益州を取る算段をするのであった。



周瑜からの提案を京城では、すぐに軍議にかけるが、皆の意見は、揃って反対である。

さすがに孫権も、今回ばかりは周瑜に賛同することができなかった。

理由は、明白である。


「曹操が赤壁の復讐を誓って、軍の再編を図っていると聞く。そんな中、益州に攻め入るのは無謀じゃわ」

この張昭の意見が全てだった。


赤壁で大勝したとはいえ、その後、江陵攻めでは手こずり、合肥では痛い目に合っている。

今は、孫呉も力を蓄えるときなのだ。


「こんな簡単なことも分からぬとは、公瑾の奴、相当、参っているぞ。誰か代わりの江陵城主を送り、休ませた方がいいのではないか?」

「それは、私も考えていたところ。子敬、頼めるか?」


周瑜の矢傷の症状が、相当悪いと聞いている。軍事では、彼に頼り過ぎたと孫権は反省しており、ここで静養を与えようと考えていた。

魯粛を代役にして、呂蒙を後詰としておけば、当面は問題ないように思う。


周瑜以外にも大役を与えないと、後進が育たないという事情もあった。

大黒柱の休養を育成の機会としようと、孫権は決めるのである。


「承知いたしました。公瑾殿にいらぬ心配をかけぬよう、努めて参ります」

事情を理解する魯粛は、すぐに了承し、江陵へと旅立った。


周瑜と顔を合わせるのは、赤壁以来。

積もる話もあった魯粛は、急ぎ江陵城へと向かう。

この時はまだ、孫家に暗雲が漂い始めていることに気づいていないのだった。



魯粛が江陵城に着くと、その陽気な表情は一瞬で凍りつくことになる。

それは、周瑜が病床に伏しており、顔も痩せこけていたからだ。


「子敬、君が来たということは、私の代わりかな?」

「そうでございますが、公瑾殿・・・」

「ならば、益州攻めはなしか」


お互い気にしている点がずれている。魯粛は周瑜の症状が、想像以上に悪いことに、先ほどから嫌な予感が警鐘を鳴らしっぱなしでいた。

そんな状態でも戦に出ようとしているとは、まったく考えられない。


「京城にお戻りになって、静養なさってください」

「いや、私は、もう無理なようだ。自分の体のことだ。嫌なくらいに理解しているよ」

「そんなことをおっしゃらないで下さい。ここで、公瑾殿を失えば、軍をまとめる者がおりませぬ」


それは周瑜も承知しているが、世の中、どうすることもできない事がある。

とくに人の寿命に関しては、延命など簡単にできるわけがなかった。


「私の後は、子敬、君が継ぐのだ」

「江陵城程度でしたら、代役をこなして見せますが、軍部全体は無理でございます」

「勿論、経験不足は否めない。そこで三人衆の意見には、必ず傾聴するんだ」


三人衆とは、程普、黄蓋、韓当の三人を指す。戦の経験だけならば、周瑜をはるかに上回る古参の将たちだ。

彼らであれば、状況に合わせた適切な助言を与えてくれるに違いない。

それでも躊躇する魯粛に周瑜は、安心を与えるように後進の成長にも言及した。


「なに、子明しめい公奕こうえきの成長が著しい。特に子明であれば、あっという間に君を追い抜くかもしれん。それで、肩の荷も軽くなるだろう」

確かに呂蒙と蒋欽の成長には目を見張るものがある。魯粛も、多少、気持ちが和らいでいった。


「この後の群雄、勢力はどうなっていくのでしょうか?我らは、どう対処すれば?」

「悔しいが劉備が勢いに任せて版図を広げるだろう。彼との同盟関係は続けねば、孫呉は厳しくなる」

「それは、私もそのように感じておりました」


周瑜の構想では、『天下二分の計』であったが、自分が亡くなれば、それも不可能である。

曹操と劉備の三つ巴、『天下三分の計』を実現させなければ、曹操に対抗していくのは、難しいと魯粛に説明した。

この考えは、そもそも魯粛の思案と一致する。


しかし、「ただ・・・」と、周瑜は、今後の方策を補足した。

それは、劉備が版図を広げる中、釘は刺しておかなければならないということである。


「私が亡くなった後、南郡を劉備に貸し与えるんだ」

「それには、どういう意図があるのでしょうか?」

「刻限はいつでもいいが、貸す以上、利子はいただかなければならない」


一般的な契約取引では、そうかもしれない。周瑜は、劉備からどれほどの金子を得ようというのだろうか。

「利子とは、いかほどを設定するのですか?」

「長沙、零陵、桂陽の三郡」


周瑜の言葉に魯粛が驚く。一郡を貸すのに利子が三郡では、あまりにも暴利。

劉備が受けるわけがない。


「いや、我らが勝手に南郡より退けば、空白地。曹操に取られる前に、劉備は慌てて南郡を取りに来るだろう。江陵を取ったことで、契約成立と公言すればいい」

「しかし、それでは劉備が納得しないでしょう」

「実際、それで契約成立とは無理がある。しかし、今後の外交の手札にすることはできるのさ」


赤壁後の戦いで周瑜は、江陵と合肥、二方面の戦は無理があることを悟った。

孫呉で防衛しきれないのであれば、片方を劉備に任せるという戦略をとるべきなのだが、ただでくれやるのは、あまりにも勿体ない。


旨味を残すには、この方法しかないのだ。

それに・・・


「この策、選択肢がないだけに諸葛亮も、さぞかし頭を悩ますことだろう。最後に一矢報いたと思えば、胸のつかえもとれるというもの」

思えば、諸葛亮と会ったとき、何故、あのような天才と同じ時代に生まれたかと天を恨んだものだが、自分の能力を推し量るには、またとない好敵手でもあった。


最後に残す罠、この牙にのど元を食い破られるのか、それとも見事に跳ね返すのか。

結果を見ることができないのが、残念だが、諸葛亮よ、さぁ如何に。

周瑜は、いつの間にか、静かに目を閉じていた。


「公瑾殿?」

魯粛の呼び掛けにも応じない。ついに永遠の瞑想に入ったようである。

ただ、その顔には全てを出し尽くした、満足した表情があった。



哀しみに包まれた京城。

その中ですぐに周瑜の遺言は、実行される。


周瑜の後任として、魯粛が後を継ぎ、劉備に南郡を貸し与えると言って、返事を聞かぬまま撤退したのだ。

すると、周瑜の予想通り、劉備が江陵、夷陵と制圧し南郡を押さえる。

新たな領地を得た劉備だったが、軍師・諸葛亮の顔は冴えない。


「我が君、申し訳ございません。最後にして、周瑜大都督に苦杯を舐めさせられました」

「あんな契約のことを言っているのなら、無効だろう」

「確かに、我らはその立場をとります。しかし・・・」


今後も孫権と同盟関係を続けるのであれば、交渉事の際には必ず持ち出してくると、諸葛亮は懸念する。

そして、いつかこちらから、孫権に何かを願いこうようなことがあったとき、有効と認めざるを得ない事態になるかもしれないと言うのだ。

つまり、無理矢理、弱みを握らされたと等しいとのこと。


「まぁ、仕方ない。さすがは周瑜公瑾と、相手を認めるしかないだろう」

「ええ、彼はまさに国士無双の名将に間違いございませんでした」


そう話す諸葛亮は、遠くを見た。

その胸の奥にある思いは、好敵手に対する賛辞なのか、回避できぬ罠をしかけた相手への悵恨ちょうこんなのか、それとも、早逝したことへの愁傷しゅうしょうなのか分からない。


ただ、劉備の目にはやけに淋しそうに映る。

劉備は、それ以上、諸葛亮に話しかけるのを止めて、一人の時間を与えるのだった。

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