第160話 呉国太の怒り

劉備が喬国老の屋敷に着くと、出迎えてくれたのは、好好爺然こうこうやぜんとした白髪の老人だった。

この人こそが喬国老こと橋玄で間違いないだろうと、劉備はすぐに挨拶をする。


「お初にお目にかかります。荊州の劉備です」

「いやいや、劉皇叔。こちらこそ、ようこそ、おいで下された」


お互い挨拶を済ませると、屋敷の中へと案内された。供の簡雍、護衛の趙雲も席を勧められるが、二人とも固辞する。

劉備だけが椅子に座り、改めて喬国老と対面した。


「突然の訪問に関わらず、手厚いお出迎え感謝いたします」

「お相手が劉皇叔となれば、当然のこと。・・・して、本日の御用向きは、どのような?」


当然、理由もなく劉備が訪問してくるわけがない。

しかも自身は国老などと、もてはやされているものの、その実、大した権力を握っているわけではなかった。

自分で言うのもおかしいが、劉備がわざわざ足を運んで、会いに来るほどの理由がないのである。


「実はこの度、孫権殿の妹君との縁談話が持ち上がりまして、親戚となる喬国老殿に挨拶に参ったのです」

「おお、呉妹君ごまいくんと劉皇叔のご子息さまとですか。それは、おめでたい」


橋玄は、手を叩いて喜ぶが、ふと疑問が湧き上がった。

今朝も孫尚香の母親である呉国太ごこくたいに会ったが、そのような吉事の話は、ついぞ聞かされていない。


彼女とは長い付き合いだが、そのような大事なことを話し忘れるような人ではないはずだ。

喬国老は、念のために、劉備にもう一度、きちんと名前を使って確認する。


「ご婚礼は、孫尚香さまで間違いございませんか?」

「ええ、そこに間違いはありません。・・・ただ・・」

「ただ?」


やはり、何か事情があるのかと喬国老が察した。

一大勢力の劉備に対して、詰問するような真似はできない。

喬国老は、ゆっくりと劉備が語るのを待った。


「・・・相手が息子ではなく、私なのです」

「え?誰ですと?」

「いや、私、劉備玄徳です」


喬国老は座っている席から、転げ落ちるのを何とか堪える。

劉備は、もう五十に差し掛かろうかという年齢。一方、孫尚香は、喬国老の記憶に間違いがなければ、まだ、二十歳にもなっていないはずだ。


これは、もしや冗談で笑った方がいいのかと、勘ぐるが劉備からは、そのような雰囲気は感じられない。

真実であれば、ただ事ではなく。何かの陰謀に孫尚香が巻き込まれているのではないかと心配になった。

当然、国家の大事に関わることであれば、口を出すことは憚られる。しかし、人の親として呉国太のことが気になった。


「劉皇叔、申し訳ございません。一応、呉国太さまにお話しておきたいのですが、よろしいか?」

「ええ、どうぞ。私は構いませんよ」

「すぐに戻りますゆえ、しばしお待ちください」


そう言うと、喬国老は急ぎ、呉国太の元へ走る。

この様子から察するに、今回の婚姻の件、孫権は母親である呉国太にも了承を得てなさそうだった。

とすると、孫家の家族会議をうまく利用して、この局面を打開するというのが諸葛亮の狙いと読める。


「でもよぉ、俺が悪いわけじゃないのに、何故か針のむしろだぜ」

先ほど、劉備を見る喬国老の目が思い出された。

被害妄想かもしれないが、まるで若い娘を手籠めにしようとする悪代官を見るような目つきではなかったか?

まったく割に合わない。


「いいじゃないですか。若くて綺麗な奥さんが手に入るかもしれないんですから」

「だから、俺が望んだわけじゃない」

「その割には、まんざらでもない顔をしていましたよ」


駄目だ。この手の面白いネタを簡雍が握れば、しばらく、この軽口は続くことだろう。

劉備は諦めて、喬国老の帰りを待つことにした。


どうせ、破談となるに決まっている。

そう高を括る劉備だったが、ここに来て、孫尚香がすれ違いざまに放った一言が思い出された。


『私は本気だからね』

今回の縁談、兄妹での共謀だと思うのだが、孫尚香の言い方には、何故か引っかかる。


「まさか、・・・本当に本気か?」

劉備は自分で言っておきながら、頭の中ですぐに否定した。

普通に考えれば、到底、あり得ない年齢差である。


そんなことより、この婚姻の狙いが何なのかを考えることにした。

罠だというのは、直感で分かるが、孫権もしくは周瑜の真意が分からない。


劉備が美女一人のために国を捨てるとでも思っているのだろうか?

だとしたら、計算が甘すぎると言わざるを得ない。


ここにきて、分からないことが増えすぎてしまったようだ。

どう考えても劉備の手に余る。だが、困ったときは、諸葛亮の『錦嚢きんのうの計』に頼ればいい。


とりあえず、今は思考を停止しすることにした。

諸葛亮に任されば、間違いなく解決できるはずである。

劉備は、そう自分に言い聞かせて、心を落ち着かせるのだった。



呉国太の屋敷に、急いで飛び込むと喬国老は家主を探した。

程なくして現れた女主人は、喬国老の様子に苦笑いをする。


「誰が、水を持ってきて頂戴」

呉国太は、まず、慌てている老人を落ち着かせようとしたのだ。

侍女から受け取った水の入った杯を、そのまま渡す。受け取った喬国老は、一気に喉の奥に流し込んだ。


「その年になっても慌てることがあるのですね」

「みっともない真似をして申し訳ございません。ただ、呉国太さまに、すぐお知らせしなければならないことがありまして」

「あら、何かしら?」


喬国老から真相を聞くまでは、呉国太も余裕の受け答えをしていたのだが、娘に縁談話があると聞くと、大層、驚く。

それも当然、母である自分が知らないのは、どう考えてもおかしいからだ。


「それで、お相手はどなたなの?」

「それが劉皇叔でございます」


劉皇叔とは劉備玄徳のことだと、すぐに呉国太も分かる。

ただ、彼の嫡男は、まだ、幼子だったはずと不思議がった。


呉国太も年頃の娘を抱える身。

自分の娘を嫁に出すならと、勝手な想像を楽しんでいた。そのおかげで各地の群雄、名士の子息の情報は頭の中に入れてある。


「ああ、そう言えば養子の方で年頃の人が一人いましたね。・・・でも、跡継ぎではないでしょう?」

「いえ、ご子息の方ではありません。劉皇叔、ご本人です」


呉国太は、喬国老の言っていることを正しく理解できないでいた。

自分の耳がおかしくなったのかとさえ、思い込んでしまう。


「ちょっと、待って。ちゃんと説明して頂戴」

「ですから、呉妹君と劉皇叔の縁談の話があるのですよ」


呉国太は、卒倒しかけるのだった。

劉備玄徳は、亡き夫と同年代。少しばかり、孫堅よりも若かったと記憶するが、それでも五十歳にはなるだろう。

そんな男に手塩にかけて育てた娘を嫁がせるなんて、あり得ない。


「一体、誰がそんな話をしているのです?」

「劉皇叔本人から聞きましたが、孫権さまより話があったとのことです」

「まぁ、仲謀が勝手に決めたのね」

呉国太は、すぐに孫権に会いに行く準備を開始するのだった。



「仲謀はいますか?」

呉国太の声が城内に響く。声の質から、ただ事ではないと察した孫権は、政務を放り投げて、母親の前に姿を現した。


「どうしたというのです。そんな大声を出して。家中の者が、皆、驚いていますよ」

「そんなの勝手に驚かせておきなさい」

怒れる母親は、容赦ない。意に介さず、ぴしゃりと言い返した。


「それよりも貴方に娘の縁談を知らされない母親の気持ちが分かりますか?」

「縁談とは・・・それを誰から聞いたのですか?」

「誰からというのは、今、問題ではないでしょう。真実かどうかが問題なのです」


そう母親に問いただされると孫権としても、本当のことを告げなければならない。

実は劉備を虜にする策略のため、孫尚香の縁談話を利用したと話した。


「まぁ、貴方は自分の妹を道具のように扱うのですか?大切な家族ではないのですか?」

「そうですが、国家のためには仕方がないのです」

母親にとっては、国も大切だが家族も大事。特に一人娘のこととなれば、尚更だった。


「国家のためなどと小賢しい。どうせ、公瑾が考え出したのでしょう。にとっても、尚香は義理の妹にあたるというのに・・・」

『あの子』とは、軍部の総司令も呉国太にかかっては形無しである。どうあっても、母親の怒りが収まりそうもなく、孫権は弱りはてた。


「この話、即刻中止になさい」

呉国太に知られた時点で、そうなるだろうと予測していた孫権は、この策を諦める。

劉備が京城にいる間に、別の手を考えればいいことだと、方針転換を決めるのだった。


「承知いたしました。母上のおっしゃる通りに致します」

その言葉を聞いて、呉国太にようやく笑顔が戻る。孫権もこれで一安心と思っていた矢先、突然、登場した孫尚香の言葉に一堂、凍りついた。


「当人の承諾なく、勝手に破談にしないで下さい。私は玄徳さまと添い遂げます」

「なっ、お前は何を言っている」


一旦、落ち着いた母親の怒りが頂点に達する前に、先んじて孫権が妹を嗜める。

孫権の意図を察した喬国老も呉国太を落ち着かせようと、なだめるのだった。

その効果があってか、呉国太の詰問は、割と丁寧な口調となる。


「尚香、貴女は本気で父親と変わらない年齢の男と結ばれようというのですか?」

「年齢は関係ありません。それに玄徳さまは、陽人においてお父さまを救って下さった方です。孫家はあの方に報いなければなりません」


反董卓連合の一員として、華雄と戦った孫堅は、劉備の援軍に命を救われていた。

その時、もし命を落としていれば、孫尚香は生まれなかったかもしれないのである。

幼き頃、亡き父からそう聞かされたのを孫尚香は覚えていたのだ。


「貴女の言い分は分かりますが、だからと言って、何も嫁ぐことはないでしょう」

「私は、もう決めたのです」


女性、二人の言い合いに面倒なことになってきたと、孫権は憂鬱になる。

この間に立って、両者を取り持つことなどできるわけがないのだ。

困り果てる孫権に、年の功か喬国老が助け舟を出す。


「年齢のことはひとまず差し置いて、劉皇叔は当代随一の英雄でございます。呉国太さまは、一度、お会いになって、どのような人物か見定めてみてはどうでしょうか?」

この場を乗り切るは、この意見しかない。早速、喬国老の提案に孫権も乗っかった。

呉国太も娘の気性を知るだけに、多少の譲歩は必要だと考える。


「分かりました。もし、劉備玄徳が私の眼鏡に適えば、この縁談を認めましょう。尚香もそれでいいですね」

「ええ、もちろん構いません。お母さまもお会いになれば分かりますから」


孫尚香の変な自信が気になるが、母親が劉備を気に入るわけがない。

ようやく落ち着くことができるかと、孫権はホッとするのだった。


「何を呆けているのです。早く、会う会場の手配をなさい」

その言葉に、孫権は尻を叩かれるようにして、この場を去る。


それでもあの空間にいなくて済むと思えば、大助かりだ。

孫権は、配下に命じて、会見の場として甘露寺かんろじを押さえるのだった。

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