第159話 孔明の錦嚢の計

孫権は、縁談話を持ってくるが、当然、ただの親切心からでないことは、劉備にも分かった。

何かの企みがあってのことだろう。


そもそも孫権自身が、劉備から見れば息子のような年齢だ。

そんな男に縁談を勧められるのも、なんとも奇妙な話である。


「奥方を亡くされて、すでに二年と聞きます。劉備殿もそろそろ新しい妻を娶られてもいいのではないかと思うのですが?」

「俺ももうすぐ五十だ。こんな年寄り相手では、嫁ぐ方も気兼ねするだろう。無理にしようとは思わないよ」

「いや、先ほど本人とも話しましたが、これが意外と乗り気なのです」


先ほど話したと言われると本日のことか。となると、やはり揚州の港で出会った、騎馬に乗っていた女性が関わっているのだろうか?

しかし、今、思い出しても孫権よりも若く、いってても二十歳そこそこに見えた。それこそ、劉備と釣り合うわけがない。


それより、孫権と会話したということの方が気になる。あの娘は、一体、何者なのだろうか?

劉備の中に疑問だけが渦巻いていく。


「これまでの話を聞くと、孫権殿と親しい間柄のようだが、その女性はどういった方だろうか?」

「ああ、それでは、本人をここに呼んだ方が早いですね。誰か彼女をここに」


孫権が使いをやって呼ぶと、そこにやって来たのは、やはり予想通りの相手だった。

ただ、あの時の軽装とは違い、今は艶やかな着物に身を包んでいる。


港では、はつらつとした若さが前面に出ていたが、こうして見ると何とも美しく大人の女性の魅力があった。

顔立ちが同じなので、あの時の娘と分かるが、化粧や衣装で、こうも雰囲気が変わるものかと驚く。


「我が妹の孫尚香そんしょうこうです」

「妹?」


どうりで若いはずだ。孫権だって、まだ、二十代だろう。

その妹となると・・・

劉備は歳の差を計算して、嫌気がさした。


明らかな政略結婚で、親子ほどの年の差。乗り気と言っているが、その言葉もどこまで信用できるか分からない。

自分の意図しないことで、若い娘を泣かせるような真似は、是が非でも避けたかった。


「いや、孫権殿。さすがに、この縁談は無理ではないか?」

「私のことが気に入りませんか?」


孫権に視線を送っていると、不意に孫尚香に距離を詰められる。

その勢いに押されて、劉備が口籠ってしまった。


「い、いや、そういうわけではない」

「では、無理というのは、どういうことでしょうか?」


歴戦の雄、劉備も若い娘の視線には耐えらない。孫尚香が、まるで劉備に抱きつくかのように急接近したため、視線を外して答えられずにいるのだ。

これが戦場なら、劉備は、あっけなく首を獲られていることだろう。


孫権が妹の行動をたしなめてくれたので、ようやく二人の距離が離れた。これで、落ち着いて返事ができるようになる。


「俺としても、大変、ありがたい申し出だが、すぐに返答できることでもない。少々、時間をくれないか?」

「前もってお知らせしなかった、こちらに非があります。どうぞ、宿に戻って、ごゆっくりと考えて下さい」


孫権の言葉通り、劉備はひとまず、あてがわれた宿に戻ることにした。

去り際、孫尚香とすれ違った折り、小声で、「私は本気だからね」と、港で会った時に近い口調で告げられる。


どうやら、こちらが素の彼女ようだ。だからと言って、劉備は孫尚香に悪い印象を持つことはない。

とにかく、一旦、宿に戻り、落ち着いて状況を整理することにするのだった。



孫権は、ひとまず手ごたえを感じる。

劉備のあの締まらない顔を見れば、このまま骨抜きにするのも簡単なことではないかと思えた。


孫尚香を劉備に嫁がせるというは、周瑜の発案である。

本当は、油断させたところで殺害まで持っていきたいのだが、そうすると関羽や張飛の報復が怖いと説明された。


確かに孫権もそうだと思う。彼らがなりふり構わず揚州に攻め寄せたとしたら、取り返しのつかない事態を招くことになることだろう。

そのため、劉備を揚州で堕落させるという方針に変えたのだ。


もしや、それで劉備の家臣たちが愛想をつかすようなことがあれば、そのまま殺してしまってもいい。最悪、劉備を人質にして荊州を動かすことだってできる。

この揚州に足を踏み入れた時点で、周瑜の罠に既にはまっているのだ。


妹の孫尚香も快く協力を申し出てくれて助かっている。

その迫真の演技には、しかけている孫権ですら、本気ではないかと間違うほどだ。


戦乱と逃亡を繰り返してきた劉備である。真の贅沢の味など知らないことだろう。

今まで体験したことがない快楽に、身も心も溶かしてみせる。

孫権は、周瑜の策通り、抜け出せない沼に引きずり込むよう、罠を仕掛けるのだった。



宿に戻った劉備は、とりあえず状況を整理する。

戦後の領地問題は、文句なく上手くいった。


荊州牧にまで推してもらえるとなれば、荊州南部は安泰だろう。

やはり、問題は孫尚香についてだ。


「私としては、この婚姻自体、基本的には賛成ですよ」

これは、同行している趙雲も同意見のようである。


額面通り受け取れば、両国の同盟関係は、より強固なものになることは間違いなかった。

確かに反対する理由は何もない。


「でも、問題もあります」

「だよなぁ。いくら何でも文台の娘と結婚なんて・・・」

「いや、そこは正直、どうでもいいです」


簡雍は、溜息を漏らした。そんなことを気にしているから、少し若い娘に迫られただけで、動揺するのだと、容赦ない。

劉備としては、面目がなく反論の余地が、まったくなかった。


「じゃあ、何が問題なんだ?」

「どうも、この話。善意からきていないように思えるのです」


実際、劉備も感じていた孫権の企みとやらが、判然としない。

それに話が急すぎるのも気になる。本来、婚姻などの重要な案件は、事前に打診があるべきだ。

しかも、当人が主君と主君の血縁者となれば、尚更である。


これでは、まるで前もって打合せや対策を取らせないためとしか思えなかった。

いや、つまり、そういうことか・・・


「どうやら、孔明さんや士元さんの耳に入ると、都合が悪い話のようですね」

「つまり、何かの罠か?」

「・・・多分、そうだと思います」


罠と知ったとして、次にどうするか。

正当な理由なく、この縁談を断れば、両勢力の間にひびが入るのは間違いなかった。


もっとも罠にはめようとする相手との関係に、そこまで気づかう必要はないかもしれないが、見かけだけでも仲良くしていなければ、曹操に隙をつかれてしまう。


「孔明に相談してみるか?」

「それがいいですが、恐らく、させてくれないでしょうね」


用意周到に考え込んだ策ならば、今から荊州に使者をたてても秘密裏に処分されるのがおちだ。

では、どうするか・・・

劉備と簡雍が思い悩んでいるところ、ふと、何かを思い出したのか趙雲が進み出た。


「実は、諸葛軍師から出発前に与った袋が三つあります。困ったことがあれば、中を開けよと言われております」

「何だって」

驚きながらも劉備は、趙雲が取り出した袋を見つめる。その袋には一から三までの数字が書かれていた。


「どれを開ければいいんだ?やはり、一からか?」

「はい、最初に開けろと言われたのは、その袋です」

早速、その中を覗くと一片の紙が入っている。その紙を取り出して、書かれている内容を劉備は確認した。


喬国老きょうこくろうを訪ねられよ』


喬国老とは、孫策、周瑜の妻である大橋、小橋の父、橋玄きょうげんのことである。

孫呉において中枢を担う人物の外戚であったため、喬国老と敬意を持って呼ばれていた。


温和な性格でもあり、揚州では多くの人に慕われていると聞くが、彼を訪ねる理由とは、何であろうか?

そもそも、諸葛亮は劉備の婚姻話を知らないはずである。

この助言、今回ばかりは、的を得ていない可能性だってあるはずだ。


「いえ、これはきっと、孔明さんは今回の件、予想していたのかもしれません。揚州において、顔が広い橋玄さんに会って、婚姻の噂を広めろってことだと思いますよ」

簡雍が諸葛亮の真意を解き明かすと、劉備は考え込んだ。


「つまり、噂が広まれば不釣り合いな婚姻に疑問を抱く者も出てくるだろう。断る理由が出来上がるってわけだな」

「逆に周囲が認めて、円満に終わる可能性もあります。どっちに転ぶか分かりませんが、孫権さんが握る主導権を、こちらが奪うことができるかもしれません」


まぁ、なるようになれという感じだが、ここで思い悩むよりはましだろう。

いきなり会うことは失礼であるため、劉備は喬国老に面会を求める使者を送る。


突然の話で、先方も驚いたようだが、相手が劉備であれば断ることができなかったようだ。

ほどなくして、承諾を得られるのである。


劉備は、早速、喬国老の元を訪れるのだった。

どのような展開が待ち受けているか分からないが、今まで、諸葛亮の指示に従って間違えがあったことはない。

劉備は、その一点のみを強く信じるのだった。

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