第158話 荊州問題

曹仁が江陵県を放棄したことにより、合肥に駐屯していた曹操も許都へと引き上げる。

それに合わせて孫権も軍を解き巣湖を後にするのだった。


江陵を奪取することに成功した周瑜だが、受けた矢傷の痛みは相当重く、これ以上の戦の継続は不可能。

周瑜の他に大軍を率いることができる将帥もおらず、荊州においても停戦状態となる。


これでこの地における緊張が、一時的かもしれないが緩和された。この機を利用して、劉備と孫権の間で会見が持たれることになる。

場所は、孫権の新たな本拠地、京城けいじょう

以前の呉郡呉県から、本拠を丹徒県たんとけんに移した際に、地名も改めたのである。


京城に向かう船に乗っているのは、劉備と簡雍、護衛の趙雲だった。

諸葛亮と龐統は、荊州に残ることにする。


荊州の治安維持と曹操への警戒を怠るわけにいかない事情からだった。

それでも、しっかりと打ち合わせをしてきているので、こちら側の要求と容認できる範囲については、劉備の頭の中に入っている。

万が一に備えて、簡雍もついてきているため、その点は心配なかった。


この会見、実は劉備と孫権の初顔合わせの場になるのである。

思えば、同じ孫堅の息子である孫策とも会ったことがなかった。昔の戦友の成長した息子と面会することに、劉備は不思議な感情を覚える。

もっとも、特別な親近感があるわけではないため、お互いの立場を理解した振る舞いをすることに、問題はなかった。


「そんな緊張することないですよ」

「緊張ってわけじゃないが、文台の息子と思うと、どうもな」

「大丈夫です。向こうの方が、大将より、ずっと大人ですから」

簡雍は、以前、孫権と会っている。そういった経緯も、今回、同行することになった要因の一つなのだ。


「何が、大丈夫だよ。それは、まずいだろ」

江東の虎の息子であれば、一筋縄ではいかない相手だと容易に想像できる。

劉備より、しっかりしているのなら、大問題だ。


ただ、簡雍がこうして軽口を叩くということは、その実、安心していられるという裏返しでもある。

劉備は、多少、気が楽になった。


しかし、荊州に帰る際、予想外のお土産を持たされるとは、この時は知る由もない。

会見の折り、劉備には大仰天の展開が待ち受けているのだった。



長江を下り、ようやく船着き場についた劉備は、大きな伸びをする。

その劉備の目の前に二十騎ほどの騎馬の一団が現れた。


孫権の迎えかと思っていると、どうも違うことがすぐにわかる。

何故なら、その騎馬に騎乗している者たちが全員、女性だったからだ。

何事が起きているのか不審に思う劉備に、先頭で騎馬隊を率いていた女性が声をかける。


「あんたが劉備玄徳かい?」

見るからに二十歳前後。劉備からすると年端もいかぬ娘に、『あんた』呼ばわりや呼び捨てにされるほど、名前は軽くない。

しかし、劉備は、この稀な状況を面白がった。


「いかにも俺が、劉備玄徳だ。そういう君は何者だい?」

「ふっ、あんたの嫁だよ」


それだけ言うと娘は、騎馬を引き連れて、風のように去って行く。

取り残された劉備は、理解が追い付かずポカンとするのだった。


「俺の耳がおかしくなったのか?」

「いえ、私の耳にもはっきりと聞こえましたよ」


簡雍が劉備の疑問を、きっぱりと否定する。

だとすると揚州では、この手の冗談を言うのが流行っているのだろうか?

まさに狐に包まれたとは、このことだった。


「分からないことを考えていても仕方ありません。とりあえず、京城に急ぎましょう」

「ああ、そうだな」


簡雍に促され、劉備は気を取り直す。これから、この国の君主と会わなければならないのだ。

呆けたままの顔で向かっては、劉備の沽券にかかわる。


さすがに京城に着くころには、平静を取り戻すことができた。

劉備は、孫権との初体面に望むのである。



京城の中の大きな間に、劉備と孫権の会見の席が設けられた。

出入り口が二つあり、上座下座はいまいち判然としないが、向かって左手に劉備の席を用意したのは、年長者に対する敬意なのかもしれない。


劉備は席に着くと、改めて孫権の容姿を確認した。

大きな体に大きな顔。

やはり、どこか父親の孫堅を思い出させる風貌がある。


違いがあるとすれば、碧眼で髯がやや赤みがかった茶色という点か。

いずれにせよ容貌魁偉ようぼうかいいという表現が相応しかった。


会見が始まると、切り出されたのは、やはり領土問題である。

赤壁大戦後、切り取った領地にあまりにも差があり過ぎた。


孫権は、夷陵、江陵を含む荊州南郡のみ、一方で劉備は零陵、武陵、桂陽、長沙の四郡では、文句の一つもつけたくなるのだろう。

いかに対等同盟とはいえ、孫権側からしてみれば窮地の劉備を救ってやったという思いが、どこかにあるのだ。


だからと言って、劉備には得た領地を割譲する気は、まったくない

あくまでも、自軍の兵を使って得た成果なのだ。


ただ、今後とも友好な関係を継続してく必要があり、どこかに落としどころを、見つけなければならない現実もある。

そこで、孫権側から、ある提案が上がった。


「劉備殿、江夏と長沙の一部を譲ってもらえないだろうか?」

今のままでは、孫権が南郡をとっても、領地が飛び石となり地続きとすることができないのである。

江夏と長沙が孫権領となれば、南郡への糧道も確保でき、強固な防衛拠点することができた。


劉備は荊州を出発する前、諸葛亮や龐統と打ち合わせを行っている。先ほど、孫権側から出された提案こそ、こちら側が譲歩すべき案ということで意見を一つにしていた。


ここで江夏についてだが、この地は本来、劉琦が所有する領地であるため、劉備にその裁量権はないのだが、残念ながら劉琦は、最近、亡くなっている。

その後を劉備が継いでいたのだ。

よって、独断で江夏を孫権に渡しても問題がない。


また、長沙についても郡地所である臨湘城は落としたが、全域を制圧しているわけではないため、一部、言わば空白地となっていた。

その空白地を孫権が自力で取るというのであれば、劉備が口出すことではない。


要は、貰い物の江夏を手放すことで、孫権との友好な関係が望めることになるのだ。

劉備としては、これで異論はないのだが、譲ってばかりでは、今後の外交関係に影響が出る。

主張すべきところは、主張すべきと提言を受けていた。


「江夏郡は我らが全域、制圧している訳じゃないが、譲渡の件はいいだろう。ただ、江陵城制圧には、こちらも軍を出している。そこは汲んでもらいたい」

曹仁を退却させるのに、関羽と張飛を派遣している。


実際、この二人の協力がなければ、江陵城を得ることができなかったのは事実だ。

その見返りを求めるのは、当然のことである。


孫権陣営も劉備の発言は、予想の範疇だった。

すでにその報奨については考えていた様子。


「その件について、我らは南郡の油江口を譲る準備がある」

油江口は長江と油江の合流地点をさすが、この場合、江陵城の南対岸一帯を示していた。

周瑜が江陵城の攻略のために陣を設営していたのもこの地域である。


これは、劉備が裏切った時、いつでも江陵城を攻めることができるのだが、防衛によほど自信があるのだろうか?

それとも逆に、いつでも攻めて取り返せるという自負か?

どちらか判断つかないが、劉備は了承することにした。


劉備が、国家の大事を簡単に判断できたのは、この油江口の件も、諸葛亮と龐統が事前に読んでいたためである。

二人の意見は、当然、もらっておこうということだった。


これで、粗方の議題は消化することができたことになる。

最後に、同盟を強化するため、お互い朝廷に官職を推挙する使者を送ることを取り決めた。


劉備は、孫権を車騎将軍と徐州牧に推す。代わりに孫権は劉備を荊州牧に推すことにした。

劉備に将軍号がないのは、すでに正式に左将軍を拝命しており、劉備が、それ以上、望まなかったことによる。


こうして、京城会見は、無事終わると思われた。

劉備が立って、去ろうとすると、突然、孫権が呼び止める。


「会見が上手く行き過ぎて、大切なことを言い忘れておりました」

「まだ、何か?」


これ以上、話すことはないと思う劉備は、何か見落としがあったかと考え込む。

しかし、思い当たることは、何もなかった。


「いや、劉備殿に縁談を申し込ませていただこうと思いまして」

その言葉に揚州に着いたばかりの出来事を思い出す。


怪訝な表情を簡雍に送るが、さすがの簡雍にも分かるわけがなかった。

劉備は、嫌な予感に包まれながら、孫権の次の言葉を待つのだった。

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