第177話 張松の手紙
劉備は、一万の軍勢を劉璋から譲り受け、都合、三万となった大軍を引き連れて、涪城を出発した。
目指したのは、漢中との境にある関所、葭萌関である。
ここで張魯の侵攻を迎え撃とうというのだ。
数日かけて、劉備が葭萌関に到着すると、近くの要所、
葭萌関と白水関の連携は、この地を守る上で非常に重要なのだ。
程なくして、白水都督・楊懐は、部下の
「戦時中、わざわざ申し訳ない」
「いえ、まだ、大きな動きがないゆえ、一度、挨拶をと思い至りまして」
楊懐は、劉備の入蜀には反対の立場をとっていたと聞いていたが、それでも劉備に対して敬意は払っているようだ。
型通りだが、お互い礼式に沿った挨拶を交わす。
その中で、劉備は、話にもあった張魯の動きが気になっていた。
「大きな動きがないのが、逆に気になる。何か張魯の国内で変事があったのだろうか?」
「そこでまでは、我らも掴んでおりません」
楊懐からも、詳しい状況を聞き出せなかったため、一度、こちらでも調べてみる必要があると判断する。
龐統も同意見で、早速、密偵を放つのだった。
お互い、そう長話をできる状況ではないため、簡単な挨拶だけで楊懐は去って行った。ただ、帰り際、高沛の表情、目つきだけが、劉備は気になる。
あれは
白水関の高沛には注意が必要かもしれない。まぁ、ただの杞憂に終わるに越したことはないのだが・・・
楊懐、高沛の挨拶を受けた後、数日経過するが張魯からの侵攻はなかった。
いっそ、こちらから漢中に攻め込んでみるかとも思い立つが、依頼されているのは、あくまでも防衛である。
他所から来ている身である以上、出過ぎた真似は控えるべきと自重した。
動きがないまま、時が経つと、龐統が放った密偵がある重要な情報を持って帰って来る。
それは、あの馬超が漢中から離れているということだった。というのも張魯配下の
尚且つ、これまで忠臣として仕えていた龐徳とも袂を分かったそうだ。
いずれにせよ、馬超を失っては、益州を取るという張魯の野望は、既に破綻しかけていると言っても過言ではない。
攻め手を失い、出足が鈍いことが容易に想像できた。
ただ、この情報が正しければ、劉備の立場は微妙になってくる。
馬超がいないのであれば、益州単独の力で張魯に対抗することは可能なのだ。
つまり、劉備は余剰戦力の烙印を押されてしまう。
かといって、自ら招いた手前、手のひらを返したかのように劉備に帰って下さいとは、劉璋も言えないはずだ。
また、劉備の方も何の成果も挙げられないまま、益州を去れば、何のためにわざわざ来たのかということになる。
お互い、何とも気まずい雰囲気の中、時を過ごすことになるのではないかと気に病む。
すると、突如、事態が急変する報せが劉備の元に届く。
それは、曹操が四十万の大軍をもって、合肥城から進軍を開始したとの報である。戦場は、長江と巣湖からの支流が合流する
迎える孫権の兵力は七万。
兵力差がかなり開いていることから、孫権からの援軍を求める使者が荊州に来たという。
そこら辺の差配は、諸葛亮に抜かりはないのだが、荊州の動きを抑えるために襄陽城から、曹仁と楽進が南下する素振りも見せているというのだ。
この一連の動きと張魯の緩慢な動きを比較すると、どう考えても荊州に戻った方がいいのではないかと思えてくる。
「今の状態では、益州の地で実績を積むことも利を作り出すことも難しい。ならば、孫権の援軍に戻った方がいいと思うのだが」
この案に、当然、龐統は反対である。これは荊州の危機ではなく揚州の危機だ。
劉備にとって、そこまで重要性はない。もしあったとしても、諸葛亮がうまく対処するはずなのだ。
それよりも、今、益州を離れれば、再び、この地に足を踏み入れる機会は、しばらくやって来ない。
そうなった時、この失点を回復するのは、相当難しくなる。
何としても、今回の遠征を益州を得るがための足掛かりとしたいのだ。
本音を言えば、劉備も同じ気持ちなのだが、何せ、そのとっかかりすらも掴めないでは、ただ、時間を浪費するだけとしか思えないのである。
今回は、縁がなかったと、一度、出直した方がいいと考えたのだ。
ここが、現実を直視する軍師と感覚で生きてきた君主の発想の違いなのかもしれない。
「張魯が完全に諦めたと言えないんじゃあ、葭萌関は空にするのは難しいでしょうね。戻るにしても、兵は置いていくべきだと思いますが」
完全撤退ではなく、兵と将を置いて行けば、濡須口の戦いが落ち着けば、また益州に戻ることが出来る。
龐統は仮に荊州に戻るとしても、最低限、打っておくべき方策を提案した。
「そうだな。季玉殿からもらった一万の兵を残していこう。それと、将は誰を残すべきだと思う?」
「
劉備が劉璋からもらった一万を残すというので、龐統はあることを思いついた。時間稼ぎにしかならないが、その間に、何か策を考えればいい。
「一万を残すとなると我らは二万です。曹操軍の四十万に対するには、ちょっと心細い。そこで、劉璋殿に兵を借りるというのは、どうですかね?」
「どうだろう?一応、頼んでみるが、あまり期待しない方がいいと思うぞ」
「ですが、一応、お願いします」
劉備は、成都の劉璋に孫権を助けに行くことと援軍を求める使者を送るのだった。
これで、しばらく日数を稼げると踏んだ龐統は、法正と相談し、今後、どうしていくべきか検討を重ねた。
話し込むと法正は、一つ方法があると龐統に告げる。
但し、この方法には条件があるというのだ。
「劉備さまが、必ず益州を取る。そのように龐統殿には、力添えして頂きたいのです」
もっと、厳しい条件かと思えば、現在の龐統の職務を全うすればよいだけ。
龐統にとって、条件と言えるほどのことでもない。
「無論、約束しよう」
「必ずですぞ」
「ああ、鳳雛の道号に誓って」
ここまで、言い切ると法正が安堵した表情を見せる。小声で、「これでも友も報われる」と言っていたが、この時は、その意味が分からなかった。
張松が成都で法正からの手紙を読み終えると、松明に近づけて燃やす。
その表情には、ある決意をした男の厳しい表情があった。
そして、机に向かうと、一通の手紙を書き始めるのだった。
心血注いで書いた手紙が完成すると、文章を確かめる。
出来栄えに満足した張松は、身を寝台に委ねるのだった。
「後は、実行するのみ・・・か」
あえて口に出し、独り言を呟いた張松は、自問する。
『本当に後悔はないな・・・』
答えは、分からないだったが、自分は必ず、実行するだろう。
その未来は変わらないことを、自分自身が知っていた。
そのまま、いつしか眠りについたのである。
翌日、張松が目を覚ますと、兄の張粛に酒を飲もうと声をかけた。
弟からの誘いは、珍しい。
何かあったのかと、張粛が尋ねると、蜀の未来を語り合いたいと言い出すのだ。
どういう風の吹き回しか、ますます首をかしげるが、折角の誘いを断るのも悪い。
久しぶりに兄弟水入らずで、語り明かそうと、その夜、張松の屋敷を訪れるのだった。
張粛は、これまで弟の張松が、自分のことを疎ましく思っていると感じていたのだが、勘違いだったのかと思い直す。
それくらい、仲良く酒を飲み、語り合ったのだった。
話し過ぎて、ついに酒がなくなると、張松が、秘蔵の酒が書斎にあったはずと呟きながら、眠りこけてしまう。
張粛は、やれやれと思いながらも、張松の書斎に足を踏み入れた。
お目当ての酒瓶らしき物は、すぐ見つかるのだが、机の上に置いてある手紙の存在に気づく。
見てはいけないと思いつつ、月明かりに照らされた手紙は、まるで張粛を誘っているようであった。
誘惑に負けて、その手紙を手に取ると、張粛は酔いが醒めるほどに青ざめる。
「こ、これは・・・」
その手紙は、劉備宛てで、益州を攻めとることを勧める内容となっているのだ。
まさか、弟が劉璋に反旗を翻すつもりでいたとは、夢にも思わない。
張粛は、慌ててその手紙を自分の家に持ち帰るのだった。
その姿を張松は、窓から見つめる。酔って眠くなったのは、演技だ。
全ては、あの手紙を張粛に見せるために、本日の宴会を開いたのである。
後は、明日、劉璋からの呼び出しに応じればいい。
張松は、固く口を結ぶと遠く葭萌関の方向を見つめるのだった。
翌日、計算通りの呼び出しというよりは、ひっ捕らえられたという表現の方が正しく、縄目姿で劉璋の前に、張松は引き出された。
そして、見せられたのは、昨日、張粛は持って帰った手紙である。
「
「ございません。ただ、惜しむらくは、兄は時代が読めなかったようです」
劉璋は、そんな悪びれる様子もない張松の態度が不快でならない。
即刻、首を刎ねるように指示した。
張松の手紙だけでは、劉備が応じた痕跡は見当たらなかったが、益州にあの男がいる以上、第二、第三の張松が現れると、黄権や劉巴が讒言を繰り返す。
さすがに劉璋も劉備が益州から出て行くよう仕向ける必要があると考え始めた。
「何か方法はあるのか?」
「幸いにも孫権の援軍に向かうつもりのようです。そのまま、出て行ってもらいましょう」
「そういえば、その件で兵を貸してほしいとの依頼が来ていたな」
絶対に貸してはいけないと、黄権、劉巴が同時に唱える。
その貸した兵が、自分たちに向けられては、目も当てられないのだ。
「しかし、わざわざ益州まで来て、手ぶらで帰すのも、どうかと思うが」
「それでは、老人兵を三千ほど送りましょう。万が一、敵になっても、こちらは痛くもかゆくもありません」
劉璋は、黄権の指示に従い、劉備の依頼に対して、不要な老人兵で答えることにする。
馬超の脅威がなくなった以上、劉備にいてもらう意味がなく、逆に害の方が大きいことが分かった。
不要の兵で、益州から去ってくれるのであれば安いもの。
そう軽く考える劉璋だが、これが両者を仲違いさせるための張松の策だとは思いもしない。
必要以上に劉備を排除しなければならないと、かきたてるように仕向けた罠。
忠義心を利用された黄権や劉巴は、その仕掛けに全く気付かないのだった。
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