第176話 涪城での宴

法正からの書簡が届くと、成都の劉璋は大いに喜んだ。

その中身には、劉備が信用に足る人物だと言う記載があったからである。


「これで、問題なく劉備殿を成都に呼べるな」

陽気に話す劉璋とは裏腹に、黄権、劉巴らは浮かない顔をした。


「こちらの返答を待たず、劉備は公安を出発したと聞きます。これは、益州を取らんとする野心の現れではないでしょうか?」

黄権が注意を促すが、劉璋は気にも留めない。


「いや、それは我らが張魯に狙われている事情から、急がれたのであろう。英明な判断だと思うぞ」

この楽観的な思考が、今まで益州に平和をもたらしていたのだが、今回は裏目に出た。

黄権や劉巴が心配している緊張感が伝わらないのである。


そして、ついには、「それでは、涪城ふじょうまで出迎えに行こうではないか」と、言い出した。

劉備が率いている兵数も把握していない現状で、万が一にも裏切られた場合、涪城ではいささか心もとない。

万全の準備さえしていれば、涪城も悪い城ではないのだが、何せ行動が急すぎるのだ。


その点、成都であれば城壁も高く、変事が起きても防衛可能である。

ここは、大人しく待っていた方が、絶対的に安全なのだ。


「張魯の方にも動きがあるかもしれません。ここは、成都でお待ちになっていた方がよろしいのではありませんか?」

「なに、涪城など、目と鼻の先であろう。張魯が動いたところで、大して問題あるまい」


何を言っても、考えを改めることをしない。しかも自分、一人で準備を進めて、馬車の手配までするのだ。

こうなっては、益州牧を単独で行動させるわけにもいかない。


「軍の手配も必要です。申し訳ございませんが、数日、お待ちいただけませんか?」

「うん。・・・まぁ、そういうことであれば致し方ない。だが、劉備殿の到着前には、涪城にいないと話にならんぞ」


黄権は、しかと承って、何とか日数を稼ぐことができた。その間にできるだけ、劉備の情報を集めて、少しでも不審な行動がないか確認する必要がある。

調べて分かったことは、率いる兵は二万。主だった将は、黄忠と魏延という名前らしい。

らしいというのは、あまり二人に関する情報が益州にはないのだ。


荊州では名のある将かもしれないが、長い間、戦をしていない益州では他国の将の情報には疎い。

関羽、張飛、趙雲くらい有名であれば、さすがに益州でも知れ渡っているのだが・・・


その三将を連れて来ていないということが、また、益州の陪臣たちの判断を悩ます要因となった。

益州を本気で取りに来るつもりなら、当然、彼らの力は必要なはず。

連れて来ていないということは、益州を侮っているのか、それとも本当に取る野心がないのか。


判断ができないまま、時が過ぎ、劉璋が涪城に出発しなければならない期限となった。

劉璋を止める明確な理由がない以上、涪城へ行くのを黙認するしかない。


そんな中、強引な行動に出る臣がいた。

劉璋を乗せた馬車が成都の門の手前まで来たとき、足を縄で縛りつけ逆さ吊りになっている男がいるのである。


王累おうるいではないか。そこで何をしている?」

「劉璋さまに讒言、申し上げます。どうか、劉備と会うのを止めていただきたい」

「断ると申せば?」


王累は逆さの状態でも器用に剣を抜いた。足を縛り付けている縄を斬り、脳天から落ちると言う。

命を賭した讒言なのだが、劉璋には、ただの脅迫にしか見えなかった。


「好きにせい。私は劉備殿に誠意を見せなければならない」

劉璋は王累を無視して、馬車を走らせるのである。馬車が成都の門を通過した後、王累は涙ながら縄を切った。地面に大きな音が響く。


地面に落ちた王累の元に駆け付けた者が耳にした、王累の最後の言葉は、「惜しいかな、蜀」だったそうだ。

国の行く末を案じた臣の亡骸を背に、劉璋は涪城へと向かうのである。



涪城に着いた劉璋は、早速、歓待の準備を始めた。

遠路はるばるやって来る同族の英雄を迎え入れるのに、失礼があってはならない。


そんな劉璋は、王累が亡くなったことなど、もう忘れていた。

劉備とどのような会話をするかなどで、頭がいっぱいなのである。


準備万端、整ったところで、丁度、劉備一行が涪城に到着したとの知らせを受けた。

待ちきれぬとばかりに、劉璋は城外まで出て、劉備を出迎える。

この時点では、もう劉璋の行動を止める者は、誰もいなかった。


劉璋は、先頭にいる劉備の姿を見つけると、馬車から降りて到着を待つ。

劉備も劉璋にすぐ気づき、下馬して近づいて行った。

これが、二人の初めての対面である。


「お初にお目にかかります。荊州の劉備です」

「私の方こそ、お会いできて光栄。益州の劉璋です」


同族の雄同士は、固い握手を結んだ。

城の中で酒宴の用意があるというので、兵を城外に待機させ、主だった者たちで城内に入る。


席の用意が整うまで、別室で劉備は待機し旅の疲れを癒した。

休んでいるところ、龐統が劉備の前に立つ。


「一応、聞いておきますがね」

「ん?・・・ああ、なしだ。というか、その手のことは止めてくれ」

「承知しました」


主語や述語など、肝心な部分が抜けているが、龐統が言いたかったのは、劉璋をこの場で暗殺することである。

益州の主、取って代わるのに一番、手っ取り早い方法なのだが、龐統も本気で提案しているわけではなかった。


入蜀して間もない劉備が騙し討ちで、劉璋を討ったところで、人心掌握ができるはずがない。

益州を取るのであれば、土地と士民の併せでなければ意味がないのだ。


念のため、主君の意向を確認したが、龐統の考えと一致したため、素直に引いたのである。

法正も同様に考えていたため、早計に走らない劉備に安堵した。


正直、劉備も益州は喉から手が出るほどに欲しいが、どうやって手に入れるかは、算段がついていないのである。

一番、平和的なのが陶謙や劉表から持ちかけられた譲渡だが、そう簡単な話ではないことは分かっていた。

とにかく今は、実績を積んで劉璋の信任を得るしかない。


宴の中では、信用を得るため、ことさら仁者的な態度を示した。

そんな劉備に劉璋は傾倒する。


わずかに劉備の方が年上だったため、劉備のことを『大兄たいけい』と呼んだ。

劉備の方は、遠慮して、季玉殿きぎょくどのと字で呼ぶに留める。


「大兄の援軍、感謝いたします」

「我らは、同族です。助け合うのは当然のこと」


仁愛の言葉に感銘を受ける劉璋は、酒が大いに進んだ。そして、酒のせいか思慮が浅いせいか、重要な確信めいた質問を劉備に投げかける。


「大兄は、赤壁で曹操を破りましたが、天下への志をお持ちでしょうか?」

あまりにも突拍子もなく、大きな質問をするので、会場が一瞬、静まり返った。


その状況に気付きもせず、まったく意に介さない劉璋は、ある意味、大物かもしれない。

返答次第では、対応が変わるかもしれないと固唾を飲む蜀臣の前で、劉備は劉璋の問いかけを笑い飛ばした。


「男子たる者、そういった気持ちを持つことは必要だろう。・・・だが、今、私が考えているのは、漢室をどうやってお助けしていくかだけです」

「おおお、それは私も同様です」


するりと躱されたと、蜀臣は肩透かしを食らった気になったが、劉璋は、その回答を気に入ったようである。

劉備と劉璋は、ますます意気投合したのだった。


宴は和やかな雰囲気のまま、無事に終了を迎えることになる。

しかし、最後になって、また劉璋が飛んでもないことを言い出し、会場をざわつかせた。


「私は、大兄に譲りたいと思います」

一体、何を言い出すのかと、注目を集めた劉璋が口にしたのは、「私が連れてきた兵一万を、そのままお使い下さい」

さすがに益州を譲るとは言わなかったが、それでも直ぐに黄権と劉巴が止める。


今、一万の兵を劉備に渡せば、涪城は裸同然となるのだ。

劉備が占拠しようとした場合、対抗できない。

臣の讒言を疎ましそうに劉璋が聞いており、場の雰囲気が悪くなりかけたので、劉備がすっと立ち上がった。


「季玉殿のご厚意、感謝する。ただ、本日が初対面、御家中の方の心配も分かる。我らは、これよりすぐ葭萌関かぼうかんに向かい、張魯に備えるので、ご安心を」

宴に対する礼も述べると、劉備は退出した。


酔いも醒めぬうちに、葭萌関へ向かおうと言うのである。

そんな劉備に、劉璋は一万の兵を連れて行ってほしいと、再度、懇願した。あまり断り続けるのも不敬と考えた劉備は、増援を了承する。


新たに一万を加えて三万になった劉備軍は、風の如く旅立っていった。

劉備が涪城から去ると、とりあえず黄権、劉巴らは安堵で胸をなで下ろす。


「噂通りの仁君だったではないか」

ただ、劉璋が上機嫌になっていることが悩みに種として残った。


仁君ということであれば、尚更、劉備の存在は際立ってしまう。

一国に二人の盟主がいて、いい影響が出るはずがないのである。

劉璋の忠臣たちは、何事も起こらないことを切に願うのだった。

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