第193話 張飛の罠

巴郡に入った張飛は、次々と城を落としながら進んで行った。但し、郡治所がある江州県を前にして進軍を一旦停止する。


というのは江州を守る守将、厳顔が類い稀な名将であり、注意が必要と諸葛亮から事前に伝えられていたためだ。

これまでのような単純な力任せでは、通用しないと思い慎重な行動になったのである。


ここまでの道のり、諸葛亮の言いつけ通り、兵士たちには軍律を厳しく守らせ、占領した都市で無法を働くのを固く禁じてきた。

その結果、一つの都市を落とすと、近隣の街からは望んで降伏してくる者たちが多く出るようになる。


ならば今回の江州攻略も、使者を送って道理を説けば、降伏してくる者がいるかもしれないと張飛は考えた。

これぞ名案とばかりに、早速、使者を立てる。ところが、その張飛の目論見は脆くも崩れ去った。

その使者は、棒打ちの憂き目に合って、這う這うの体で追い払われて帰って来る。


「おのれ、厳顔。優しい顔をすれば、つけ上がりやがって」

張飛は、はらわたが煮えくり返るほどの怒りを覚えた。

丈八蛇矛を手に持つと部下の制止を振り切って、江州城の前に立つ。


「おい、厳顔という名のくそ野郎。出てきて俺と勝負しろ」

「噂通りの猪武者だな」


そこに城郭から、厳顔が姿を現した。

怒りに打ち震える張飛に対して、冷ややかな視線を送る。


「戦は喧嘩じゃない。将の腕っぷしの強さだけで決まると思うな」

「うるせぇ」


吠える張飛に厳顔が合図を送ると、ありったけの矢の雨が降り注がれた。

張飛は、難なくはじき返すが、付いて来た部下たちは、そうはいかない。

次々と、江州城からの矢によって倒れていった。


「愚かな将に付き従う部下は、なんとも憐れなものよ」

「くっ」


部下たちの状況を気にした張飛が、一瞬、厳顔から視線を切る。

その僅かな隙で、厳顔は弓を引き絞った。放たれた矢は、張飛の頭部を直撃したのである。


誰もが歴戦の猛将が討たれたと思ったが、張飛は馬の上で踏みとどまった。厳顔の矢は高い金属音で弾かれ、地に突き刺さる。

張飛が被る頭巾は額部分が鉄の輪になっており、何と矢は、偶然にもその部分に当たったのだった。


しかし、致命傷を免れたとはいえ、強い衝撃が頭部を襲ったのである。

張飛は、軽い脳震盪のうしんとうとなり、馬上でふらついた。


「ちっ。運のいい奴め」

討ち損なったことを悔しがる厳顔だったが、今の様子の張飛を見逃すわけがない。

城門を開けて、張飛を討つために兵を送り出して来た。


張飛の部下たちは、主将を守るために壁となるが、士気は益州兵の方が高い。

あっという間に、人垣は崩されてしまった。

この千載一遇の機会に、張飛を討ち取ろうと必死に攻め立てるのである。


「調子に乗るんじゃねぇ」

まだ、意識がはっきりとしない中であったが、張飛が丈八蛇矛を一振りすると、三、四人の首を一気に吹き飛した。

返す刀で、また同様に益州兵をほふる。すると、張飛に近づこうとする者は、誰もいなくなった。


「この化物め。よい、一旦退け」

厳顔の指示により、益州兵が退くと張飛も部下に抱えられながら、自陣へと引き返す。

緒戦は、見事にしてやられる張飛だった。



自陣で休み意識を回復させた張飛は、翌日、厳顔を徴発して誘い出そうとする。しかし、そのような児戯に引っ掛かる敵ではなかった。

張飛は、完全に手詰まりとなる。


打つ手がなく思い悩んでいるところに、物資の補給として簡雍がやって来た。

張飛は、挙兵以来、長い付き合いの盟友に思わず相談する。


「正直、八方ふさがりだ。何かいい手はねぇか?」

「戦のことは私には分かりません。ただ、交渉事で私が困った時などは、自分らしくない行動で、相手を惑わすことを考えます」

「らしくない行動ねぇ」


簡雍の言葉に張飛は考え込んだ。

自分の強みは、どんな相手でも正面から戦い叩き潰すところだろう。


それは、どんな相手に対しても同じだった。

であれば・・・


「江州を捨てて、雒城を目指すか?」

「それは面白いですね。相手の思惑を上手く外していると思いますよ」


まさか厳顔も張飛が戦場を捨てるとは思うまい。

そして、簡雍が言う厳顔の思惑とは、張飛をこの地に留まらせて、劉備と合流させない事だ。

それが果たせないとなると、どう出て来るのか?


「もしかしたら、厳顔を釣り出せるか?」

「ええ。ただ、単純な手には引っかからないと思うので・・・」


そう言うと、簡雍は張飛に耳打ちをする。

その作戦に張飛は、納得するのだった。



翌日の夜、張飛は兵を率いて江州城の北側に移動する。

そこには雒城へと続く抜け道があったのだ。その検分に来たのである。


「この道が雒城へと続くのか?」

「はい。狭い山道で行商人などがよく使う道ですが、十分、軍隊も通れると思います」

「うむ。だが、大軍が通れる道ではないな」


張飛は、地元民と対話しながら、行軍方法に頭を悩ませた。

折角、簡雍が運んでくれた物資、輜重隊は大切にしたい。


行軍の際、後方に配置しては、万が一、襲われた時に失ってしまう可能性があった。

ならば中団に配置するか。

ある程度、方針が定まったところで地元民に報奨を渡して別れた。


本陣に戻って、本格的に作戦を練り直すのである。

報奨を受け取った地元民は、この場に残り、張飛の後ろ姿を見送った。

そして、いつの間にか闇夜に姿を消している。その足取りは張飛とは反対方向を向いていたのだった。



次の日、張飛が先陣を切って、裏道の山道へと進む。

見張っていた厳顔の手の者が、その姿を確認した。早速、報告に走る。


厳顔の狙いは、先日、やって来たという輜重隊だった。

昨日の張飛を案内した地元民は、その足で厳顔にも、張飛の狙いを報告していたのである。

そこでも褒章にあずかり、懐は大分温まったようである。


行動を読まれているとも知らぬ張飛を追い込むために、厳顔は中団に配置するという輜重隊に狙いを定めた。

最近、届いたばかりの救援物資を失えば、大打撃になること間違いない。


敵の抵抗に合わないためにも張飛の位置だけは、確実に知っておく必要があった。

張飛をやり過ごして、厳顔は輜重隊へと襲いかかる。


「ここで食料を奪えば、この者たちの進軍も止まる。益州を守るためにも奪いつくすんだ」

号令に応えるように江州城の兵士は、輜重隊へ白刃を振るった。

悲鳴とともに倒れる兵士。しかし、実際に倒されたのは、厳顔の部下たちの方だった。


「やっと城から出てくれたな」

突然、現れた偉丈夫の姿に厳顔は言葉をなくす。

目の前には、先頭を進んでいるはずの張飛がいたからだ。


「お前が、どうしてここに?」

「軽薄そうな地元民を使って、正解だったぜ」


この言葉で全てを理解する。裏を取ったつもりの厳顔だったが、それも張飛の罠だったのだ。

まんまと誘き出された厳顔は、あっさりと張飛に捕らえられてしまう。


やはり、武技の技量では張飛には敵わなかった。

守将を捕らえた張飛は、悠々と江州城へと入城する。

城主の間で踏ん反り返ると、厳顔の処遇を考えた。


「どうする?降伏する気になったか?」

そんな張飛に対して、厳顔は縄目姿のままだが、膝を折ることなく睨み返す。


「お前たちは、侵略者だ。わが国には首を斬られる将はいても、盗人に降伏する将はいないわ」

「面白れぇこと言うじゃねぇか。誰か俺の丈八蛇矛を持ってこい」

張飛も立ち上がり、自慢の得物で厳顔を威嚇した。それでも厳顔の顔色が変わることはない。


「もったいぶらず、さっさと首を落とすがいい」

逆に覚悟を決めた厳顔が開き直り、毅然とした態度を崩さなかった。

それを見た張飛が後ろを顧みる。


「おい、憲和。お前が試すと言ったから脅してみたが、やっぱり、この人は忠義の士だぜ」

「そのようですね。失礼しました」

すると、張飛自ら厳顔の縄を解いた。簡雍と並んで、厳顔に対して拱手で敬意を示す。


「将軍のお怒りはごもっともですが、我らは漢室の威光を取り戻すため、曹操の野望を砕かんため、どうしても益州の地が必要なのです」

「試すような真似をしてすまなかったが、長兄の悲願を達成するためには、あんたのような人物こそが必要だ。どうか、力を貸してくれねぇか?」

「そこは、私からもお願いいたします」


敗残の将に敵将が頭を下げた。こんな状況を厳顔は、今まで見たことがない。

今まで、張飛や劉備に向けていた憎悪の気持ちが、嘘のように氷解していった。


実は厳顔も曹操が魏公になったという話を聞いて、思うところがあったのである。

劉璋に対しての忠義は変わらないが、それも漢王朝があっての話だ。

漢室に仇なそうとする魏の一連の動きを看過することはできないと思っている。


「承知しました。劉璋さまのお命だけは助けていただけるという条件を飲んでくれるのであれば、私は降伏いたします」

「その点は心配いりません。うちの大将に、そんなことは絶対させません」


劉備の相談役として絶大な信頼を得ている簡雍と義弟の張飛の口添えがあれば、約束は間違いなく守られるはずだ。

厳顔は張飛の軍門に降ることを決める。


厳顔という影響力のある名将を得た張飛軍は、この後、戦らしい戦をすることなく進軍することができた。

通る先々の城主は、皆、厳顔に心服していたからである。

張飛は意気揚々としながら、雒城へと駒を進めるのであった。

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