第192話 趙雲の侵攻

諸葛亮が立てた作戦で三方向から益州に入ることになった劉備軍。

その一角である趙雲の部隊は、犍為郡けんいぐんから侵入する。


諸葛亮の指示通り、通過する都市を余すことなく屈服、占拠しながらの行軍だったが、その速度は目覚ましいものがあった。

趙雲は進軍速度を緩めることなく、指示があった要所、江陽県へと入る。


この県は犍為郡の中央に位置しているのだが、南蛮族の影響が越嶲郡えつすいぐんを飛び越えて、この地にまで届いていた。

その結果、あまり、治安は良くないとのことである。


そんな情報を得ていた趙雲は、さぞかし江陽県を守る劉璋軍は、精強なのだろうと気を引き締めた。

日常の平和を維持するためには、圧力となる軍隊が必要だろうと考えたためである。


ところが、趙雲軍が城に近づいても敵のお出迎えが一向になかった。

不審に思った趙雲は、城に近づくと、無防備にも門が開放されていることを確認する。

さすがに罠を連想し、慎重な行動をとった。


迂闊に城内に入ることなどせずに、城の周りをゆっくりと一周する。どこか不審な箇所がないかを探したのだ。

だが、一切、何も見つけられない。というより、城兵の姿がまったく見えないのだ。


このままでは、埒が明かないと、趙雲は開いている城門に兵を配置する。退路を確保した後、僅かな兵を伴って、城内に足を踏み入れることにした。


城の中には、まったく人がいないということはなく、皆、家の中に隠れている様子。

直接、見えはしないが、気配と視線を察知した。


趙雲は、何やら不穏な空気を感じながら、そのまま県庁府まで足を運ぶ。そして、そこで驚くべき状況を目撃した。


そこには兵はおらず、代わりに山賊と思しき集団がたむろしていたのである。

すると、趙雲の姿に気づいた無法者たちが、二、三人歩いて来た。


「懲りもせずに、また、やって来たのか」

「劉璋も、こちらに回す兵など、いないくせに、やけにしつこいな」


ならず者どもは、随分と強気な態度を示す。趙雲が引き連れている兵は、十名程度といっても、数の上では山賊の方が少なかった。

奥に目を移すと、県庁府の門付近には、まだ、数名の男たちが見張りに立っている。


まだ、仲間がいるのだろうが、武器を持った兵士を相手に強気になれる理由としては、少し弱いような気がした。

もしかしたら、腕に自信がある者が控えているのかもしれない。


そんな考え事をしている趙雲の前に、油断しまくっている山賊どもが近づき、槍の間合いに入って来た。

部下に動かないよう、目で合図を送ると、趙雲は瞬く間に、この三人を討ち倒す。


趙雲の無敵の槍術の前では、日頃から鍛錬もしていない、ちょっとした力自慢のごろつきなど、当然、相手ではなかった。

あまりにも一瞬の出来事で、門番たちは何が起こったか理解できない。


ただ、とんでもない敵が来たことだけは、分かったのだろう。

慌てて、建物の中に入っていた。


おそらく、この集団の首領に報告にいったと思われる。

どんな相手だろうと、万に一つも後れを取ることはない趙雲は、悠然と敵の登場を待った。


「そこの将軍さま」

その時、不意に声をかけられ、振り返ると物陰から手を振る人物を認める。

趙雲のことを呼んでいる様子に、応えることにした。


見たところ、二十歳そこそこの若者は、趙雲を一廉の人物と見て、お願いしたいことがあると懇願してくる。

みすぼらしい出で立ちだが、鍛え上げられた肉体と強い眼差しが印象的で、名を張嶷ちょうぎょくと名乗った。


「ここの県令さまにお世話になった者です。ご家族の方々が人質になっており、どうしてもお救いしたいのです」

「分かった。少し、落ち着いたところで話そう」


詳しい話を聞きたくなった趙雲は、県庁府から山賊の増援が出てくる前に、離れた場所に移動することを提案する。

城門付近まで戻ったところで、もう一度、張嶷と話し合った。

その張嶷の話では、劉備が蜀に攻め込んだことにより、ここ江陽県の兵も防衛のために駆り出されたのだという。


そして、県の守備が手薄になったところを山賊に狙われたのだった。

対抗しようとした県令も家族を人質に取られた時点で、手も足も出なくなり、殺されてしまう。


以降、何度か近隣の県に依頼をかけて、この山賊を討とうと試みるが、首領の男の強さに、皆、ひれ伏した。

それからは、無念にも、何もできないまま、今日に至ったようである。

実は、張嶷もその首領とやらに勝負を挑んだのだが、どうしても勝てなかったとのことだ。


更に詳しく聞くと、その首領は、悪鬼羅刹あっきらせつのような風貌をしており、蛮族の出自らしい。

鉄蒺藜骨朶てつしつれいこつだという武器を二本、それぞれ片手で操るというので、相当な膂力の持ち主だとも想像できた。


事情を全て聞いた趙雲は、こうなってしまった遠因に、劉備の入蜀が関係あると考える。

また、住民たちが山賊の狼藉を恐れて、家に隠れている様子を不憫に思った。

ここは、この地を治めるためにも、その山賊を討っておくべきだと結論付ける。


「私は劉備さまの家臣、趙雲子龍という者だ。君とは対立する立場の人間だが、私がその首領を討っても構わないか?」

「え?あの趙雲子龍さまですか?」


一瞬で、山賊を倒した実力から、名の通った武将だと思ってはいたが、まさか曹軍単騎駆けの栄誉の将、趙雲子龍だとは想像もしていなかった。

張嶷は驚きながらも、すぐに頷き返す。


「構いません。ここに住む住民にとって、日常の生活が全てです。その平和を守っていただけるのであれば、劉璋さまだろうと劉備さまだろうと、関係ありません」

「よし、分かった。私に全てを任せるんだ。この地の安寧を約束する」


趙雲は力強く、宣言した。

張嶷には白銀に輝く趙雲の鎧が、更に眩しく輝いたように見える。


「盛り上がっているところが悪いが、できない約束を簡単にするもんじゃないぜ」

不意に声をかけられ、そちらを見ると、先ほどの山賊どもが追って、ここまでやって来たようだ。

県庁府で見かけた門番の姿があるので間違いない。


ここで趙雲が目を奪われたのは、先頭に立つ男だった。

大きな体躯に真っ赤な血で染めたような顔色に碧眼の眼光が鋭い。

聞いていた通り、悪鬼羅刹の如くだ。


「この子龍、できぬことは口にしない」

「ほう、面白い。お前があの趙雲子龍か」


趙雲の名を聞いても臆することはない。見かけ通り、相当、腕に自信があるのだろう。

一方、趙雲も相手の力量を認め、血が騒いだ。


「では、相手になろう。名は何と言う?」

「蛮王・沙摩柯しゃまかさまだ」


名乗るや否や、沙摩柯は渾身の一撃を趙雲にお見舞いする。

いきなり始まった一騎打ちだが、趙雲は後方に飛んで難なく必殺の一打を躱した。


そして、その反動を利用して、鋭く踏み込む。

その一連の動作の中で、目にも止まらない突きを三発も同時に食らわした。


ところが沙摩柯は、効かないとばかりに鉄蒺藜骨朶を水平に振り回す。

趙雲は涯角槍で、その攻撃をいなすと、思わぬ大振りとなったがために態勢を崩した沙摩柯に、今度は五発の連突きを当てた。


それには沙摩柯もたまらずに、膝が地に着く。

そんな沙摩柯の目の前に、趙雲は穂先を向けた。


「まだ、やるなら相手になろう」

「くっ」


苦渋の表情を見せた沙摩柯は、趙雲を睨み返す。

まだ、戦えるが勝ち筋が見えてこないのだ。趙雲との格の違いを痛感しているのである。


「お前ら劉備の兵だろう。俺たちとやってることは変わりないくせに、威張るんじゃねぇ」

せめてもの抵抗で、沙摩柯は、そう嘯いた。


だが、その言葉が趙雲の怒りを買うことになる。

鋭い眼光に射すくめられた沙摩柯は死を悟った。


思わず目を瞑ってしまったが、自身の命を奪う一撃はやって来ない。

それもそのはず。

いくら怒ろうとも、趙雲は戦う意思のない者に槍を繰り出すような武人ではないのだ。


「お前らと我らは違う。都市を占拠した後、恐怖で住民を縛るような真似はしない」

「そんな綺麗ごとを言いやがって」


劉備は、今、同族の劉章の国を侵略している。傍から見れば、その行為が山賊と同じと言われても仕方がなかった。

ただ、違うというのであれば、それは結果で示すしかないと趙雲は思っている。


「それを証明してみせる。それまでお前の命を預かる」

趙雲は沙摩柯を拘束するでもなく、ただ手元に置くことにした。


劉備は、この入蜀を自分の野望のためだと言ったが、趙雲は最終的に天下万民のためになると信じている。

そのことを沙摩柯に理解してもらおうというのだ。


この騒ぎの隙に、張嶷は県令家族の救出に成功する。これで県令への恩義を返すことができたと喜んだ。

県令家族が解放された噂は、瞬く間に広がると家の中に潜んでいた住民たちが、一斉に外に出て来る。

久しぶりに味わう新鮮な空気に歓喜した。


山賊どもを成敗したのが、劉備の家臣、趙雲だと知ると劉備を、そして、趙雲を称賛する声が波紋のように広がる。

それに趙雲は槍を振って応えるのだった。


見事、江陽県の制圧に成功した証拠である。

この後、張嶷も趙雲に従事することを誓った。


恩人を殺した沙摩柯には、思うところがあるようだが、きちんと気持ちの整理をするところ、なかなか見どころがある。

江陽県で頼もしい仲間も増やした趙雲は、その足で雒城を目指すのだった。

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