第187話 一得一失
荊州の公安で、易を立てる諸葛亮。
その結果に眉をひそめた。
「悪い卦が出たのでしょうか?」
このところ、毎日のように諸葛亮の元で講義を受けている馬謖が、師の表情が曇ったことを心配して、声をかける。
「いえ、そこまで悪い結果ではないのですが・・・」
『一得一失あり』
それが今回の易の結果であった。
遠くある劉備を想っての占いなのだが、一得とは益州を得られることだと予想できる。ただ、それと比肩するほどの一失とは、一体、何のことだろうか?
現地には、龐統がいるため、何か大きな過ちを犯すとは考えにくい。
だが、そうと分かっていても諸葛亮の心は、一向に安らがなかった。
不安に
主君、劉備に注意を促そうとしたのだ。
ところが、その筆はなかなか進まない。龐統を差し置いて、提案することに躊躇いを感じていたのだ。
「迷っているなら、最善の方法を取った方がいいですよ」
「憲和殿」
声の主は簡雍である。その言葉を聞いて、諸葛亮はやっと決意し手紙を完成させた。
それを使者に預けて、ようやく人心地がつく。
「助言、助かりました」
「いや、益州には士元さんがいるので、滅多なことはないと思いますが、外にいるからこそ見えてくることもあるはずですから」
「まさしく、その通りです。あとは士元が上手くまとめてくれるはずです」
諸葛亮と簡雍が、信頼を寄せる龐統について、語らっているとき、突然、易を立てるために使用していた
何事かと、よく見れば収納していた筒が割れたようだった。
思わず、諸葛亮と簡雍は顔を見合わせる。
「変事にも対応できるよう準備だけはしておいた方がいいですね」
「私も、そのように考えます」
二人は、いつでも益州に援軍に行けるよう、準備を始めた。
ただの占い結果に偶然が重なっただけかもしれない。
それでも、動かずにはいられなかった。
荊州が急に慌ただしくなるのである。
綿竹関で諸葛亮から手紙を受け取った劉備は、その内容について龐統に相談した。
手紙には張魯の存在に一定の注意を払うこと。世間では、今回の劉備の入蜀に関して、不義を唱える者が少ないことなど書かれていたが、その中で特に気を引いたのは、諸葛亮が立てたという易についてのことだった。
諸葛亮がわざわざ易の結果を伝えてくるとは、よほど悪い結果なのかと思えば、内容的には『一得一失』と書かれているのみ。
最悪の結果とは言い難いように思えた。
劉備としては、どう扱っていいのか判断できないのである。
「孔明ちゃんが易ねぇ。恐らく、この一失って方が気になったんでしょうが、私も心得がある。一つ、易を立ててみますよ」
一得というのが、益州を取ることが叶うという意味であれば、大変、喜ばしいことだ。
そうなれば、当然、多少の犠牲も出ることだろう。
あまり神経質になる必要はないように思えるのだが、実は同時に簡雍からも手紙を受け取っており、その点も併せて引っかかる一因となった。
龐統は主君の意に沿って、天幕に戻ると、早速、易を立ててみる。
すると、諸葛亮と同じ結果がすぐに出た。
やはり、『一得一失』。
たかが占いといえど、諸葛亮と龐統が同じ見立てになったことになる。
自惚れと言われるかもしれないが、天下の伏竜と鳳雛が同じ結果になったのだ。
これは、ある程度、確証のある易と思っていい。
それでは、一得とは、何か続けて占ってみた。
この件に関しては、益州を得られることと考えていい様子。だが、一失については、分からない。
遠征の目標がはっきりしている分だけ、得の方は分かりやすいのだが、失の方は何を対象にしていいのか、範囲が広すぎて特定が難しいのだ。
念のため、劉備の生命についてだけ確認してみるも、はっきりとした卦は出ない。
益州を得とした場合に、相対する失だけに分からないのは、非常に不気味だった。
ただ、だからといって、戦を中止するというわけにはいかない。
奇しくも、今回の益州攻略に関して注意すべき別の卦が出たためだ。
それは、攻略は成るのだが、あくまでも、今の機会においてという話。
止めて、一旦、間を置くと、難しくなっていくようである。
つまり、どんな大きな犠牲が出ようとも、今回の遠征をやり通さない限り、益州を得ることが厳しくなるのだ。
これは劉備には覚悟を決めた決断してもらわないとならない。
益州を取る好機は、今をおいて他にないが、得るためには益州に匹敵するような損失が出る計算になる。
今は何か分からないが、その何かを失ってでも益州攻略を続けるのかどうか。
龐統に易の結果を含めて、そう問われると、劉備は事態を重く受け止めた。
単なる占いとはいえ、信頼する両軍師が同じ結果を出したのである。
それは間違いなく起こる現実と捉えて間違いないと考えた。
それでは、劉備は、一体、益州の代わりに何を失うのか?想像することが全くできない。
しかし、結論は決まっていた。いや、迷う事すら許されない。
益州を得られるというのが決まっているのであれば、前に進むしかないのだ。
それが、私心、個人的な野望のためと分かりながらも、ついて来てくれる者たちに報いる、唯一の方法なのである。
「勿論、益州を得る悲願を諦めることはない。どんな損失だろうと、甘んじて受け入れるよ」
「そう言っていただけると、助かります」
張松の犠牲もあり、法正にも約束していた。万が一にも、劉備が投げ出しそうになった時は、縄に括りつけてでも益州の残さなければならないと、龐統は覚悟していたのである。
もっとも、そうなる心配は全くしていなかったのだが・・・
主君が望む決断を下してくれた以上、万が一にも、その損失が劉備の命に関わる事であれば、絶対に阻止してみせる。
龐統は、鳳雛の名は伊達ではないと、心に期するのだった。
成都を守る最後の砦に、張任が合流する。
涪城、陥落後、散り散りになった兵をかき集めて、ここ雒城にやっと到着したのだ。
もともと守備を任されていたのは、劉璋の息子・
劉循は張任という思わぬ援軍に、大層、喜んだ。
「劉璝も間もなく、こちらにやって来ると思われます。この雒城は、益州の意地にかけて落とさせませぬ」
「おお、劉璝も合流するとなれば、随分と頼もしくなるな」
「はい。劉循さまは大船に乗ったつもりでいて下さい」
張任の頼りがいのある言葉に、劉循はすっかり安心する。
実は、劉循は戦経験が少ないことを理由に、歴戦の劉備軍と対峙することを不安に感じていたのだ。
しかし、張任と劉璝の参陣で、一気に解消される。
「それで、劉備を迎え撃つにあたって、何か作戦はあるのか?」
「綿竹関から雒城に向かう間、距離は短いですが、その道は険しくなります。細くなった山道に伏兵を置いて、劉備を討ちたいと考えます」
「おお、それは妙案だ。この辺は難所も多い。兵を伏すには、もってこいだろう」
張任の作戦に賛同した劉循は、劉璝の合流を待って、兵の配置をすることにした。
但し、劉備軍が通って来ると思われる道が二つあることに、どちらに配置すべきか悩む。
「劉備はどの道を通ると思う?」
「それは、分かりませぬ。ですから、こちらは兵を二つに分けて、配置しようと思います」
連戦連敗によって、劉璋軍の兵力は減っている。
逃亡兵や劉備に寝返る者が増えており、できれば戦力を分散することは避けたいのだが、こればかりは仕方なかった。
どちらか一方に山を張って、もし外れるようなことがあれば、それこそ目も当てられない。
「その代わり、毒矢を使用いたします。背に腹は代えられません」
「うむ・・・。そうだな」
毒矢は、暗殺などには用いられるが、戦場で使用することは、ほぼなかった。
それは、いかなる理由があっても、卑怯者の誹りを受けるからである。
武門に身を置く人間にとって、命よりも名を惜しむ風潮の時代。
そこで、あえて毒矢を使用するというには、張任の覚悟の現われである。
その背景には、もし雒城が抜かれるようなことがあれば、残るは成都のみとなり、益州の運命は風前の灯火となるためだった。
自軍の存亡がかかるとなれば、外聞などは気にしていられない。
貧しい家に生まれた張任を、ここまで引き上げてくれたのは劉焉、劉璋である。主家に恩返しすることを考えれば、汚名の一つや二つ問題なかった。
「これは、あくまでも私が考案し、実施する作戦。劉循さまには迷惑はかけませぬ」
「いや、お前だけに汚れ役はさせぬ。全ては、国家、お家のためだ。私も泥をかぶる」
劉循も腹を決める。不退転の覚悟を持って、作戦を実行することにするのだった。
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