第186話 皖城の戦い
荀彧が亡くなって一年後、曹操は公の爵位を得て、正式に魏公が誕生する。
曹操は
この所有とは、まさに曹操のものとなったことを指す。
劉備や孫権などは州牧として、土地を支配しているが、あくまでも漢の地を天子に代わって治めているだけであり、実質は荊州も揚州も漢の領土という扱いなのだ。
しかし、先の十郡は違う。
曹操は所領となった十郡をまとめて、『
ゆえに魏公なのである。
また、曹操自身は、漢の家臣という立場を崩さなかったが、曹操の臣下たちは、こぞって魏の臣となった。
これにより、漢の臣は献帝の周りにいる数人だけとなる。
元から力を失っていたとはいえ、人々は一気に漢帝国の凋落が進んだ印象を受けた。
人々の関心は、間違いなく漢から魏へと移ったのである。
その魏は、勢いに乗り確実に実効支配する土地を広げていった。
大きな戦はないものの孫呉の国境も浸食し、いつの間にか廬江郡の大半が魏の旗に変わる。
この歯止めが効かない状況を危惧したのが、呂蒙だった。
曹操が廬江太守として指名した
肥沃なこの土地が曹操の手によって発展されれば、いずれ取り返しがつかない事態になるのは、間違いないからだ。
呂蒙は、皖城を攻める許可を得るために、急いで上奏を行う。
「朱光は、皖城で屯田を行っているだけではなく、
「そのことは、私も懸念していた。子敬とともに当たってくれ」
孫権は、すぐに了承し魯粛とともに対応するよう指示を出した。
役職的には魯粛の方が上だが、今回、その魯粛から全て呂蒙に任せるという言葉をもらう。
前年の濡須口での活躍が認められてのことだった。
ただ、軍議の場では、その魯粛以外の臣から、出される案に呂蒙の顔が曇る。
その案とは、皖城攻略にあっては、土山を築き攻城兵器を多く用いるべきであるというものだ。
戦法としては悪くないが、呂蒙の考え方とは大きく異なる。
「攻城兵器を用意するのに時間がかかります。時間を要すれば、合肥から援軍が到着することでしょう。合肥の張遼は、厄介な相手。ここは時間をかけずに攻略すべきかと思われます」
「私も子明の案に賛成でございます」
全て任せると言った手前、魯粛も呂蒙の案を支持した。
この結果、呂蒙の描いた作戦通り、電撃戦をとることになる。
呂蒙は、その作戦に見合った軍編成を試みようとしたが、ここで悩ましい問題が生じた。
機動力、攻撃力、判断力を重視すると、最良の将は甘寧と淩統になる。
だが、この二人を同じ軍に入れて作戦を実行するというのは、なかなか骨が折れる仕事だった。
何せ、黙っていれば命の奪い合いを始めるほどの犬猿の仲。
普段、分別のある淩統も甘寧を前にすると、途端に自制が効かなくなるのである。
以前、黄祖の元にいた甘寧に、自分の父親凌操が殺されたという事情を鑑みれば、その気持ちも分からなくもないのだが・・・
作戦成功のためには、この編成は譲りたくない。
呂蒙は、戦の前に二人とじっくり話し合う必要があると考えた。
魯粛にも協力してもらい甘寧、淩統と話し合うための一席を設ける。
冒頭、二人に向かって、呂蒙が頭を下げた。
「今は、国家の一大事。どうか、私怨を忘れてほしい」
国家と私怨、秤にかければどちらが重いかなど、考えるまでもない。
それは、二人とも分かり切っていた。
ただ、甘寧としては、淩統が突っかかってくるため、降りかかる火の粉を払っているだけに過ぎない。
甘寧から仕掛けたことは、一度としてなかった。
問題なのは、淩統の感情にある。
その事実を認めている淩統は、呂蒙の言葉に自責の念を覚えた。
何より、現在の孫家を支える柱、呂蒙に自分のことで頭を下げさせたという事実を、真摯に埋め止めたのである。
「この公績、呂蒙さまの言葉をしかと胸に刻みました。国家の大事を優先すると誓います」
淩統のその言葉を聞いた甘寧も、同様に承知した。
「私も誓います」
二人の同意を得たことで、呂蒙は今回の作戦を告げる。
と言っても、それほど難しい作戦ではなかった。
城壁をよじ登り、城郭を制圧する。その後、城門を開放して一気に攻め落とすというもの。
ただ、その配役を聞いた時、二人の空気が変わった。
壁を登るのが甘寧の役目で、下から弓などで援護するのが、淩統という指名である。
つまり、甘寧が城壁にしがみついている間、ずっと無防備な背中を淩統に見せていることになるのだ。
緊張感が走る中、張りつめた空気を破ったのは、甘寧の闊達な笑い声。
「はっはっは。誓った以上、その言葉は変えません。喜んで、その役目を引き受けましょう」
「よく言ってくれた。もし、途中で興覇殿が亡くなることあれば、私もともに命を捨てよう」
呂蒙が甘寧の覚悟を激賞すると、自分の命も賭けると言い出す。
そんな中、淩統は目を瞑って自問した。
父親の仇の隙だらけの背中が見えた時、本当に手出ししようとする欲求に打ち勝つことができるのか?
そして、出した結論は、「甘寧殿の命、私が預かります。万が一のことがあれば、私も命を差出しましょう」だった。
例え、父の仇を討てたとしても、誓った言葉を違えては、あの世で父の叱責を受ける。
淩統は、そう考えたのだった。
「皆さんの覚悟、受け止めました。私も命を賭して、囮の役目を務めましょう」
甘寧が城をよじ登っている間、敵の目を引き付けておく役目を魯粛が担うのだが、皆に
こうして、皖城攻略の作戦会議が終了した。
そして、作戦当日。
魯粛は、皖城正面に陣取り、敵の注意を集める。
同じく、呂蒙の旗も魯粛の陣にあったため、嫌でも注目せざるを得ない状況だった。
例え、朱光以外の者が皖城を守備していたとしても、甘寧が城壁を登っているのに気づくのが遅れたことだろう。
朱光が覚知したときには、すでに甘寧が城壁の四分の三以上、踏破しており、対応が後手に回ったのだ。
慌てて、突き落とすよう指示を出すが、突然、現れた淩統隊の弓兵により、守備兵が射殺される。
甘寧は、自分を通過していく矢を背に、勢いよく登っていくのだった。
城壁を登り切る間際に、風きり音が耳の横を通過する。
淩統の矢が甘寧の頭、すれすれを通って、敵兵を射止めたのだ。
「あの野郎、・・・でも、助かったぜ」
淩統の援護のおかげで、城壁を登り切った甘寧は、まだ上っている部下たちのために、一人、城郭で暴れまくる。
「甘寧、一番乗り」
腰に巻いていた鉄鎖球を振り回すと、一投で二、三人を叩き伏せた。
甘寧が時間を作り、率いていた部隊、全員が揃うと一目散に城門へと急ぐ。
内側から、門を開けようというのだ。
当然、守備兵は、その邪魔をする。
その守備兵の先頭に守将の朱光がいた。
「もはや、この城は我らのものだ。とっとと降伏するがいい」
「貴様を討てば、終わりだ。皖城が落ちたわけではない」
「ふん。我が軍の淩統に出来ぬこと、お前ごときにできるわけがなかろう」
その言葉通り、朱光は甘寧の相手ではなく、あっさりと捉えられてしまう。
そのまま、甘寧は皖城の城門を開けると、一気に孫呉の兵が入城してきた。
これで、勝負あり。
皖城は呂蒙が画策した通りの電撃戦で落城するのだった。
救援のため、合肥の城から張遼が駆け付けていたのだが、皖城落城の報せを受けて引き返す。
もう少し遅ければ、敵の援軍が到着し苦戦は必至。
やはり、呂蒙の作戦が正しかったことを証明した。
この戦での第一功は呂蒙とし、孫権は廬江太守に呂蒙を任命する。
二番目の功としては、甘寧が選ばれて、折衝将軍へと昇格した。
これで、廬江郡南部の足場固めを行った孫権は、次に合肥を狙う準備を開始する。
巣湖を境とする孫権と曹操の争いは、まだまだ、続くのだった。
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