第185話 大きなすれ違い

四十万の兵を動員しておきながら、あっさり退却した曹操軍。

そのことを不可解に思っていた孫権だったが、実は理由がある。

それは、ある名臣の死が大きく曹操の心情に影響していたせいだった。


『王佐の才』、荀彧文若。


言わずと知れた天才的な政治家であり、軍略家。誰もが認める曹操軍、第一の参謀である。

彼は曹操が濡須口へと遠征中、寿春の地で亡くなった。


一説には自殺したとの噂が流れる。その原因と疑われる事件が、その年に起きていたためだ。

それは、幕僚たちの間で、曹操を魏公ぎこうに推す動きが見られたことに端を発する。


公とは、臣下として得られる最高の位であり、その上には王、そして、皇帝しかいない。

つまり、曹操が魏公の位に就き、今以上に名声が高まれば、自然に次は王位をということになる。その先には帝位簒奪まで見えてくるのだ。


魏公に昇格すれば、曹操に権力を握らせようと画策する周囲の者たちの歯止めが効かなくなる。

これは、銅雀台で曹操が宣言した、帝位を望んでいないという考えに反する行為だ。

主君の意を汲んで、荀彧は反対の立場をとる。


とはいえ、主君の栄達は自身の栄達につながるのだ。

魏公を推薦する者たちも必死である。


その中心的人物が、司空軍師祭酒の董昭とうしょうだった。

董昭は、まず五等級の爵位制度を復活させることを提言し、併せて、曹操が公の位に上ることを勧める。


五等級とは、『公、侯、伯、子、男』の爵位のことで、周の時代に作られた制度だ。

もっとも董昭の狙いは、制度の復活よりも曹操が魏公に就くこと。


爵位制度を隠れ蓑に魏公就任を進めようとしているのだった。

逆に言えば、曹操が魏公にならないのであれば、制度を復活させようとは考えてもいない。


「曹操さまは、漢の忠臣として中原を制し関中の乱も鎮めました。近年では、前例のない功績と言っても、過言ではございません。臣は、謹んで魏公就任をお薦めします」

「董昭殿、待たれよ。ご主君の功績については、十分承知しているが、何も栄誉を求めて軍を起こしたのではない。漢に対する忠誠あって、今日に至っているのだ」


董昭の提言を荀彧は、真っ向から否定した。荀彧もいずれは、そうなることもやむなしと思わないこともないが、今はその時期ではない。

南に劉備と孫権という最大の敵が残っているのだ。


その中でも、荀彧が特に気にしているのは劉備に対してである。もし、漢の世を簒奪する野心あり、というような風潮が世間に伝われば、彼に大義名分を与えかねないのだ。

曹操は朝敵という名の元、周囲の群雄たちを駆逐していったが、今度は逆のことが起きてしまう。


劉備が赤壁前の弱小勢力のままなら気にはしないが、荊州を得たことで事情が変わった。

曹操が覇を唱えるにあたっての最大の障壁にまで成長したと言ってもいい。


ここで、彼と世間を刺激して、反曹の旗頭となれば、劉備の元へ人が流れて行く可能性だって考えられた。

曹操の魏公就任が、覇道を遅らせる遠因となっては、まったく意味がない。


「荀彧殿は、何をそんなに神経質になっておられるのか分かりません。まさか、曹操さまに帝位簒奪のご意思があるとお思いか?」

「ご主君になくても、世間がそう見ることがあるということです。その風評が、未だ心服していない勢力に力を与えるかもしれないと、危惧しているのです」

「外敵を気にして、ご主君の栄達を阻害するのは、臣下の考え方として、いかがなものでしょうか?」


だから、そもそもその栄達を曹操が望んでいないのだ。

荀彧は、そう叫びたくなるのをぐっと堪える。


ここは、曹操から強い一言を言ってもらうしかないと、主君の言葉を待った。

しかし、その曹操の口からは、意外な言葉が出て来る。


「文若、やはり、魏公就任は厳しい問題だろうか?」

この口調は、曹操も前向きに考えているということだ。

荀彧の顔が失望の色で染まる。


「あと一歩でございます。・・・せめて、劉備を討つまではご自重願えますでしょうか」

「やはり、そうか」


荀彧が言わんとしていることは、曹操にも分かっていた。だが、多くの群臣を束ねる曹操の立場も苦しいのである。

赤壁の大戦で敗れ、沈んでいたところで関中の反乱に勝利した。


この盛り上がった気運に乗って、もう一押しすれば、赤壁前の勢いを取り戻すことができると考えたのである。

その方法として、魏公は、それほど悪い手とは思えないのだ。


また、正直、年齢的な問題が曹操の中に影を落としている。

曹操は、今年で五十七歳。自分が生きている間に覇業達成は、厳しいのではないかと思い始めたのだ。

何か形に残して、次代に繋げたいという気持ちが生まれたのは、人として仕方のないこと。


だからと言って、これまで二人三脚でやってきた荀彧の意見をないがしろにするつもりは、曹操にはない。

先ほどは、そのための確認だった。


ただ、それで荀彧が受けた衝撃は、計り知れない。

これまで、曹操と荀彧の間で、ここまで考え方に開きが出たことはなかったからだ。


このずれが、次第に二人の間にすきま風を通すことになる。

そして、時間の経過とともに、そのずれが段々大きくなっていくのだ。


さすがの曹操も荀彧が反対の内は、魏公就任には踏み切らない。

そのため、利する面を伝えながら説得を試みるが、首を縦に振ることはなかった。


なかなか承認しない荀彧に対して、曹操は徐々に苛立ちを覚えるようになる。

そのように二人の関係がぎくしゃくしたまま、濡須口の戦いが始まったのだ。


そんな折り、曹操は息子の曹丕から手紙を受け取る。

その内容は、病気で荀彧が倒れてしまったというものだった。


荀彧が軍の仕事で、各地の慰労に回っていた際に、たまたま曹丕と一緒になり、趣味であった弓の話で盛り上がっている途中で、倒れたらしい。

それで、現在、寿春で療養しているとのことだ。


その報せを聞いた曹操は、頭の中が真っ白になる。

今まで荀彧が自分の傍にいることが当たり前になっていた。その相棒がいなくなったらと考えると、急に怖くなったのである。


その時、荀彧は自分にとって、なくてはならない存在なのだと、改めて実感したのだ。

曹操は、荀彧の回復を祈るとともに関係の修復が必要だと考える。


そして、見舞いと称し、白紙の入った箱を送るのだった。

ただ、この白紙の意味の取り違いによって、悲劇が起きてしまうとは、まさか想像もしていなかったのである。



曹操からの見舞いの品を受け取った荀彧は、一人、考え込んだ。

中身のない箱。正確には何も書かれていない紙切れが一枚、入っていたが、これはどういう意味だろうか?


病気とは、人の心を弱くする。

それは聡明な荀彧といえど同じことだった。


この中身のない箱と白紙に込められた曹操の意図を考えると、悲観的な発想しか生まれないのである。

荀彧は、頭を振って、考え直した。


もしかしたら、曹操がうっかり、したためた手紙と間違えて入れてしまったのではないか?

そんなことを考えながら、荀彧は苦笑いを浮かべる。


あの曹操孟徳に限って、そんな間違いを犯すわけがないのだ。

とすれば、考えられることは、やはり一つしかない。

頭の中をよぎっては、何度も否定し続けた言葉。


『もうお前に頼むことは何もない』


その現実を受け止めた荀彧は、静かに目を閉じる。

二人の出会いは、当時、東郡太守を務めていた曹操に、荀彧、自ら仕官に行ったのが始まりだった。


曹操はすぐに荀彧の才能を認めて、幕下に加えると、一番の友人のように二人で将来を語り合ったのである。

幾多の戦場も一緒に駆け抜けて行った。


青州黄巾党、飛翔呂布、偽帝袁術、華北の雄袁紹。

強敵を前にして、挫けそうな時は励まし合い、勝利を得た時は、喜びを分かち合った。


その関係も、このような形で終わりを迎えるとは・・・

昨日までは、鮮やかな色に彩られていた思い出は、今は色あせた墨色に変わる。


『私の役目は終わったのだ。・・・ならば』


荀彧は、その日のうちに服毒してしまうのだった。

亡骸となった荀彧の顔には、涙が流れた跡があったという。

それは、まだまだやれたという無念の現われだったのかもしれない。


その荀彧の訃報を遠く濡須口の地で聞いた曹操は、驚きと同時に深く悲しんだ。


『違う、違うぞ、文若。白紙の意味は、いさかいを起こしたことをなかったことにして、これから、二人でその紙に将来のことを書き尽くしていこう。そういう意味だ』


いつもの二人。以心伝心ができていた二人であれば、こうした間違いは起きなかったかもしれない。

ちょっとしたすれ違いが、大きな溝となり、それを放置した結果が今回の悲劇を招いたのだ。


今回は、自分の落ち度だと認めた曹操は、何もかもが手につかなくなる。

日中、配下の前では、虚勢を張っていたが、夜一人になると後悔の想いで押しつぶされそうになった。


こんな状態で、戦の継続などあり得ない。

大した戦果を上げていないのを承知で、曹操は退却することを決めたのだ。


これが、曹操軍が濡須口からあっさりと、退却した理由だったのである。

曹操は、負け戦以上の悲痛な気持ちを抱いたまま、鄴へと戻って行った。

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