第2章 黄巾の乱編

第7話 初陣

「・・・李明りめい・・」

女性の手を握る男の手は土で汚れていた。

しかし、今はそんなことを気にする余裕もない。


手の中で女性の体温が下がっていくのを感じる。

しかし、男には女性に対して施す手段が何もなかった。


・・・無力だ。

男は嘆き悲しみ天を仰ぐ。

僅かながら、女性の口が動くのに気づき、耳を近づけた。


「・・分かったよ。約束する」

その言葉を聞いて、安心したかのように女性は静かに息をひきとるのであった。



蒼天已死そうてんすでにしす 黄天當立こうてんまさにたつべし 歳在甲子としはこうしにあり 天下大吉てんかだいきち


この言葉を合言葉として、黄巾党の勢いは増大し、幽州涿県ゆうしゅうたくけんにおいて民衆からの助力を願う高札が立てられた。


その高札の前に立つ群衆の中で、一人、難しそうな顔をしている男がいる。

『義勇兵求む』

確かにそう書かれていた。


高札の一番前で腕組みをしている劉備玄徳りゅうびげんとくは、

「求むったって、誰のもとに集えばいいんだよ」

と、ぼやく。


確かに涿県の太守は、隣の広陽県こうようけんの太守が黄巾党に殺されるやいなや、さっさと逃げ出してしまっている。

「噂では、幽州刺史も黄巾党の手にかかったと聞いています」

関羽雲長かんううんちょうが劉備に耳打ちをした。


「本当か?関兄」

劉備よりも先に反応した張飛益徳ちょうひえきとくが、やれやれと肩をすくめた。


「官軍が想像以上に弱い。だから、我々の力が売り時なんですよ」

簡雍憲和かんようけんかの言葉はもっともだ。しかし、手元の五百だけで十数万の黄巾党を相手にすることはできない。

官軍との協力は不可欠である。


「はいはい。文句ばっかり言ってないで、新しく都から派遣された校尉に会いにいきますよ」

その校尉との渡りは簡雍がつけてくれている。

四人はその足で校尉のもとに向かうのであった。



「お前が、劉備玄徳か」

「いや、こっちね」


関羽に対して、そう尋ねるので、劉備は自分の顔を指でさす。

校尉は、見事な体躯に貴相を持つ関羽を四人の中の主導者と勘違いしたようだ。


「何だ、お前か」

「そう、俺だよ」

「もう少し、威厳・・・」


途中で校尉は、言葉を濁した。

張飛が危うく抜刀しかけているのに気づいたからだ。


それを劉備が止めてくれている。

一方、もう一人の偉丈夫に目をやると長兄に対する無礼な態度に怒り気味。

関羽、張飛の二人に睨まれ、流石の校尉も少々たじろいでしまった。


「いや、失礼した」

「いえ、間違いは誰にでもありますから」

「私は鄒靖すうせいという者だ。よろしくお願いする」


鄒靖と名乗るこの校尉。

意外と悪い人間ではなさそうだ。

田舎者相手に舐められないように強気に出て失敗した様子が手にとれる。


「手勢は五百と聞いたが、間違いないか?」

「ええ、間違いないですね」

「うむ」

鄒靖は顎に手を当てて思案したのち、地図を取り出した。


「幽州の黄巾党どもが刺史を討ったのは聞いているな?」

「噂の範疇ですが、さっき聞きました」

「事実だ。その幽州黄巾党と青州せいしゅうの黄巾党が合流する動きがある」


この二つの勢力が合わさると簡単には手が出せないほどの一大勢力となる。

官軍とっても脅威なのだろう。


「それで?」

「その合流を止めてほしい。・・ここ大興山だいこうざんの地でな」

そう言うと鄒靖は地図の一点を指した。

「その数、五万だ」



劉備一家が軍装を整えて進軍している。

劉備は二対の剣、『雌雄一対しゆういっついの剣』

関羽は重さ八十二斤の青龍偃月刀、『冷艶鋸れいえんきょ

張飛は長さ一丈八尺の矛、『丈八蛇矛じょうはちだぼう

それぞれ新しい武具を身に着けていた。


全て張世平からいただいた資金で用意した物である。

武具の名称含め、多少、誇張した内容を喧伝するよう簡雍が仕組んだ。

誇張した分を差し引いても素晴らしい様相である。


そんな中、不満な顔をしているのは劉備であった。

別に出発前に馬子にも衣装と簡雍に揶揄されたせいではなく、単純に鄒靖の指示に対して思うところがある。


「増援がまったくないんだな」

「まぁ、千や二千増えたところで、出発前に確認した作戦は変わりませんが・・」

関羽の言に素直に頷く。

「まぁ、そうだけど」


「長兄。憲和の情報通りなら、何とかなるぜ」

自信に満ちた張飛の顔を見て、納得させるように、大きく息を吐きだしたのち、

「わかったよ。まぁ、何とかするのは、俺だけどね・・・」

そう言いながら、劉備は出発前の打合せを思い出すのであった。



「黄巾党の数は確かに五万のようですが、こちらは都に近い激戦区ではないためか、兵の質はかなり悪いですね」

劉備、関羽、張飛、簡雍。

四人が集まって、軍議を開く。

簡雍は集めた情報をみんなに説明していた。


「私が調べた限り、食い扶持を求め参戦している者が多く、正直、士気が高いとはいえません」

「誰がまとめてんの?」

「この中で将と呼べるのは程遠志ていえんしという者くらいです」

「ふーん。強いのか?」


劉備の問いかけに首を振る。

「雲長さん、益徳さんに会ってから、私の中の強いという尺度が少々おかしくなっていますが・・・ただ、お二人に比べると十数段は落ちます」

「なるほどね」

「それと・・・」


簡雍は少し言葉を言い淀む。

そして、関羽に視線を送ると、

「この男、どうやら鄧茂とうもとつながりがあったようです」

関羽の鳳眼ほうがんがますます細くなり、険しくなった。


鄧茂は以前、関羽が率いていた義賊の副団長をしていた男だ。

「では、その男は私が責任をもって討とう」

「お願いします」


最後に最大の問題。

兵力差をどうするだが、まともに戦っては、当然勝ち目がない。


「分かっていると思いますが、数を頼みに囲まれたら終わりです」

「その前にどうにか将を討てば・・・か?」

「雪崩のように崩壊する可能性は高いです」


方策としては、それしかないようだ。

ということは、釣り出し作戦になるが・・


「まぁ、それは俺が何とかするよ」

簡雍は戦場に出ないため、役どころとしては劉備が請け負うことになる。

そこに異論はなかった。


軍議が終わりかけたころ、おもむろに張飛が発言する。

「黄色の襟巻野郎はいねぇのか?」

「誰です?」

「いや、いないならいい」


張飛があっさりと引き下がったので、話題はここで終わる。

全員が席から立ちあがり、軍議も終わるのであった。



大興山のふもと、劉備一家と黄巾党が対峙する。

相手方の数は五万。その軍容は確かに壮観だった。

一方、五百の劉備たち。

黄巾党から、完全になめられた罵声が飛んでいる。


「一応、聞くが、お前たちは何しにきたんだ?」

「もちろん、お前たちを滅ぼしに」


程遠志と思しき将に対して、劉備が受け答えをする。

黄巾党からドッと嘲笑が起こる。


五万人の笑い声。

地響きのように響きわたった。


その中、怯むことなく劉備が前に押し出る。

その指先は天を指していた。

「よく見ろ、お前ら。蒼天は死んでねぇ!」


確かに天気は快晴で青空が広がっている。

しかし、それがどうした?


ひょっとして、黄巾党が掲げる標語のことを言っているのだろうか・・・

一堂、ポカンとした後、再び笑いが起こった。


「長兄。蒼天とは天気のことではなく、漢王朝を示しているのです」

関羽が劉備に耳打ちすると怪訝な表情をした。


「何で、蒼天が漢王朝なんだよ。意味が分かんねぇ」

「そう、言われましても・・」

逆に関羽が困惑してしまった。


張飛は馬鹿笑いを繰り返し、

「そんなの俺でも知ってるぜ」

「そうなの?」


何やら、くだらない会話を繰り返している敵軍に対して程遠志は、鼻で笑うと、

「こんな奴ら、全軍であたる必要もない。千だけ、俺についてこい。一蹴する」

千騎を引き連れて突進してくるのであった。


「さすが、長兄。作戦通りか」

張飛の言葉を劉備は無視する。


「雲長、出番だ」

「はっ」

劉備の指示に従い、関羽が単騎、駆け出した。


程遠志も先頭を走っている。

二騎がすれ違うと、冷艶鋸の刃が輝き、あっさりと程遠志の首が飛んだ。


続けて、張飛も駆け出すと、目の前の黄巾党、十人ばかりを丈八蛇矛の一振りで吹き飛ばす。

これで、黄巾党の出鼻が完全にくじかれた。


関羽は転がる程遠志の首を拾い、高々と掲げる。

「漢の中山靖王ちゅうざんせいおう劉勝りゅうしょう後胤こういん、劉備玄徳が義弟、関羽雲長。賊将、程遠志を打ち取った」


関羽の宣言と、その横で張飛が大暴れし、次々と味方を薙ぎ払っている様子を見ると、黄巾党の態度は一変した。


「あんな化け物たちを相手にできねぇよ」

「まだ、死にたくない」

動揺の波が広がっていく。


「おーい。今、逃げるなら、追わないよ」

劉備が白々しいほどの優しい声をかける。


そして、一変、凄んだ表情に変わると、

「じゃないと、こいつらをけしかけるぜ!」

関羽と張飛が自身の得物を構えなおし前に出る。


それを見て、一斉に兵たちは霧散した。

退却ではなく、我先に武器を捨てて逃げ出すのだ。


四方に規則性なく広がりながら逃げ出すので、呼び戻すこともできない。

ましてや再びの合流は無理だろう。

ついに呼び戻すことを諦めた将らしき男たちも逃げ出すのであった。


鄒靖に頼まれた作戦は成功と言っていい。

「初陣は完勝ですな」


関羽と張飛が劉備の前にやってきた。

息切れ、汗ひとつかいていないのはさすがだ。


「よし、それじゃあ、戻るか。憲和のやつが待っている」

百倍の敵を破った義勇兵。

劉備一家の勇名はここから始まった。

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