第21章 孫劉同盟編

第126話 呉の使者

江陵県に到着した曹操だったが、待てど暮らせど劉備は姿を現さない。

どうやら、江陵県の占拠は諦めたようだった。


「申し訳ございません。劉備を待ちかまえる策は失敗したようです」

「鼻が利く相手だ。どこかで、情報が漏れたのだろう」


劉備は、黄巾の乱から常に前線で戦いながらも、今まで生き残ってきた男である。

それだけ、危険察知能力には長けているのだと、曹操は説明した。


荀攸の献策は不発に終わるが、いずれにせよ僅かに劉備の寿命が延びただけ。

逃げた先を追いかけて行けばいいだけと、曹操は大局を理解しているため、落ち着いていられるのだった。


「それでは、どちらへ逃げたのか、探らせます」

「ああ、頼む」


曹操は、江陵県に蓄えられていた物資を既に確認していたが、予想よりも多いことに驚く。

これが劉備の手に渡らなくて、本当に幸いだった。


また、荊州が抵抗していた場合、豊富な物資を背景に、苦戦を強いられた可能性についても考えさせられる。

劉表が亡くなったことがもたらした、曹操の利は相当大きいと感じるのだった。


残るは劉備だが、後はじわじわと追い詰めていけばいい。

この大魚を逃がすまいと、網の目を張り巡らせるのだった。



曹操が江陵県に到着する数日前、長坂にいる劉備を訪ねる使者があった。

それは、孫権の臣、魯粛である。


「お初にお目にかかります。私、討虜将軍とうりょうしょうぐんにして会稽太守・孫権さまの臣、魯粛という者です」

「丁寧な挨拶、痛み入る。私が劉備玄徳だ」


お互い、挨拶を済ませると、魯粛は不躾ながらも劉備に、これからの行動方針を確認した。

それによって、孫呉の立ち回りも変わってくる。


「まずは、江陵県を目指して、物資の確保。その後は、情勢を見ながらの対応になるんじゃないか」

「江陵県に行かれるのは、おやめになった方がよろしいです。私も向かっておりましたが、どうやら、すでに曹操の手に落ちたようでございます」

「やはり、そうか」


劉備の反応は薄い。長坂で追いつかれたことで、その可能性も頭の中にあったのだろう。

さすがにその程度の洞察力は持っているようだ。

魯粛は、じっくりと劉備という人間を観察する。


「では、当初の予定通り、呉巨を頼りに交州へ向かうことにする」

「呉巨は、劉皇叔がともに大望を抱く相手としては、役者不足に思います。それでしたら、我が主の孫権さまにご興味はございませんか?」


しかし、孫権は曹操と敵対するかどうか決めかねていると聞いていた。

その方針が定まらねば、劉備も迂闊に近づけない。


「あるかないかと問われれば、それはある。孫権殿は、私のことは何と申しているのだろうか?」

「当代の英雄の一人と称えております。一度、揚州にお越しいただき、孫権さまとお話しされてみてはどうでしょうか?」


いきなり、領地に来いとは話が性急すぎる。

それとも劉備の窮地に足元を見ているのだろうか?


「盟約もなく訪れれば、孫権殿に迷惑をかけることになる」

「まだ、はっきりとは申せませんが・・・私どもにはその準備はあります」


やけに思わせぶりな言動と感じた。

どこまでこの魯粛は、裁量を与えてられているのか疑問が残る。

劉備が返答を探っていると、そこに簡雍がやって来た。


「大将、孔明さんが、たった今、到着しました」

その後ろに諸葛亮の姿がある。

どうやら、江夏から戻って来たようだ。


「我が君、琦君から一万の援軍と、楼船ろうせん露橈ろとう、数隻お借りして来ました」

「おお、孔明。ご苦労だった」


軍師が戻って来たことで、魯粛には申しわけないが外してもらい、今後について打合せ行う。

劉琦が難民ともども、劉備を受け入れてくれる段取りとなったので、諸葛亮も交州よりも江夏に赴くべきと話した。

諸葛亮がそう言うのであれば、劉備は黙って頷くのみ。


散り散りとなり、三万まで減った荊州の住民たちを集め、怪我などで歩けぬ者を優先に船に乗せ、漢水を下ることにした。

残りの者は、関羽が誘導して陸路を往くことにする。


行き先、手段が定まると、劉備は主だった者を集めて、この地で亡くなった者たちへ哀悼の意を捧げた。

特に麋夫人が命を落としたことに趙雲が下を向くが、悪いのは俺だと、劉備が慰める。


葬儀を終えると、改めて揚州の使者との会談を再開した。

ここで、魯粛は劉備の奥方が亡くなったことを初めて知り、神妙な面持ちで弔辞を送る。

その言葉に感謝しつつも、劉備は戦乱の世の常、気にすることではないと伝えた。


どうも魯粛という人物、切れ者のようだが人が良すぎるようである。

劉備は話題を変えようと、軍師、諸葛亮と魯粛を引き合わせた。


「兄がお世話になっていることでしょう。ご迷惑をおかけいたしております」

「いえいえ、子瑜殿には、よくして頂いており、日頃から感謝している次第です」


諸葛亮の七歳上の実兄、諸葛瑾は孫権に仕えていたのである。

父の死とともに兄弟は離れて暮らすようになり、諸葛瑾は継母とともに揚州に移り住んでいた。

そこで推挙されて、孫権からは魯粛同様の厚遇を受けているらしい。


「お話は我が君から伺いました。孫権殿の意向には、非常に興味がございます。ぜひとも揚州に伺いたいのですか?」

「諸葛亮殿が来ていただけるのですか。それは助かります」


孫権には黙っていたが、魯粛は曹操とは戦うべきと考えていた。

しかし、現状、周瑜と並んで、そう唱えたところで降伏派の説得は無理。ましてや孫権に決断を促すのは至難の業だと考えている。

そこで、外部の力が必要と、今回、情勢を探るという理由をつけて劉備を訪れたのだ。


当初は、その説得役に劉備を当て込んでいたが、天才と称される諸葛亮であれば、きっと、孫呉にある保守的な考えを吹き飛ばしてくれる。

そんな期待が膨らむのだった。


「孔明、一人で行くのか?」

「護衛には役立ちませんが、私が一緒に行きますよ」


曹操の追撃が止まるかどうか分からない。

ここで将を欠くわけにはいかないと簡雍が名乗り出た。

まぁ、この二人であれば事前に危険を察知して、難を逃れることだろうと劉備は考える。


「それじゃ、二人とも気を付けて。魯粛殿、よろしくお願いいたす」

「はい。お二人の安全は私が保障いたします」

諸葛亮と簡雍は、劉備たちが当陽県を発つより一足早く、魯粛が用意している帆船に乗り込むのだった。



魯粛の思惑は、劉備陣営にとっても願ってもないこと。

孫権との同盟が成れば、今の窮地を挽回することも可能だろう。

今回、長江を渡った結果が劉備の運命を分ける。


「限定的でも構いませんよ。気楽にいきましょう」

船の先端に立っていた諸葛亮は、振り返らずとも声の主が誰か分かった。


「私、そんなに気負っているように見えましたか?」

「まさか、当てずっぽうですよ」


簡雍は、わざと茶化した言い方をしながら微笑む。

確かに同盟は恒久的なものではなく、今の対曹操に限ったことで十分なのだ。

簡雍の言葉で諸葛亮の気が幾分、軽くなる。


関羽や張飛は一万の兵に匹敵すると例えられることがあるが、諸葛亮にとって簡雍は十万の兵に値する。

そんな安心感を覚えるのだった。



「丞相、劉備の所在が分かりました」

江陵城で荀攸が曹操に、劉備は夏口にいると報告をする。続いて、気になる情報も伝えるのだった。


「劉備の軍師、諸葛亮が揚州に渡ったようです。もしや劉備、孫権の両勢力が手を結ぶことがあるのかもしれません」

「ふむ。・・・臣従する素振りを見せていたが、やはり抗うか」


曹操と孫権は、華歆や張紘を通して使者のやり取りは何度か行っていた。

それなりに手ごたえはあったつもりだが、最終的な結論には至っていなかったのである。


「こちらもすぐに孫権に使者を出せ。私は一旦、襄陽城に戻ることにする」

江夏の劉備を攻めた場合、孫権軍が出てくるのであれば今の陣容では心もとない。

状況によっては、本国にさらなる援軍を求めなければならなくなるだろう。


どちらにせよ、仕切り直しが求められるのだ。

何とも劉備は悪運が強い。


曹操は襄陽城に戻ると、早速、荀彧へ手紙を出した。

彼であれば、必要に応じて適切な軍の編成を行ってくれるはずである。


そして、数日待つと、襄陽城に大量の貢物を持った使者がやって来た。

「通せ」


曹操はすぐに面会の許可を与える。

貢物を持ってきたということは、恭順の意を示したということであろうか。

使者の口上次第で、今後の方針は大きく変わっていく。

曹操は、その使者の登場を今か今かと待ちわびるのだった。

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