第125話 圧倒、張飛の武勇

劉備軍にあって、殿を任されていた張飛は、長兄がこの地を離れるという宣言をすると自身も後を追った。

張飛は留まって、曹操軍の追撃を止めたかったが、周りに民がいる状況では、犠牲者がどんどん増えてしまう。

それは劉備の想いを無にする行為だ。


「おい、俺さまの首が欲しい奴は、こっちに来い」

張飛は劉備と同じく東へと進路を取る。劉備には陳到がついているはずだった。

張飛は、それで十分と判断し、あえて劉備に追いつこうとはせずに民と距離をとったところで足を止める。


「ここはどこだ?」

部下に尋ねると、当陽県の長坂ちょうはんですと答えた。


「分かった。それじゃ、この長坂で曹操軍の野郎どもを食い止めるぞ」

そう言うと張飛は、長坂に流れる川に架けられた橋の上で一人、仁王立ちをする。

部下たちには、林の中に隠れるよう命じると、土煙を起こさせて多くの兵が伏せてあるように見せかけた。

これで曹操軍を迎え撃つ準備を整える。


張飛は輜重隊からくすねてきた酒を水筒の中に忍ばせており、景気づけに一気に飲み干した。

「さて、曹操、どこからでもかかってきやがれ」

これ以上ないほどに気力を漲らせるのである。



張飛が長坂橋で待っていると、最初にやって来たのは曹操軍ではなく、味方の趙雲だった。

但し、しっかりと敵も引き連れて来ているので、拍子抜けとはならない。


「子龍、こっちだ」

「益徳殿、若君を抱いて無理はできない。すまないが曹操軍の相手をお願いする」

「おう、任せとけ」


趙雲自慢の白銀の鎧が朱に染まっている。それまでの戦闘の激しさを物語っていた。

橋の上で両雄がすれ違うと、

「ご武運を」

「おう」と、非常に短い言葉だけを交わす。


長坂橋の上に立つのは張飛、ただ一人であるが、単騎であることは心配しない。

趙雲も曹操軍を単騎で相手し、ここまで駆けてきたのだ。

自分にできることは、張飛にもできることを知っている。


しかも橋の上では、一度に相手にする人数が限られるはずだ。

一騎打ちの状況に持ち込めば、張飛が負ける要素は微塵もない。安心して、自分が引き連れて来た相手を任せられるのだ。


趙雲はそのまま林を抜けて、しばらく進むと、休む一団をみつける。その中に主君、劉備玄徳がいた。

先ほど、助けた麋竺の姿もあったが、趙雲は思わず目を伏せる。


麋竺の妹でもある麋夫人を救うことができなかったのだ。

その仕草で、全てを察する麋竺だが、趙雲を責めることはせず、逆に肩を叩いて労をねぎらう。


「趙雲将軍がご無事でよかった」

不甲斐なさから、趙雲は無言でただ頷き、劉備の前で足を止めた。


「我が君、阿斗君をお救いしてまいりました。」

さすがの劉備も精魂尽き果てている様子だったが、趙雲の姿を見ると元気を取り戻して立ち上がる。

血だらけの趙雲を見るに、劉備の目が滲んだ。


趙雲から、受け取った阿斗を思わず投げつけそうになったとき、

「大将、駄目です」と、簡雍の声が届く。

「子龍さんの努力を無にするつもりですか?」

「いや、悪い。そういうつもりじゃなかった」


劉備は阿斗を簡雍に預けると、趙雲を抱きしめた。

返り血で汚れると趙雲は、離れようとするが、劉備は構わないと叫ぶ。


「息子を救ってくれてありがとう。ただ、息子は言わば、血を分けた俺の分身。俺の血がお前を危険に晒したと思ったとき、頭が真っ白になっちまった。正直、阿斗を失うより、お前を失うと思った方が、俺は怖かった」

「もったいない言葉でございます」


趙雲は地に頭をつけて涙を流した。

そして、凶行を止めてくれた簡雍にも劉備は感謝する。


「憲和、気の弱いところを見せてすまない。今はとにかく、できるだけ多くの者たちが生き残れるよう、頑張っていこうぜ」

「ええ。ほら、元気に笑っています。生きている限り、希望は残るものですから」

劉備家臣団、一堂、頷くのだった。



「おいおい、これでおしまいか?天下の曹操軍には、俺さまに挑もうって奴は、もういねぇのか?」

曹操が本隊を率いて長坂に辿り着いた際に、真っ先に目に入ったのが、張飛が啖呵を切る姿だった。

よく見ると、橋の下には四、五十人ほどの死体が倒れている。


「これは、どういう状況か、分かる者はいるか?」

「ご覧の通り、張飛が橋を占拠して、その先に進むことができませぬ。何人かあやつに挑んだのですが、全て簡単にあしらわれております」


先行していた曹純が説明した。

曹純が話すということは、挑んだのは精鋭で構成されている虎豹騎ということになる。

あの虎豹騎を寄せ付けないとは、張飛の強さには舌を巻いた。


曹操は、その昔、関羽が自陣営にいた頃の話を思い出す。

あれは白馬の戦いで顔良を討った後に、関羽雲長こそ天下一であると称賛したのだが、きっぱりと否定し、義弟の方が上だと答えたのだ。


「益徳の奴であれば、このような傷を負うこともなかったでしょう」

そう言いながら、頬の傷を拭う関羽の話を、曹操は信じていなかったのだが、どうやら本当だったようだ。


張飛と曹操軍、二十万の睨み合いが続くが、このままでは埒が明かない。

いよいよ将軍級の武将が、張飛に挑んだ


「曹操軍、一番槍、楽進が相手をする」

「おお、楽進の名は聞いたことがある。少しは楽しませてくれよ」


楽進はいつもの戦場のように勢いをつけた戦法で、飛び出すと一気に間合いを詰める。

槍の突きを瞬きする間に三撃ほど繰り出すか、張飛は全てを跳ね返した。


そして、丈八蛇矛が水平の軌道で一閃されると受けた楽進の体がよろめく。

先ほどとは、反対側からも薙ぎ払いを受けると、楽進の槍が宙に弾かれてしまった。


「くっ」

楽進は、すぐにその場を退き、事なきを得る。

しかし、楽進ですら軽く捻られたことに、曹操軍、全体に動揺が広がった。


前線の兵たちは、張飛がひと睨みするだけで、数歩、後ずさる始末となる。

その空気を変えようと、許褚が立ち上がった。


「おめぇの相手は、俺だぞぅ」

「ほう、てめぇは許褚だったか。おもしれぇ、かかってこい」


現時点で、曹操軍でもっとも強いのは許褚であろう。

その許褚であればと期待を一身に背負った。

張飛と許褚の闘いは、さすがに簡単には決着はつかず、むしろ許褚の方が押しているようにも見える。


「この馬鹿力野郎」

「力だけは、誰にも負けねぇぞ」


確かに許褚の膂力は凄まじく、一撃一撃、受け止める度に張飛の体は後方に下がった。

このまま、張飛を向こう岸まで追いやるのではないかと思われた、その時、張飛の形相が大きく変わる。

顔の血管が破裂するのではないかというほど、朱に変わり、炯眼けいがんが更に鋭くなった。


「調子に乗るんじゃねぇ」

張飛渾身の一撃は、許褚の巨漢を三丈ほど吹き飛ばす。

鉄でできた薙刀がくの字に曲がり、許褚自身は衝撃で気を失ってしまった。


その巨漢の下敷きとなった曹操軍兵の何人かも圧し潰されて、動けなくなってしまう。

あの許褚を力でねじ伏せ、しかもあの巨体を紙風船のように弾き飛ばす張飛の力。

曹操軍は、誰もが言葉を失う。


「次は、誰だぁ。この俺さまと命のやり取りをしようぜ」

異様とも思える張飛の気勢が、曹操軍全体に襲いかかった。

馬が怯え、制御が効かなくなる者が多数、出る。


その中の一人、夏侯傑かこうけつは恐怖のあまり失神し落馬、そのまま自分の暴れる馬に踏まれて命を落としてしまうのだった。

これがあの呂布奉先をもって、最強と言わしめた漢の実力か。


曹軍兵の中には、張飛に対して、畏敬の念を抱く者すら現れる。

あの曹操ですら、冷や汗が止まらないのだ。一般兵では、仕方のないことかもしれなかった。

そんな緊迫の中、早馬の報せが曹操に届く。


「張遼将軍が江陵県を占拠いたしました」

「まことか」


これでいよいよもって、劉備を追い詰めることができるはずだ。

この張飛さえ突破できれば、曹操の完全勝利となる。

状況打破に向けて、曹操が思案を巡らせる中、ともに付いて来た軍師の荀攸は別のことを考えていた。


それは、あえて撤退することである。

江陵県を取られた時点で劉備は、いわば死に体。

ここを無理に押し通って、味方の犠牲を増やす必要はないはずだ。


「丞相、ここは退いてもよろしいのでは?」

「うむ。何やら伏兵も配置しているようだしな」


どう考えても力押ししか思いつかない。

曹操は荀攸の提案に同調すると、張飛の後ろの林に人の気配があることを指摘した。


荀攸もそれには頷き、「劉備が江陵県を目指すのであれば、我らが占拠しているのを伏せて、待ち構える作戦もございます」と進言する。

曹操は納得すると、司馬懿にも意見を求めた。


すると、「撤退することは賛成です」と前置きした後、林の中の伏兵は『偽兵の計』であると告げる。

「楽進将軍、許褚将軍が敗れた後、張飛はとどめをさせるにも関わらず、そう致しませんでした。恐らく、橋を離れたくなかったのでしょう。もし伏兵がいるならば、橋を離れても問題なかったははずです」


曹操の疑問に的確に答える司馬懿は、穏やかな表情の裏で激しく歓喜に打ち震えていた。

自身の提案であった趙雲を追って、劉備の元に辿り着く策。作戦としては、悪くはないはずだが、最後にこのような障害が立ちふさがる。


『ここまで読みきらねば完全なる勝利を得られぬとは、戦とは何とも奥深い』

郷里では、森羅万象とはいかずとも、必要な知恵や知識は習得ていたつもりだった。ところが、自分には、まだまだ成長の必要があることを知る。


もしや、かの諸葛亮であれば、全てを読み切った上で策を捻り出すのかもしれない。

そう考えるとぞくぞくして、何ともたまらないのだ。


そんな司馬懿の心情とは関係なく曹操は、皆の意見が一致したとして、退却の指示を出す。

「それでは、一旦、退くぞ。襄陽城に戻ると見せかけて、一部は私とともに江陵県に向かう」



曹操軍の撤退を見送った張飛は、橋に火をかけて落とした。

念のために追撃を封じたのである。


「曹操軍が撤退しました」

物見の報告を聞いて、劉備たちは歓喜に湧いた。

劉備は大きな犠牲を払いながらも、何とか生き延びることができたのである。


今も窮地には変わらないが、これまでに幾度も似たような経験はしてきた。

希望を、まだ、捨てるわけにはいかない。

荀攸は死に体と決めつけたが、劉備の目は、まだ死んではいなかった。

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