第127話 曹操の失態と柴桑会議

襄陽城にて曹操は、訪問を受けた使者に対し、あからさまに期待外れという表情を見せた。

それはやって来た使者が孫権からではなく、益州の劉璋の使者だったからである。


劉璋は、曹操が荊州を得たということと、次に漢中を狙っているという噂を聞きつけたがため、よしみを結ぼうと使者を送るのだが、実はこれが三人目の使者だった。

劉璋としては、数多く使者を送ることで、曹操との関係をより強固にしていこうという腹積もりがあったのだが、今回は何とも間が悪い。


普段の曹操であれば、他領の使者に対してそのような事はしないのだが、本日に限ってはぞんざいに扱うのだった。

これには劉璋の使者、別駕従事べつがじゅうじ張松ちょうしょうが不快感を表に出す。


陰溥いんほや兄、張粛ちょうしゅくのときの対応とは大違いではないか。私の何が悪いというのだ』

その不貞腐れたような態度が、ますます曹操の逆鱗に触れた。

張松を挨拶もそこそこに、すぐに下がらせる。


但し、これには、曹操の方にも、多少、言い分はあった。

劉備、孫権対応に忙しかったことは言わずもがなだが、使者の交流目的に関する認識のずれが、曹操と劉璋にあったのである。


一度目の使節団が来た際、劉璋に振威将軍しんいしょうぐん、劉璋の兄である劉瑁りゅうぼう平寇将軍へいこうしょうぐんを授けた。

続いて、二度目のときは、使者として訪ねて来た張粛を広漢太守こうかんたいしゅに任命している。


そして、今回が三度目。

こんな短期間に多くの使者を送ってくる劉璋の魂胆が、曹操から爵位、官位をせびるためではないかとの勘ぐりが生じたのだ。

劉璋のやりすぎが、結果として裏目に出る。


張松がいなくなると、曹操の頭はすぐに江夏、揚州のことで一杯になった。

劉璋の使者のことなど歯牙にもかけず、荀攸、司馬懿を呼ぶと孫権、劉備対応を論じ合う。

時間が勿体ないと感じた、曹操は余計な雑事の全てを各自で判断するように指示するのだった。



用意された迎賓館に戻ると、張松は憤慨し声を荒げる。

「兄と比べて、私が見劣りするせいか?」


張粛は堂々とした体躯に整った顔立ちをしていたが、弟の張松は背が低く醜悪な容姿をしていた。

それが幼少の頃より抱く劣等感だったのである。

故に張松は勉学に勤しみ、現在の地位まで登り詰めたのだ。


「張松さま。宴の準備ができたと使いの者がやって参りました」

「ふん。一応、外交の使者として、忘れられてはいなかったのか」


用意された会場にはもちろん、曹操の姿はない。

荀彧は許都にいるから仕方ないとして、荀攸すらいないのでは、もはや上客としての扱いではないことは明白だった。


張松は、せいぜいただ酒を飲むことで憂さ晴らしをすると決める。

この会場を仕切っているのは、主簿の楊修ようしゅうだった。


楊修はかつて三公を務めたことがある楊彪の息子である。

張松は、家柄も良く容姿も申し分ないこの男を、一つからかってやろうと思った。


「何でも曹操丞相は、多才と聞きますが、ご自身で諸家の兵法書の要点を抜粋し集めた書をお作りになったとか?」

「よくご存じですね。『兵書接要へいしょせつよう』と呼ばれており、私も愛読しております」


楊修は愛読するだけではなく、常に持ち歩いているようで懐からその書物を取り出すと張松に渡して見せる。

すると、張松は軽く一瞥した後に、書かれている内容を暗唱するのだった。


「張松殿、どこかでご覧になられたことがおありか?」

「なに、曹操丞相がまとめたとはいえ、要は古の兵法者が書き記したもの。兵法書でしたら、益州では五歳の童子から諳んじるよう教育を受けております。益州は田舎ですから、紙が勿体ない。わざわざ、まとめる必要もございません」


曹操がまとめた兵書接要は、無駄であると言いたいのだろうが、張松が実力で証明しているため、楊修には反論する言葉がなかった。

五歳から兵法書を諳んじることができるとは言い過ぎとしても、張松の実力が本物であることは、認めるしかない。


その様子を曹操に密告する者がおり、張松は明朝早くに迎賓館を追い出されることになった。

「あれでも一国の使者です。よろしいのですか?」


曹操のあまりにもひどい対応を荀攸が心配する。

本来であれば、荀攸が代表して接客する予定だったが、それも曹操に止められていたのだ。


「何、劉璋のこと。すぐに別の使者を送ってくるだろう。その者を遇すればいい」

張松とはよほど馬が合わなかったのだろう。

生かして返してやるのがせめてもの温情だとまで言う。


しかし、この対応が後に曹操の天下統一への大きな障害を生むきっかけとなるとは、思いもよらなかった。

襄陽城を後にする張松は、恨みを込めて城を顧みる。


「おのれ、曹操。私の力で益州を反曹の色で染め上げてみせるわ。今に見ているがいい」

まるで呪いを込めるかのように呟くと、益州の州都、成都へと帰っていくのだった。



長江を下る一隻の帆船。

諸葛亮と簡雍を乗せたその船は、鄱陽湖はようこの入り江に停泊する。


行き先は呉県だとばかり思っていたため、諸葛亮と簡雍は休憩のために立ち寄ったのかと思っていた。

ところが魯粛が上陸の準備を始めるのに、諸葛亮が確認をとる。


「魯粛殿、揚州には昔住んでいたこともあり多少、土地勘がございます。目的地にしては少々、早いように思われるのですが?」

「これはお伝えせずに申し訳ございません。途中立ち寄った樊口はんこうで報せを受けまして、孫権さまをはじめとした重臣の御歴々は柴桑さいそうに集まっているとのこと。我らもそちらに向かいます」


その説明に納得すると劉備の臣の二人も上陸の準備を始めるのだった。

鄱陽湖と柴桑は、目と鼻の先。

魯粛たちは旅垢たびあかを落とす間もなく、柴桑城へと登城する。


諸葛亮と簡雍が訪れた広間では、今、まさに曹操へ降るべきか戦うべきか、議論の真っ最中だった。

中央、奥の席に座っているのが揚州の主、孫権だろう。


諸葛亮よりも一歳下の若き主君は、顔が大きく首も太い。座しているのではっきりとは分からないが、体躯も立派なのだろうと想像できた。

精悍な顔立ちなのかもしれないが、今は黙ったまま、顔をしかめている。


本来であれば、真っ先に挨拶に伺うべきところだが、今はそれどころではなさそうだった。

諸葛亮と簡雍は、しばらく議論の趨勢を見定めることにする。


どうやら、状況としては、降伏派が優勢のようであった。

というのも曹操から孫権宛に届いた書簡が、今朝、家臣たちの間に開示されたのが大きく影響している様子。

魯粛は、早速、その内容を確認した。


『近頃、逆賊を討たんがために南方に赴いたところ、劉琮は何の抵抗もなく降伏した。今度は八十万の軍勢を整えて孫権殿に会いに行こうと思う。ぜひ、呉の地でともに狩猟を楽しみたいものだ』


狩猟とは雌雄を決しようという意味か?それともまともに受け取ってもよいのか?

読み手側に色々、考えさせる曹操らしい文面であり、王者の余裕を感じる手紙だった。


「子敬よ、荊州への訪問、ご苦労じゃった。して、後ろのお二人は、呉の家臣にしては見覚えがないが?」

曹操の書簡を読み終えたところに、降伏派の筆頭ともいえる張昭が魯粛に話しかける。


「皆さまに、ご紹介いたします。こちら劉備玄徳殿の軍師、諸葛亮殿、そして、こちらが参謀の簡雍殿です」

劉備の配下と聞いて、議論が一旦、止まった。

今までと違ったざわめきと、二人に好奇の目が注がれる。


「劉備殿の御家中の方が、揚州にどのような用件で?子敬、まさか独断で同盟を結んできたのではあるまいな」

張昭の鋭い指摘に魯粛は言葉がつまる。

正式に同盟を結んだわけではないが、匂わせた会談は行っていた。


主君の孫権には何の許可も得ていなかったので、実はそれだけでもかなり問題がある。

孫権からの視線も痛く、独断専行と誹りを受けても仕方がなかった。

魯粛が返答に窮していると、代わって諸葛亮が回答する。


「同盟とは国同士の約束事です。このような衆目の場で、魯粛殿が簡単にお話になるわけがないでしょう」

「劉備殿か国家か?笑わせおる」


この議論を優位にまとめるには、挑発的な言動をする張昭を説き伏せる必要があるようだ。

諸葛亮が張昭との距離を詰めて向き合う。


すると、今まで興味がなさそうな態度を見せていた孫権が身を乗り出した。事の成り行きを面白そうに見つめるのである。

普段、孫権がやり込められている老獪な舌鋒家ぜっぽうかをどうやって料理するのか。お手前拝見ということだろう。

諸葛亮は笑みを堪えながら、期待に沿うよう舌戦を開始した。


「張昭殿は我が主を不当に貶めようとなさっていますが、国の元となるのは人でございます。荊州では我が君を慕う者、後を絶たず。江夏の地に続々と人が集まっております。土地は失いましたが、劉備玄徳在るところが即ち国なのです」

「失ったのは曹操に敗れたからであろう。敗残の将が、我ら孫呉までも巻き込んで再起を図る。その魂胆が浅ましいわ」

「今、敗れたとおっしゃいましたが、どの戦を指してのことでしょうか?」


張昭は、諸葛亮の言葉に白々しいと憤る。

敗れたがゆえに江夏まで逃げ延びたのであろうと声を張り上げた。

しかし、その怒声にも諸葛亮は落ち着いて対処する。


「荊州では、三度、曹操軍と対決しております。一度目は新野の野戦、二度目は博望坡。いずれも倍以上の敵軍を撃退しております。そして、三度目の今回ですが敵兵は三十万。襄陽城の援護を得られずに我が主君だけでは、対抗することができないと判断し、戦略的に撤退しただけでございます」

「詭弁じゃな。結果、多くの将兵と土地を失っているではないか」

「戦をすれば将兵を失うこともございましょう。ただ、今回は他の者には真似ができない十万の民を引き連れての退却劇。しかも、新野空城の計で十万の敵兵に大打撃を与え、当陽県では二十万の敵兵を追い返しているのです。これを敗れただけと結論付けては笑われましょうぞ」


確かに劉備は、敗れはしたものの曹操軍を手痛い目には合わせている。手持ちの戦力差を考えれば、驚嘆に値する結果だ。

もし同じことができるかと問われれば、正面切ってできるという者は、この場にはいないだろう。


そんな劉備と比べて、孫呉はどうか?

将の数も兵の数も劉備を上回るのに臆病風に吹かれているのかと言われれば、ぐうの音も出ない。


張昭は、嫌な話の流れになったと内心、舌打ちする。

これは諸葛亮が意図的に操作した結果なのだろうか?

猜疑心から、目の前にいる人物が得体の知れない怪物に見えた。


すると、虞翻が流れを変えようと違う話題を振って来た。

「劉備殿の英雄譚には感銘を受けます。では、その主の元を離れて柴桑に参られたのは、どういった理由でしょうか?」

「魯粛殿に請われて、曹操軍の弱点をお伝えしにきたのです」

諸葛亮の言葉にどっと沸く。ついに口を滑らせて馬脚を露したかという感じになった。


「曹操軍に弱点があれば、劉備殿は今も新野にいるのではありませんか?」

虞翻は意地悪く皮肉ったつもりだろうが、諸葛亮は一笑に付す。


「弱点をつくに必要な条件が足りなかったからです。しかし、この孫呉では条件が揃っているから、私が参ったのです」

またもや詭弁かという声がそこかしこから洩れる。

正面から諸葛亮を論破できないと悟った者たちの嫌がらせに近い。


広間の雰囲気が騒然とし、これまで身を乗りだして聞いていた孫権の姿勢も元に戻った。

ついでに言うと不機嫌そうな顔もだ。

『結局、何も変わらずかと御思いでしょうが、面白いのはこれからですよ』


諸葛亮は簡雍を顧みる。出番を託された簡雍は、溜息を一つ漏らした。

「うるせい。ごちゃごちゃ言ってねぇで、一緒に曹操をやっつけてみんなで祝杯を上げようぜ」

突然の暴言に広間がシーンと静まり返る。椅子に座っていた孫権も、思わず滑り落ちそうになった。


「うちの大将、劉備玄徳がこの場にいたら、こう言ってますよ。だって、孔明さんの言葉を信じて聞いていれば、この戦、勝てちゃうんですから」

そう言った後、少し恨めしそうに諸葛亮を見る。まさか劉備の真似事を、こんなところでさせられるとは思っていなかったからだ。


諸葛亮の意図を読み解くことができる簡雍だからこその連携だが、その簡雍の耳元で、

「琦君のときの意趣返しです」と、悪戯っぽく諸葛亮が笑う。

楼閣で梯子を外したことを言っているようだが、それであれば仕方ないと、簡雍は肩をすくめた。


一方、孫権の重臣連中は、今まで、会議の場でこのような暴挙があった前例がないため、どう対応すべきか混乱して騒めく。

そんな中、突然、笑い声が響いた。


「ははは。当代随一の英雄さまの配下には、実に面白い人物が揃っているものだな」

そこにやって来たのは、周瑜公瑾。

孫権軍の軍部総司令を任される人物だった。


揚州にあって周瑜の発言力は、非常に大きい。

この重要人物の登場に広間は、再び緊張感に包まれるのだった。

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