第128話 孫権の決断
前線の司令官を任じられている周瑜公瑾が広間に入ると、それまでの雰囲気が一変する。
程普、黄蓋、韓当、呂範など孫家にあって、功績が大きい重鎮たちも続いて入室し、一種独特の緊張感に包まれた。
「はて、私が遅刻したのかと思ったが、どうやら、刻限より早く会議を始めていたようですね」
この言葉に文官の多くが下を向く。
周瑜の他、主だった武官は鄱陽湖で、朝から対曹操に備えた軍事訓練を行っていたのである。
会議に間に合うように出立したはずだが、先に開催されていたことに何か別の意図を勘ぐった。
「公瑾、他意はない。この書簡が曹操より届いたがゆえ、先に議論が始まっただけよ」
張昭がそう言って、周瑜に曹操の書簡を渡す。受け取った周瑜は、その書簡を見て笑い飛ばした。
「曹操は、随分と大見得を切ったものだ。八十万もいるわけがない。せいぜい二十万、多くても三十万といったところだろう」
周瑜は、そう言いながら、諸葛亮に視線を送る。実際に曹操軍と戦った劉備陣営の意見が欲しいのだと察した。
「ご推察の通りでございます。しかも荊州兵を加えた数字で、やっとその程度でしょう」
曹操は、この南征に当初、三十万の大軍でやってきたが、劉備との戦いで、その数は半分以下にまで減らされている。
劉琮の無条件降伏により、曹操は無傷のままの荊州兵を手に入れることができたが、北方と荊州では軍の様式が大きく異なった。
曹操軍に編入したところで、どこまで戦力となるか、
見かけの数字は大きく見えるが、中身は烏合の衆。
それで、諸葛亮もやっとその程度と軽く話したのだ。
その点を周瑜は、強く指摘する。
「曹操は自ら死地にやって来た。今、すぐ戦えば、長江より上流は我らのものとなる」
覇気に満ちた周瑜の言葉に武官たちは反応し、「おおっ」という、鬨の声を上げた。
その声が鎮まるのを待って、諸葛亮が羽扇を挙げる。
「曹操の敗北は必至。これは間違いありませんが、私としては曹操軍の兵が増えるのを待った方が良いように思います」
「その心は?」
戦いを望んでいるはずの劉備の軍師、諸葛亮が短期決戦に異を唱えたことに周瑜は興味が膨らんだ。
「先ほどの説明は言葉足らずでした。現状、三十万ですが恐らく五十万までは、時をかけずに増兵されると思います。許都で急遽、荀彧殿が軍の編成をしている情報がございます」
「それを待つことによる利点は、何か?」
「曹操は、今回の南征では兵が足りず鄴からもかき集めた様子。次は幽州、并州、司隷あたりからの徴兵となるでしょう。そんな遠くからの強行軍、荊州兵よりも戦力にならないはずです」
諸葛亮は、この戦で曹操の国力低下まで狙っているようだ。
今回の戦で、その兵をことごとく討ち破れば、曹操領内の兵力は著しく低下する。
その説明までは及んでいないが、周瑜は意図を十分に感じ取った。
「なるほど。それは一考すべきだな」
そこに張昭が憤然と異議を唱える。
「ちょと待て。まだ、戦を行うとは決まっておらんぞ。勝手に話を進めるでない」
「張昭殿は、勝てる戦をどうして放棄なさろうとするのか?理解に苦しみますね」
周瑜が言い切るが、張昭も退かなかった。
やはり、ここでも結論がつかない。
そこで、一旦、休憩を入れることになった。
孫権が自室に戻るのに、魯粛は諸葛亮と簡雍を伴って後を追う。
それは落ち着いたので、諸葛亮たちが挨拶をしようとすると、孫権が自室で聞くと言い出したからだ。
張昭が嫌な顔をしながら、その様子を眺めるが、国外からの使者が挨拶するというのを止める理由がなかい。
その険しい表情に、一層、しわが増えるのだった。
自室に先に着いた若き主君は、魯粛たちが来るのを待ちわびる。
先ほどの会議の中で、張昭をやり込めた諸葛亮、前例のない暴挙にも平然としていた簡雍。この二人に俄然、興味が湧いたのである。
「挨拶が後になってすまなかった。私が孫権仲謀だ」
「こちらこそ、遅くなりまして申し訳ございません。諸葛亮孔明と簡雍憲和殿です」
型通りの挨拶を済ませると、早速、諸葛亮が孫権の姿勢に対して切り込んだ。
「孫権殿は、どうして会議の場で、一言も発言をなされないのでしょうか?」
「やはり、その件は気になるか」
もちろん、孫権には孫権の考えがしっかりとある。しかし、それを言わないのは、この孫呉の成り立ちに起因した。
この揚州の地を切り開き平定したのは、兄の孫策であり、その孫策に臣従した者たちのおかげである。
孫権も一応、働いてはいたが若かったこともあって、大きな武功はあげていなかった。
そのことを如実に表したのが、孫権が後を継いだ直後、離反者は思ったほど多くなかったが、残った者たちが口々にしたのは、『亡き孫策さまのため』という言葉。
兄を慕う孫権としては、それだけでもありがたい話なのだが、ついぞ『孫権さまのために』という者は現れなかった。
しかし、それは誰のせいでもなく、孫権には、未だ誇れる功績がないことによる。
ついこないだ、ようやく宿敵の黄祖を討ちはしたが、運悪く江夏の地を得るまでには至らなかった。
このことが孫権の心の中に影を落とし、国家の大事にあっては、揚州平定に功ある者たちに発言を譲る形をとっている。
先祖代々続く領主ならば良かったのだが、歴史浅い国だからこその問題だった。
「これはこの子敬も考えたりませんでした。申し訳ございません」
「いや、不甲斐ない私が悪いのだ」
主従、慰め合っているところ諸葛亮と簡雍は顔を見合わせる。
お互い言いたいことが同じと察すると、簡雍に発言を譲った。
「それでは、お兄さんから託されたこの地の行く末を他の者たちに任せるというのですか?」
「これは、簡雍殿」
「いや、よい」
魯粛が簡雍の言葉が過ぎると、窘めようとしたが、孫権が止める。
それはあまりにも的を得た質問だったからだ。
「もちろん、最後に決断するのは私の責任において実施する」
「・・・でも、その責任は・・・」
簡雍は言葉を濁す。孫権の言う責任はあくまでも組織を運営していく上での責任に聞こえた。
それでは、民の安寧を守る責任は誰か担っているのか?
ここで諸葛亮が代わって、孫権と話す。
「他の国のことは外からは、なかなか分からないものですね。しかし、知った上で助言するならば、孫権殿は即刻、兜、甲冑を脱いで曹操に降伏なさるがよろしいかと思います」
「その理由を聞いてもいいか?」
先ほどまで、曹操に勝てるとふれ込んでいた諸葛亮の突然の翻意に理由を問いただした。
「簡単なことです。勝機がなくなりましたがゆえです」
「それがどうしてなくなったのかを聞いている」
「孫権殿は、自らの力によって安寧を守る意思を持ち得ていない様子。その場合、いかなる国家と言えども、独立と平和を維持するのは困難だからです」
君主たる者、強い意志を示さないと強力な兵力も意味をなさない。
折角の水軍も宝の持ち腐れとなるのだ。
「私はどうすればいいのだ?」
「まだ、孫権殿の本心を伺っておりません。まずは、はっきりと申し伝えて下さい」
確かに重臣の魯粛ですら、孫権の考えを聞いていない。
そもそも主君の意向を基本に議論を進めなければならないのだが、先ほどの広間では、それがすっぽりと抜けていた。
三人は、静かに孫権の言葉を待つ。
「私は曹操と戦い、この揚州を守りたい」
その言葉に魯粛は、ホッと胸をなでおろして、諸葛亮と簡雍は頷いた。
「ついては、諸葛亮殿。曹操軍の弱点とやらを聞かせてもらえないだろうか」
「承知いたしました」
諸葛亮は羽扇を動かし、身振り手振りを交えて孫権に説明をする。
その内容は、先ほどの広間でも話した通り、
一つは、遠方からの強行軍であること。
二つは、地元の荊州兵との連携が困難であること。
を挙げると、続いて以下の点も付け加えた。
三つは、北方兵は騎馬には強いが水軍に弱いこと。
四つは、荊州の民が心から臣従しておらず、足元に不安を抱えること。
五つは、この遠征が想定より長くかかり、兵たちの間に望郷の念が生じていること。
六つは、馬超、韓遂が西涼にあり後顧の憂いとなっていること。
七つは、冬で馬に与える馬草なく、水郷地帯を徒歩すれば風土になれず疫病が蔓延する可能性が高いこと。
以上が、今回、曹操が敗れる理由であり、この他に我らが勝つ道理もありますが、それは今度にしましょうと微笑みながら煙に巻く。
諸葛亮の説明に圧倒されるも、孫権には大いなる自信となった。
「私の説明で不安でしたら、周瑜殿にも聞かれるといいでしょう。恐らく、まったく同じことを申されるはずです」
「分かった、考慮しておく」
方針が定まったのならば、早速、会議を再開しましょうと魯粛が急かすが、一旦、諸葛亮が止める。
すると、簡雍が孫権の前に進み出た。
「先ほどから、功がないと仰っていましたが、目の前に空前の大功をあげる機会があるのです。乗らない手はありませんよね」
「劉備殿なら、そう考えるか?」
「ええ、もう待ちきれなくて涎を垂らしています」
主君をこうもあげつらうことができるのかと思ったが、それは劉備と家臣団の距離が近い証拠だと感じた。
それに引き換え、孫権は未だに兄から譲り受けた家臣団という想いがどこかにある。
今回を機に、そのことも払しょくできればと考えた。
簡雍の後押しで、孫権の決意は揺るぎないものへと変わる。
これならば、会議を再開してもいいでしょうと、諸葛亮は魯粛を促した。
孫権を先頭に四人は、百戦錬磨の論客たちが待つ広間へと歩いていくのだった。
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