第95話 十面埋伏の計
黄河の畔、倉亭に三十万の軍勢で駐屯する袁紹。
官渡で曹操に敗北したとはいえ、まだ、それだけの兵力を集められる袁紹は、さすがとしか言いようがなかった。
曹操は、相変わらず、劉表や劉備など、南方面にも神経を配らねばならず、袁紹にだけ全軍をつぎ込むことができない。兵数での劣勢は続いていた。
しかし、北方でも変化の兆しはある。
公孫瓚との争いでは袁紹に協力していた
田豫とは、以前、劉備の配下で平原の留守を任せられていた者である。
母の危篤に職を辞して、郷里に戻っていたところ、旧知の鮮于輔に迎えられていたのだった。
平原を去る際に徐州へ手紙を送るが、それを読んだ劉備は、「田豫と事を成せないのは、非常に寂しい」と涙したという。
ともかく、袁紹の後方にも敵が生まれたのは、曹操にとって好材料。
このまま、対決を続けることで、袁紹側にも混乱や造反が生じるということが分かったのは、大きな収穫だった。
曹操は、袁紹の三十万に対して、十万の軍勢で相対する。
劣勢ではあるが、官渡のときよりも戦力差はつまっており、気持ちの中に余裕があった。
だからと言って、決して油断していたわけではないのだが、戦端が開かれると連戦連敗で苦戦を強いられる。
沮授、淳于瓊に代わって都督となった孟岱、蔣奇が意外と優秀なのか、曹操の釣り出し作戦にも乗って来ない。
この状況に変化を求めた曹操は、軍師として同行している荀攸と程昱の三人で、作戦会議を行った。
「兵数では我が軍の方が不利ですが、将の質では袁紹を上回っていると思います。そこを利用しましょう」
官渡の戦いで、袁紹は多くの将兵を失った。
今回、兵を補充し倉亭に駐屯しているが、上質の武将となるとそう簡単に替えがきくものではない。
一方、曹操軍は官渡では、主だった将を誰も失っておらず、降将もいたため、良質の武将は、むしろ増えている。
程昱は、その利点を活かそうというのだ。
「具体的な策はあるのか?」
「はい。
曹操は、その内容を聞いて、大いに喜んだ。
但し、この策略は一つの計算間違いも許されないほど緻密なものである。
曹操、荀攸、程昱は、何度も戦況の変化を予測し、試行錯誤を繰り返す。
その日、朝から始まった軍議が終わったのは翌日の明け方近くだった。それでも、三人には疲労よりも充実した表情が浮かんでいるのだった。
「これならば、何一つ狂いはあるまい」
「ええ。間違いないかと」
ただ、軍議に使った地図の一箇所にだけ、三人の視線を集める箇所がある。
「ここだけは、将の頑張りに期待するしかありません」
「ああ、我が軍、随一の将に踏ん張ってもらうとしよう」
曹操は、そう言うと黄河の淵に置いた駒を手で前進させるのだった。
翌日、曹操から今回の作戦が告げられると、諸将の中からどよめきが起こる。
「驚くだろうが、仲徳と公達、私で練り上げた作戦だ。信じてほしい」
曹操は、そう伝えた後、一人の武将を名指しした。
「許褚。今回の作戦の肝は君だ。私は君を死地に送るが、必ず期待に応えてくれると思っている」
「許褚は、大丈夫。心配の必要はないぞぅ」
「分かった。よろしく頼む。そして、絶対に死ぬな」
曹操は許褚の手を取り、懇願する。許褚は感激に涙するのだった。
作戦内容がいきわたり、各将が理解すると散開し、それぞれの配置につくよう出陣をする。
最後に許褚が出陣する際、曹操、荀攸、程昱で見送った。
「計略が発動されれば、勝利は間違いありませんが・・・」
「許褚で無理なら、誰がやっても不可能だ。万が一の時は、諦めよう」
「承知いたしました」
発案者の程昱は、祈りを込めて遠ざかる砂塵を見つめるのだった。
作戦通り、許褚は手勢を率いて、袁紹軍に突撃すると、すぐに退却し自軍を黄河の岸辺に追い込んだ。
逃げ道がなくなった許褚を殲滅しようと、袁紹軍が嵩にかかって迫りくる。
指揮しているのは、新都督の孟岱だった。
「よぅし、ここから反撃だぞぅ」
許褚が行ったのは、漢の名将・韓信がかつて用いた背水の陣である。
自分たちをわざと死地に追いやり、死にもの狂いで兵士たちを戦わせる戦略だった。
もちろん、必ず成功するわけでもなく失敗すれば、全滅という末路が待っている。
成功の鍵となるのは、率いる将に対する信頼の大きさだった。
許褚は、自身の圧倒的な武力によって、兵士たちの信頼を勝ち取っている。
「この許褚に続けぇ」
許褚の大きな声は、兵士たちに勇気を与えるのだった。
圧倒的優位の立場にあった孟岱だったが、この反撃には面を食らう。
攻勢を続けるべきか、一転、退却すべきか逡巡しているところ、許褚の巨漢が迫り来る様子が視界に入った。
「くっ、一旦、退くぞ」
この孟岱の判断が運命を分ける。許褚の役割は、何としても袁紹軍を退かせることにあった。
そのため、危険を顧みず背水の陣をしいたのである。
「このまま、追うぞぅ」
退却する孟岱は、袁紹軍の本隊まで巻き込んだ。
孟岱に預けた兵は、約五万。その兵たちが勢いよく本陣に駆け込んでくる様子には、さすがの袁紹も度肝を抜かれる。
「何が起きている?」
「分かりませぬが、大軍に追われているのではないでしょうか?」
「そんな馬鹿な話はないだろう」
慌てふためいた中、不確かな情報に踊らされた袁紹は、半信半疑ながらも退却を命じた。
陣払いもろくにせず、武器や食料など置いていくのに、詳細は分からないが将兵たちはただ事ではないと危機感を感じる。
袁紹の本隊までも退却するのを見届けた許褚は、そこでお役御免となった。
許褚の進軍が止まると自然と孟岱軍の動きも緩やかになる。
そこで、袁紹は軍を落ち着かせようとしたのだが、その矢先、左右の林から銅鑼の音が聞こえた。
飛び出してきたのは、右手からは高覧、左手からは夏侯淵の部隊である。
伏兵の登場に応戦する態勢が整わず、結局、再び退却を余儀なくされた。
しかも兵士たちの中には武器を本陣に置いてきた者たちも多く、袁紹の意思決定より早く逃げ出す者もいる。
まさに混乱した状態と言えた。
総退却のきっかけを作った孟岱も袁紹と連絡がつかず、独自の判断で動いていた。
「仕方ない。流れにのって、退却するぞ」
孟岱は身近な者たちに命令を下すが、兵士も好き勝手に動いている。離散していく兵は絶えなかった。
目の前になだらかな丘が見えた頃、高覧、夏侯淵の追撃は止まるが、また、曹操軍の銅鑼の音が鳴りだしたため、息つく暇がない。
次に登場したのは、右手からは于禁、左手からは楽進である。
得意の一番槍で突っ込む楽進と巧みな用兵で袁紹軍を分断する于禁。
二人の活躍で、孤立した孟岱は戦場に散った。
伝令など使える状態ではないので、孟卓が討たれたことを知らぬ袁紹は、指揮系統の失った孟岱軍に押されるように退却を続ける。
三度目の銅鑼が鳴り、徐晃と李典の部隊が袁紹軍を追い立てると、当初、三十万いた兵数もその半数以下まで、減ってしまった。
この時点では、もう立ち止まって応戦するという考えは、袁紹の中にはなくなる。とにかく安全な地まで、逃げ切ることしか頭になかった。
四度目の銅鑼で、張郃と張遼の伏兵に会うと、孟岱に続いて、蔣奇が張遼に斬り殺される。
この日、都督が討たれたのは二人目だった。
罠の先、罠の先へと追いやられていくうちに、ついにわずか三万にまで減っていた袁紹軍。
その前に、満を持して現れたのは、夏侯惇と曹洪だった。
「袁紹よ、まだ、生きているか?ここに来るまでに誰かに討たれたのではと、冷や冷やしたぞ」
隻眼に睨みつけられた袁紹の兵たちは震えあがる。
もはや数の利もなく士気も低い。
袁紹本人を守りながら、何とか追手を振り切るのがやっとだった。
鄴の近くまで辿り着いたときには、袁紹の周りには一万の兵しか残っておらず、次男の袁煕と甥の高幹が重傷をおっていた。
袁紹が大軍を擁しながらも、曹操に敗れたのは、これで二度目となる。
失意のまま鄴に辿り着いた袁紹は、吐血して倒れてしまった。
袁家の輝きが失われつつあることを世間が認めるのだった。
一方、官渡、倉亭で袁紹に大打撃を与えた曹操の威光は留まることをしらない。
冀州近隣の諸県も次々と曹操に恭順を示した。
勝利の立役者、十一人の勇将と十面埋伏の計を考案した程昱には、報奨が与えられる。
悠々と許都に凱旋した曹操は、次に汝南の劉備討伐に乗り出した。
ところが、袁紹が破れるという情報を察知した劉備は、抗すること難しいと判断して、早々に戦場を放棄する。
同じく袁紹と同盟関係にあった劉表のもとへ身を寄せるのだった。
荊州制圧は、まだ時期尚早であるため、今回、劉備については諦める。
劉備よりも袁紹が、力を盛り返す前にとどめを刺す方が先決なのだ。
大戦の勝者、中原の覇者となった曹操は、油断することなく仕上げにとりかかる。
「本初、お前との腐れ縁も、そろそろ終止符を打たせてもらう」
その表情には王者の風格が漂いつつあった。
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