第17章 名門衰亡編

第96話 劉備、新天地へ

豫洲汝南で袁紹敗れるの報を聞くと、劉備は天を仰いだ。

正直、勝敗はどちらでも構わなかったのだが、決着がつくのが予想よりも早い。

もう少し戦が長引いてくれれば、この汝南の地に地盤を築くこともできた。


「こうなったら、曹操本人が南下してくる前に、この地を離れよう」

逃げ先としては、荊州の劉表一択しかない。

これまでともに戦ってきた龔都きょうとも誘うが、気ままな山賊暮らしに戻るというので、劉備は汝南で別れることにした。


劉表へ挨拶の使者として、麋竺と孫乾の二人を送ると、しばらくして麋竺だけが戻り、受け入れを了承してもらった旨、劉備に伝える。

「それじゃ、劉表殿に世話になりに行くか」


汝南を離れる劉備に、曹仁からの追撃はなかった。

おそらく、劉表と争う段階にないと判断したのだろう。


劉備一家が荊州南陽郡に入ると、早速、劉表の出迎えがあった。

やって来たのは、長子の劉琦りゅうきである。


「劉皇叔、お初にお目にかかります。劉表の息子、劉琦と申します」

「これは、ご子息の方から、お迎えいただくとは感激の至りです」

劉琦は、父親の劉表と容姿が似ているとよく言われるそうだ。孝行者とも聞いており、劉備は劉琦に対して好感を持つ。


「襄陽城で父も待っております。長旅でお疲れでしょうが、今しばらく辛抱下さい」

「なに、旅には慣れております。劉琦殿は、お気になさらずに」

「私などに敬称は不要です。どうぞ、呼び捨てになさって下さい」


劉琦は、幼少より荊州から出たことがなかった。

いくつもの戦地を転々とし、その名を天下に轟かせる劉備は、憧れの的であり、自身もあやかりたいと思っている。

同じ劉姓でもあり、深く縁を結びたいと考えていたのだ。


「それでは、琦君と呼ばせていただきます。これから、よろしくお願いいたします」

劉備から親しみを込めて、琦君と呼ばれ、劉琦は感動が止まらない。

気持ちを高揚させながら先頭を切って、旅を進める。


その様子に、簡雍が劉備に擦り寄って行った。

「さすが大将。たらし込むのが早いですね」

「俺は別に何もしてねぇよ」

「兄者の人徳の賜物だろう」


関羽は、そう頷いている。

人徳とは、また、便利な言葉だが、確かに荊州ではその劉備の人徳に頼るしかない。

後ろ盾がまったくない劉備を劉表が、どう扱うのか不透明なのだ。

袁紹のときは、まだ、袁譚とのつながりがあったが、劉表とはこれまでに、まるで接点がない。


「心配するな。お前たちが食いっぱぐれないようにはするさ」

「もっと大志を抱いた方が、よろしいのでは?」

「まだ、大きなことは言えない。そいつは、おいおいだな」


まぁ、劉表がどのような人物か、会ってみないことには分からない。

ここで気を揉んでも仕方ないのだ。

劉備一家は、劉琦の先導に従って、襄陽城を目指すのだった。



襄陽城に着くと、簡雍風に言えば、早速、劉備の人たらし能力が発動される。

劉表は上客に対する礼をもって、劉備を迎え入れるのだった。


「これは劉皇叔、長旅お疲れさまでした。私が城主、劉表です」

「丁寧なお出迎えに、この劉備、感謝を伝える言葉が浮かばぬほどです」


劉表は、前漢の景帝の四男、魯王ろおう劉余りゅうよの子孫。劉備と同じく漢王室の末裔だった。

荊州の支配歴は長く、黄巾の乱以降、荊州に赴任すると土着の士豪たちと融和しながら勢力を広めていく。


つい先ごろ、張羨ちょうせん張懌ちょうえき親子が起こした長沙一帯での反乱を鎮めると、ついには荊州全域を制圧するに至った。

今、まさに劉表の全盛期と言える。

曹操に対しても気後れする様子はないようだった。


「曹操の侵略があっても、この荊州は守り抜きたい。同族の誼、どうかお力添え願いたい」

「それは、こちらも望むところです。どうぞよろしくお願いいたします」


劉備は、対曹操の切り札として、前線の南陽郡新野県しんやけんを任される。

兵の増強もしてもらうと、一家を引き連れて新野城に駐屯するのだった。



新野県に赴任するやいなや、賊が出没して困っているという陳情を受ける。

新任の城主としては、力を誇示しなければならないため、劉備はその賊の討伐に向かうのだった。


賊の将は、張武ちょうぶ陳孫ちんそんといい長江で暴れていた河賊だったのだが、張羨・張懌の反乱に呼応していたため、劉表からの成敗を受ける。

戦に敗れ、劉表の追撃を振り切ると、今度は新野県近くで、無法を働くようになったようだ。


いずれにせよ敗残の賊徒たち。

劉備子飼いの勇将には、まったく歯が立たない。

数も百人程度であったので、戦略など気にする必要もなかった。

汝南で暴れたりなかった鬱憤を晴らすように、関羽、張飛、趙雲は得意の得物を振り回す。


「これは、兵士の出番すらないな」

劉備の言葉通り、三人で百人余りの賊ども駆逐していった。

「ともに出ようと思いましたが、これは恥ずかしくて並んで戦えません」

陳到も賊の征伐に参加していたのだが、三人の豪勇ぶりに嘆息する。


「いや、お前も十分強いよ。ただ、あの三人が別格すぎるだけだ」

劉備がそう言って陳到を慰めていると、早くも決着がつきそうになっていた。

賊将の一人、陳孫が張飛に討たれて、落馬する。

残るは張武と数人の賊だけになったが、その張武は、趙雲に挑みかかっていった。


「それにしても、あの馬は見事だな」

「そうですね。関羽殿の赤兎馬と比べても遜色はないように見受けます」

劉備と陳到が注目したのは、張武が乗る芦毛の馬である。見事な体躯に額の菱形に見える白い模様が特徴的だった。


その芦毛の馬の推進力に、虚を突かれた趙雲だったが、乗り手の技量の差は明らか。

趙雲の涯角槍の一突きで、張武は絶命するのだった。

賊の鎮圧に成功した劉備は、戦利品として張武が乗っていた馬を新野城に持ち帰る。


「実に惚れ惚れする。これは、お世話になる劉表殿に献上するか」

「やめた方がいいですよ。きっと、受け取ってもらえません」

芦毛の馬をじっくりと眺めていた劉備の後ろから、簡雍が声をかけた。

劉備の凱旋の連絡を受けて、やって来たのだろう。


「こんないい馬だぜ。何か理由があるのか?」

「この馬、眼下の涙漕が大きく額に白い模様があるでしょう。この馬相を的盧てきろというらしいです」

「的盧?」

簡雍は頷いて、的盧に近づいた。頭をなでてやると、素直に委ねる。

随分と人懐っこく頭の良さそうな馬だった。


「そして、四本の足元がすべて白い。これは、凶馬と言われる的盧の中でも最悪の特徴です」

「この馬が凶馬?」

「はい。乗る者に祟りを与えるそうですよ」


確かに凶馬と言われれば、受け取る者は誰もいないだろう。

逆にそんな馬を人に献上すれば、贈った人物の神経を疑われるかもしれない。

劉表に贈る前に知っておいて良かった。

しかし・・・


「馬相が悪いから凶馬ねぇ」

そう言うと劉備は的盧に跨り、乗り心地を確かめる。

やっぱり、どう考えてもこいつは、名馬の類だと思った。


「能力と馬相は関係ない。今日から、的盧を俺の愛馬にする」

「祟られますよ?」

「だとしたら、それは俺の天命だ。的盧のせいじゃない」

「まぁ、そう言うだろうと思いましたけどね」


劉備が騎乗したまま厩に的盧を連れていくのに簡雍も付き合う。

的盧を馬廻に預けると、馬から降りる劉備に、

「そう言えば、一つだけ祟りを回避する方法がありますが聞きます?」

と簡雍は尋ねた。


「どうせ、ろくでもない方法だろう?」

「確かに、ろでもない方法です」

その方法とは、的盧を誰かにあてがって、その人物が祟りにあった後、自分の馬とするというものだった。

それを聞いた劉備は顔をしかめる。


「そんな事、俺がするわけないだろ」

「ええ。もし実行するって言ったら、大将の元を離れますね」

「祟りより怖いことを平然と言うんじゃねぇよ」


結局、的盧について詳しく話したものの、簡雍も大して気にしていないことが分かった。

但し、そういった類の迷信を気にする人はいるため、劉表への献上だけはやめさせようとしただけのこと。


劉備が賊を早々に討ったことで領民たちの支持も得られた。

新任の城主としては、上々の船出だと思われる。

劉備と簡雍の話題は、すっかり的盧から離れて、今後の展望に移り変わった。


袁家の影響力が残っているうちに、何とか力を蓄えなければならない。

兵力もそうだが、人材も広く集める必要があった。


幸い武将は、関羽、張飛、趙雲、陳到と揃っている。

後は彼らを指揮する軍師の存在を劉備は渇望した。

局地的な戦いならば、そう後れをとる劉備ではないが、曹操と袁紹が戦ったような大きな戦では、全体の戦局を見通せる人材が必要だと痛感している。


「この荊州は中央での戦乱を避けた人たちが集まっていると聞きます」

「その中に俺の求める人物がいればいいな」

劉備は、まだ見ぬ理想の軍師の姿を思い浮かべた。


新野城に注ぐ夕陽が眩しく、劉備は目を細めると光を遮るように手をかざす。

すると、いつの間にか辺り一面が、明るい光の世界に包まれた。

そして、眩しい光の中に立つ人物。羽扇を持つその男は、劉備に優しく微笑みかけたような気がした・・・


「大将?・・・大将」

白昼夢から、現実に戻された劉備の目には、心配そうな簡雍の顔が飛び込んでくる。

「どうした?」

「どうした?じゃないですよ。目をつぶって、しばらく黙っているなと思えば、急ににやけ出して・・・」


しばらくとは、結構、長い時間、経っているのだろうか?

差し込まれる夕陽の加減は、あまり変わらないように思えるが、簡雍が心配するくらいなのだから、それなりには時間は経過しているのだろう。


それにしても劉備の頭に浮かんだ、あの男は何者なのか?

ただの夢にしては現実感が強く、何か運命的なものを感じた。

簡雍や関羽、張飛と出会ったときのような高揚感のようなものも、劉備の中にある。


「これは、きっと求める人物が荊州にいるぞ」

理由は分からないが、劉備の自信満々の顔に簡雍も確信した。

今まで、散々見てきたが、このような時の劉備が外したことがない。

荊州は、劉備一家にとって最大の転機をもたらす地になるのだった。

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