第60話 江東の二張

劉繇を追い出し、曲阿県に入った孫策軍は、ここで一時、軍事行動を休止した。

それは牛渚の攻防戦で受けた孫策の傷を療養するため、周瑜が強引に決定した方針である。


これまで我儘を言っていた自覚があった孫策が、当初の目的である丹楊郡奪還に成功したため、周瑜の強い勧めに折れたのだった。


しかし、休めと言われても黙って、部屋の中で過ごすことなどできない孫策。

悶々とする中、ある人物の噂を聞く。


それは『江東の二張』。張昭ちょうしょう張紘ちょうこうのことだった。

早速、周瑜に彼らの登用について相談すると、周瑜もかねてより二人の賢人のことを気にかけており、話を前向きに進めることになる。


今の孫策陣営には、軍事に長けた者は多いが、将来、袁術からの独立を考えた場合、内政について詳しい人材は必ず必要になるのだ。

幸いにして二人とも、戦乱を避けて江東に移住していため、すぐに面会を求める使者を送った。


ところが、張昭からは一切、返事がこず、張紘からは母の喪中のため、参内が叶わないという返事があった。

それを受けた孫策は、まず返事があった張紘から会ってみようと考える。


相手が動けないのであれば、こちらから伺えばいいだけの話と、張紘のもとを訪れる計画を立てた。

とにかく返事があったということは、仕官の脈があるのではないかと思ったのである。


周瑜からは、喪中の訪問は失礼ではないかと咎められるが、こうと決めた孫策を止めるのは難しかった。

仕方なく、あまり無礼にならないうちに切り上げられるよう促すため、周瑜も同行することにする。


張紘の家に着くと、案の定、家人は迷惑そうな顔をしながら、それでも何とか張紘本人に取り次いでくれた。


ほどなくしてやって来た張紘は、明らかに不機嫌顔。

これは、すぐにおいとましなければならないと思った周瑜は、孫策の肩を掴もうとするが、その手はするりと空振りする。


「この度は、ご母堂さまのご不幸、心からお見舞い申し上げます」

「・・・いや、これはご丁寧に、かたじけなく思います」


機先を制して、孫策が弔辞を述べてきたのでは、張紘はぞんざいな対応を諦めた。

孫策の後ろで礼を取っている周瑜にも、張紘は礼を返す。


多少は、話を聞かなければならない雰囲気となったため、張紘は来訪の目的を尋ねた。

実は孫策の使者への対応は、家人が張紘の手を煩わせないための勝手な判断だったため、面会を求められていたのも初耳だったのだ。


「これはうちの者が失礼をいたしました」

「いえ、そのおかげで、本日、張紘殿と会う縁が生まれました。私は、感謝しています」

孫策の年齢の割に落ち着いた様子に張紘は感心した。後ろに控える周瑜からも才気を感じる。


なかなか見どころある若者二人だと認めるのだった。

しかし、今は喪中の身、張紘自身は大した力添えはできないだろうと考える。

「遠路、お越しいただき申し訳ないが、喪が明けるまでは何もする気はおきません」

「私も父を亡くしております。そのことは十分、理解しています」


孫策も少し前まで、喪に服しており、復帰したのはほんの少し前のこと。

張紘の気持ちは、痛いほどに分かる。


「では、本日は、何のために?」

「本日は、先生から教えを乞うために参りました」

「非才の身ですが、そんな私に教えとは?」


孫策は、今後の展望として劉繇追って、豫章郡よしょうぐんに進むべきか、呉郡を平定し会稽郡かいけいぐんに向かうべきかの二択に迫られていたのだ。


すると、張紘は呉郡平定から会稽郡へ向かうべきだと答える。

それは事前に周瑜と相談していた方針と一致し、まさに答え合わせが出来たことになった。


「それは、私たちの考えと一致します。今後も、ぜひ相談させて下さい」

「分かりました。母の喪が明けましたら、必ず、孫策殿のもとを訪れる約束をいたします」


初めは無礼者と思っていた孫策のことを、話しているうちに張紘は気に入ったのだ。

思わず仕官の約束までしてしまった。


更に張紘は、孫策の去り際に助言を与える。

「呉郡平定に際して、劉繇の元配下たちが降伏するというのであれば、寛大な心を持って、受け入れるとよいでしょう」


後日の話になるが、孫策をその言を守ったため、江東における人望が高まり、数多くの志願兵が集まってくるようになるのだった。



張紘の家を去り、曲阿県の城に戻ると、一人の男が二人を待ち受けていた。

「何だ、人を呼びつけておいて、待たせるとはどんな教育を受けているのだ」

その者は、使いの返事がなかった張昭だった。


こんなに早く、張昭自身が訪れてくれるとは思っていなかったため、孫策は慌てる。

「これは失礼いたしました。ご来訪、感謝いたします」

「ふん。折角、足を運んでやったのに、とんだ無礼を働かれたわ」

張昭は、何とも気難しい人物のようだ。


孫策は、とりあえず席を勧めて、落ち着いてもらおうとする。

「それで、儂を呼んで、どうしようというのだ」

「ぜひ、我が軍にご参入いただき、ご指導を仰ぎたいと思います」

「儂にひよっこどもの子守をしろというのか?」


賢人と聞いていたが、あまりにも無礼な物言いである。

すると普段、冷静な周瑜が張昭にかみついた。

「確かに手前どもは、まだ、未熟者ではありますが、これでも幾ばくかの武功を上げ、伯符は朝廷より官位も授かっております」

「おい、公瑾」


普段、短気な者は先に別の者が怒り出すと、かえって平静でいられるようだ。

いつもと役柄が変わり、孫策が周瑜を止めに入る。

「揚州の小物相手の戦。勝って当たり前の武功など、自慢するでない」

「何と、おっしゃいますか」


しかし、二人の議論というより、口喧嘩はおさまる気配がない。

とりあえず孫策は、二人が話し疲れるのを待つことにした。

しばらく経つと、お互い昂った感情をぶつけ合ったことを恥じ入ったのか、声の質が低くなり、落ち着いた口調に戻る。


「まぁ、儂が言いたいのは、特にお主のことよ。孫策殿」

「私が何か?」

「そこの孺子じゅしは、今はまだまだだが、あと、二、三年もすれば立派な軍師に成長するだろう。しかし、お主はこのままでは駄目だ」


言い合いはしたが、それでも周瑜のことは認めている口振りだが・・・

孫策の何がいけないのか?


「お主はただの未熟者ではない。親離れできていない未熟者。だから、ひよっこと呼ぶのよ」

親離れできていない。

孫策は、その言葉を重く受け止めた。そして、それは周瑜も同様だった。


実は、周瑜は先の戦で気になることが一つあったのだ。

それは孫策の太ももの負傷である。

流れ矢ということだったが、孫策ほどの達人が本当に矢に気づかなかったのだろうか?


もしや、矢が飛んできたときに、父親の最後の姿を思い出したのではないか。

それで、動きが止まってしまい、傷を負ってしまったのだとしたら、武人としては致命的な欠陥となる。


「伯符、お前、まさか?」

「そうだ。俺は矢が・・・怖い」

孫策は、やや青ざめた顔で認めるのだった。


やはりか・・・

周瑜は天を仰ぐ。

それは孫策を憐れんでではなく、こんな近くで一緒にいたのに、今まで気づいてやれなかった自分が情けなかったからだ。


「張昭殿、伯符を立ち直らせれる方法はあるのでしょうか?ぜひ、教えていただけないでしょうか?」

今の自分では無理だが、知識豊富な張昭であれば・・・

そんな思いで、恥も外聞も捨てて、先ほどまで口論していた相手に頭を下げる。


「ひよっこの子守をする気はないと言ったであろう。・・・だが、儂も年長者として、多少の助言を与えてやってもいい」

素直な性格ではないのか、張昭は、咳ばらいを一つすると持論を展開する。


「親を想うのは、孝の道だ。では、その孝を捨てればよいだけのこと」

「・・・どのようにすれば、捨てられますか?」

「お主には、初めから、親などいない。そう思い込むのだ」

簡単に言うが、親子の情はおろか、存在そのものをなくせというのは・・・


「無茶苦茶な論理。それでは伯符が、あまりにも・・・」

「・・・いや、張昭殿のおっしゃる通りだ」

「伯符?」

孫策は吹っ切れたのか、先ほどまでとは打って変わって、瞳に力が宿っている。


「袁術から兵を返してもらうとき、俺たちは覚悟を決めたはずだ」

「・・・確かに」


孫堅の意思に反した方法で、孫家再興の道を選んだのだ。

そんな自分が、今さら親を慕うなど虫が良すぎる。

親子の縁を切る覚悟もなく、玉璽を持ち出したわけではない。


「俺が死した後、わが父に詫びる。それまでは孝の道を封印する」

「そうだな。そのお前に私もついて行くと決めたのだった」

ひよっこどもがいい顔になった。

張昭は、二人を見て、そんな感想を漏らす。


それでは、邪魔者は退散するかと、その場を去ろうとした。

「張昭殿は、もしや私の欠点を指摘して下さるためにいらしてくれたのですか?」

「ば、馬鹿を言うな。そこまで暇人ではないわ」


そう言いながら、張昭の顔が少し赤くなっている。

どうやら、図星だったようだ。

孫策は、身を正すと慇懃に礼をとった。


「どうか、未熟な私どもをこれからも導いて下さい」

「・・・だから、ひよっこの・・・」

「そのひよっこは、先ほど、卒業いたしましたよ」


張昭の言葉を遮って、周瑜がしたり顔をする。

周瑜の自慢気な顔は気に入らないが、確かに言う通り、二人とも少しはましになったようだ。


「ふんっ」と、張昭はそっぽ向くと、

「儂の指導は厳しいぞ。あとで泣き言なんか、聞かんからな」

「よろしくお願いいたします」

二人の声が揃う。

こうして、孫策は高名な『江東の二張』を幕下に加えることが叶ったのだった。

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