第61話 太史慈の約束

呉郡曲阿県にあって、太ももの傷がすっかり癒えた孫策は、なまった体を動かそうと神亭山しんていざんの麓にあるという光武帝の御霊廟まで、遠乗りすることにした。


ところが単騎で動こうとしていると、張昭に見つかってしまい、大目玉を食らう。

しかし、孫策もただの暇つぶしで御霊廟まで行くわけではなかった。


「漢の臣として、光武帝の御霊廟に謝罪し、忠の道だけはまっとうしたいのです」

そう言われると、張昭も止めることができなくなる。それでは護衛だけはしっかりつけろと注意されるのだった。


現在、曲阿県付近は孫策の勢力下で、敵対していた劉繇はいないが、山賊や野盗の類とは出くわすかもしれない。

程普、黄蓋、韓当、蒋欽、周泰を含めた十二騎と豪華な構成の護衛をつけ、孫策は神亭山に向けて出発した。


久しぶりの騎乗だったが、思っていたより違和感がなく、孫策はほっとする。

力を入れて、あぶみの上に立つこともできたので、たとえ一騎打ちを演じることになっても問題ないだろう。


もっとも、大将たるもの一騎打ちは控えるようにと、江東の二張からきつく言われているのだが・・・


孫策たちが光武帝の御霊廟に到着すると、先客がいたため、その人物の礼拝が済むのを待った。


先客は、男が一人で、もしかしたら武芸者だろうか。

鎧こそ纏っていないが、腰には剣を帯びており、孫策の目から見てもその身のこなしに隙がなかった。


男の熱心な礼拝が済むと、孫策と入れ替わる。

その時、二人の目が合った。


「もしや、孫策殿か」

「そうおっしゃる、あなたは?」

「太史慈子義と申す」


先客が名乗ると、孫策の護衛たちの間に緊張が走った。

太史慈といえば、劉繇軍どころか、当代に名を馳せる勇将。


北海太守・孔融の危機を救ったなどの武勇伝を持ち、弓の腕前は百発百中。正直、劉繇が総大将に任じていれば、こうも簡単に決着はつかなかったと、孫策は考えていた。

そんな注意すべき重要人物と、このような場所で巡り合うとは・・・


「劉繇はすでに豫章郡と聞きますが、どうして、あなたほどの将がこんなところに?」

「私はすでに見限られております。劉繇について行く気にはなれませんでした」

「なるほど」

確かに劉繇のもとに許劭がいる限り、太史慈は日の目を見ることはないだろう。


人生の道に迷っている様子。

それで熱心に光武帝の御霊廟に祈りを捧げていたのだと思われた。

「光武帝の前で、何か悟りましたか?」

「残念ながら何も・・・」


気落ちする太史慈だが、その目は死んでいるわけではない。

何かきっかけさえあれば、すぐに自分を取り戻すのではないのか。

太史慈を見ていて、孫策はそんな気がするのだった。


「・・・ただ」

「ただ?」

「劉繇は敗れましたが、私はあなたに敗れたとは思っていない」


その言葉に、護衛の将たちが白刃を抜いた。

万が一でも、孫策に襲いかかってこられては、護衛の意味がない。

しかし、孫策が供の者たちを制した。


「私と闘えば、何かが変わるのでしょうか?」

「それは、分かりませんが・・・私の中にあるぶつけどころのないこの想い。それが何かに変わるような気がします」


このような勇将を、このまま腐らせるべきではない。

同じ武人として、孫策は手を差し伸べるべきではないかと、直感的に感じた。

「どうか、この願い受け止めていただけないでしょうか?」


「勝手なことを申すな」

黄蓋が二人の間に割って入る。孫策にとって利のない私闘などさせるわけにいかない。


だが、孫策は、

「私も臣から、一騎打ちを禁じられる諫言をもらっています。そこで、あなたを生涯最後の相手として、以後、その諫言に従おうと思います」

と、承諾する。


理由は、太史慈を救いたいという気持ちと、何よりこの強者を前に武人の血が騒いだことだった。


張昭、張紘を請うて招いた以上、二人の言葉には従うつもり。

今後、戦場において一騎打ちは自身に禁じようと思っている。ならば、孫策最後の相手として、これ以上の者はそういない。

孫策は、早くも闘志をみなぎらせた。


このような状態になっては、たとえ義兄弟の周瑜でもあっても止められない。

家臣たちは、諦めるのと同時に命に関わる瀬戸際だけは見逃すまいと神経を集中した。


「ありがたきお言葉。感謝いたす」

二人は腰の剣を抜き合い対峙する。


普段、孫策は槍を使い、太史慈は薙刀を使う。

だからと言って、剣が不得手というわけではなかった。

無論、それをお互い言いわけにするつもりはない。


剣同士の打ち合いは、普段の一騎打ちより間合いが短い。

互いの視線や息遣いが、いつも以上に感じ取れた。

そこには闘っている当人同士、二人だけの世界が広がるのだった。


『孫策殿、あなたはこの先、何を目指すのですか?』

『心にあるのは孫家の再興のみ』


言葉では語らず、剣で語る。

同じ達人同士だから、できる業だった。


『そして、今は父を語ることはできませんが、いつか墓前に報告できる成果をあげたいと考えています』

『あなたは、迷った末に答えを見つけたのですね』

『ええ。これも我が家臣団のおかげです』


孫策の自信に満ちた笑顔。

太史慈は、それを見たとき、心の中が照らされる思いがした。


二本の剣が弾かれて、宙を舞い、地に刺さる。

「孫策殿、どうやら、私の負けのようです」

「いや、これは引き分け、勝負けなしです」

一刻以上続いた一騎打ちが終わると、お互いの健闘を称え合った。


見ていた孫策の家臣たちは、まるで剣舞を見ていたかのように興奮している。

孫策は汗を拭い、地に刺さった剣を鞘に納めた

すると、そんな孫策の前で、太史慈は平伏するのだった。


「たびたび、図々しいお願いですが、私を家臣の末席に加えていただけないでしょうか?」

「あなたのような勇者を味方にできるのは、無上の喜びです」


願ってもない申し出に、これも光武帝のお導きかと感謝する。

孫策の配下の中に、新たに太史慈が加わることになった。


「孫策さま。この呉郡には、私のように劉繇にはついて行かずに離れた者たちが多く残っています」

「そうなのですね」

「それらの者たちを取りまとめて、孫策さまの前に連れて来たいと思います」


降伏する者たちを受け入れるのは、張紘の金言と合致する。

孫策に断る理由はなかった。


「五日後の正午までに曲阿県に戻ります」

「分かりました。それでは、お待ちしています」

孫策と約束を交わした太史慈は、急いで馬を駆けていった。


それを見送る家臣団の中からは、本当に戻って来るのか疑わしいという声が上がったが、孫策は気にもしなかった。


「光武帝の御霊廟前で誓った約束だ。漢の民で破る者がいるわけがないだろう」

それに、太史慈のあの目は、約束を違える者の目ではなかった。

一騎打ちを演じた孫策だからこそ、太史慈の忠義心が分かる。


「大層なおまけがついたが、本日の目的は、まだ達していないぞ」

そう言うと、孫策は御霊廟の前で手を合わせる。

そして、袁術に玉璽を渡したことを詫び、必ず、取り返して正当な人物に渡すことを固く誓った。


お参りも無事を終えて、曲阿県に着くと誰の口から洩れたのか、太史慈との一騎打ちの件で、張昭にはこってりと絞られる。

孫策は、あの一騎打ちが、生涯最後だと誓って、張昭の前から逃げだすのだった。


あの日から、三日、四日と日が経つごとに、一騎打ちに立ち会った家臣団が騒めきだす。

本当に戻って来るか、賭けのようなものを実施しているようだったが、孫策は咎めるようなことはしなかった。

新しい仲間に関心を持ってもらうのに丁度よいと思ったのだ。


五日目の朝、孫策は部下に命じて、城門前に日時計を据える。

日時計は、刻一刻と時間の経過を示すが、太史慈は中々、現れなかった。


「やはり、やって来ないのではなかろうか?」

「いや、伯符が信じているのです。きっと、来ますよ」


周瑜は太史慈に会ったことはないが、孫策の眼力は信頼している。

黄蓋の不安を打ち消すのだった。


そして、日が昇り、日時計が正午を示した時、土埃が近づいて来るのが見えた。

先頭を走っているのは、太史慈である。

従えている兵の数は、三千はくだらないように見えた。


「お待たせいたしました」

孫策の前で、馬から降りた太史慈は早速、挨拶をする。


そんな太史慈の手を取ると、孫策は、

「やはり、あなたは真の勇者。喜んで、あなたたちを迎え入れたい」と話す。


「彼らは不肖な私を慕ってくれる者たちですが、その誠心に偽りはございません。必ずや孫策さまのお役に立つことを約束いたします」


こうして、孫策は勇将太史慈と三千の兵を手に入れた。

孫策の日の出の勢いは、留まることを知らない。

揚州統一に向けて、まさに燃え盛らんとしていた。

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