第122話 襄陽、無血開城

徐福が宛城に戻ると、曹操は襄陽城に攻め込む準備をしているところだった。

これは、攻め込むにせよ降伏を受け入れるにせよ、準備だけはしておいた方がいいという荀攸の提案によるものである。

当然ながら、曹操が誇る頭脳集団、行動に無駄がない。


徐福は曹操に、劉備から言われた通り、劉琮の降伏は真であると伝えた。

別の道を進むことになったとはいえ、世話になった劉表の息子のこと。

むやみに殺されるのは、忍びなかったのだ。ついでに、残念ながら、降伏勧告には応じなかったとも伝える。


当初から、劉備の降伏は期待していなかったため、曹操は気にもしなかった。

劉琮の真意がはっきりしたため、次の行動が定まる。

曹操は襄陽城に入るため、宛城を出発するのだった。



襄陽城の城主の席に曹操が座ると、荊州の臣は皆、平伏して沙汰を待つ。

降伏の使者を送って、数日、待たされてからの曹操の入城。

曹操の意図が読めず、会場内には緊張が走った。


「まずは、無血開城。大義であった」

その言葉にやっと、安堵の空気が流れる。

後は、劉琮が荊州の主としての立場を認めてもらえれば、全て思惑通りだが、さすがにそうはいかなかった。


「劉琮殿には、青州を任せる。準備が整い次第、政務にあたられるように」

降伏を受け入れられたのはいいとして、意中の職ではない。劉琮は、このまま受けて良いのか判断に迷うと、叔父である蔡瑁に視線を送った。

劉琮の意を汲み取った蔡瑁は、恐れながら進言する。


「先代の劉表さまの遺児である劉琮さまは、荊州の民から慕われております。このまま荊州に留めおくわけにはまいりませんでしょうか?」

「荊州は、これから続くであろう戦乱の要となる。申し訳ないが、若く経験の浅い劉琮殿に任せるわけにはいかない」

「しかし・・・」


蔡瑁は言葉を続けようとしたが、曹操の冷たい視線に気づき、口をつぐむ。

自分たちは、まだ、この男に生殺与奪権を握られているのを忘れるところだった。


「どうしても荊州にこだわるというのであれば、宛城をお任せるが、いかがいたす?」

曹操の言い方は、南陽郡の太守ということでもなく、更に下の宛の県令を意味している。

州牧から、一気に県令までの降格の示唆に蔡瑁は冷や汗をかいた。


「申し訳ございません。出過ぎた発言をお許しください」

「劉琮殿が経験をつまれ、漢の世が平和になったあかつきには、荊州への復帰を考えよう。それまで、青州で励まれよ」

「は、はい。つ、謹んでお受けいたします」


劉琮に、この場の雰囲気に堪えられる心胆はない。

表情を青ざめさせながら、辞令を受けとるのだった。


劉琮以外、荊州の臣にも新たな役職が言い渡される。

目立ったところでは、蔡瑁に水軍都督、蒯越は光禄勲こうろくくんとなり宮中に召されることになった。

後に曹操は、荀彧に宛てた手紙に、『荊州を得たことより、蒯越を得たことの方が嬉しい』と綴っている。


その他、曹操への降伏を積極的に説いた者たちが重用され、特に袁紹との対決時から、曹操側につくよう唱えていた韓嵩と劉先は、それぞれ大鴻臚だいこうろと尚書令に抜擢された。


一旦、人事が落ち着くと荊州における勢力の確認を行う。

現在、曹操に従属していないのは、劉琦と劉備だが、劉備はともかく劉琦のことは、あまり知らなかった。


「江夏の兵力は、どうなっている?」

「あそこは孫呉への防衛拠点。黄祖将軍の頃は、十万ほどおりましたが、今は減って五万というところです」


蔡瑁の答えに曹操は顎に手をあてる。

五万といえば、それほど多い数字ではないが、けして少ない数字でもない。

早めに潰しておく必要がありそうだ。


「それで、劉琦の用兵は?」

「戦に出たことがございませんので、恐らく大したことはないと思われます」


要は分からないということか・・・

まぁ、諸葛亮のような化物軍師がつかない限り、問題ないと曹操はふむ。


しかし、徐福、諸葛亮と続けて荊州の知者には驚かされた。

びっくり箱を開けさせられたような展開が、この後もないとは限らない。


「江夏・・・いや、荊州の在野の士で人と呼べる者はいるか?」

「江夏には特におりません。・・・仕官していない者では、そうですね。龐統士元という者がおります」

「龐統。・・・どのような人物だ?」


龐統という名は聞いたことがなかった。まだ、出会ったことがない賢者であれば召し抱えたいと、曹操は俄然、興味を持つ。

その求められる説明に蔡瑁は、若干、苦みを覚えた。

それは親族でありながら、敵対する道をとった諸葛亮にも触れなければならないからである。


「鳳雛とも呼ばれ、一部の間では、同門の諸葛亮と並び称されている人物でございます」

「それは、本当か?」

諸葛亮と同格であれば、大賢者に間違いないはずだ。すぐにでも呼び出したいが、蔡瑁には伝手がないという。


「徐福、龐統について、知っていることを話してほしい」

諸葛亮と同門ということは、徐福とも同門のはず。

蔡瑁よりも徐福の方が頼りになると思われた。


「蔡瑁殿のおっしゃる通り、道号は鳳雛。伏竜と鳳雛は、我ら門下生の間では双璧でございます。士元も孔明と同じく、ただの『天才』という枠には収まらぬ男」

「やはり、相当な人物のようだが、君とは親しいのか?」

「士元とは友人でございます」


徐福の言葉に曹操は喜ぶ。すぐに呼んでほしいと徐福に頼んだ。

だが、徐福は首を横に振る。


「士元は自然体を信条にして飄然とした男。同じ個所に留まっていることはございません。私も会うのは、突然、彼の方から訪ねて来た時のみでございます」

「そうか」


曹操は、残念がり、もし徐福を訪ねてくることがあればと、招聘の件を頼んだ。

徐福は承るも、龐統の仕官は無理だと考える。


諸葛亮を得るために三度も草庵を訪れた劉備と比べれば、賢者を迎え入れる姿勢が全然、違う。

もっとも徐福も龐統に仕官を勧める気は全くないのだから、そもそも成立するわけがない話なのだ。まぁ、それは当然、口にはしなかったが・・・


一通り、情報収集を終えると、いよいよ本題についての話が行わる。

現在、曹操を避けて南下している最大の反対勢力についてだ。


その首魁、劉備玄徳だが、聞くところによると荊州の住民十万を率いての逃避行だという。

あのお人好し。よくも進んで苦労を買って出るものだと呆れかえる。


「劉備は難民を連れて、どこを目指すと思う?」

「交州にいる呉巨という人物が劉備と昔馴染みと聞いています」


交州とは、またご苦労な事。

そんな遠路まで民を率いていくなど、曹操には正気の沙汰と思えない。

どう考えても遅々とした行軍にしかならないため、劉備については荊州を出るまでに捕らえられれば問題ないと考えた。


「・・・ただ」

「ただ、何かな?」

「もし江陵県に入られると、少々厄介かもしれません」

荊州の地理にまだ疎い曹操だが、江陵県と言われて、長江の畔にある城を何となく思い浮かべる。


「どうして、江陵県に入られると厄介なのだ?」

「実は、江陵県は荊州の倉庫とも呼ばれ、食糧や軍事物資が大量に保管されているのです」


蔡瑁のその言葉に曹操は、思わず立ち上がる。

どうして、そのような重要なことを早く説明しないのか。

しばらく戦乱のなかった荊州人は、ぬるま湯に漬かりすぎて感覚が鈍っているのではないかと疑ってしまう。


「蔡瑁、今の君の発言。あと数刻遅ければ、その首刎ねているところだぞ」

「ひっ」


蔡瑁は曹操の怒りにふれ、縮み上がった。

曹操は、そんな小物の萎縮など気にせず、まず、足の速い騎馬部隊に声をかける。


「張遼、張郃、君たちは騎馬を走らせ劉備より先に、江陵を抑えるんだ」

「途中、劉備たちと出くわした場合、いかがいたしますか?」

「そこは無視してかまわない。別の隊で劉備たちを捕捉する」


張遼と張郃は曹操の下知に頷くと、勇ましく広間を出て行った。

それぞれの愛馬に飛び乗ると、素早く出陣するのである。

続いて、曹操は曹純と荊州の降将・文聘ぶんぺいを呼んだ。


「君たち、二人を先鋒に指名する。我らも後から追いかけるゆえ、まず劉備の尻尾を捕らえてくれ」

曹純が率いる虎豹騎と道先案内として文聘をつければ、劉備の足止めとしては十分なはずだ。

その間に張遼たちが江陵県を抑えることができれば、もう劉備は詰んだも同じ。


ただ懸念があるとすれば、今回、曹操軍の大半は鄴から引き連れてきており、疲労が蓄積されていることだった。

「まぁ、今は配下を信じるほかあるまい」

曹操は自分にそう言い聞かせる。


曹操が先か、劉備が先か。

江陵県の占拠を目指す競争が始まるのだった。

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