第121話 徐福の時間稼ぎ
曹操が宛城に到着して間もなく、劉琮の使者と名乗る男がやって来る。
南征の行軍途中で、劉表が亡くなったことは聞いていたが、どうやら、予想通り次男の劉琮の方が後を継いだようだ。
曹操は、とりあえずその使者の用件を確認する。
「劉琮さまは、曹操丞相に逆らうつもりは毛頭ございません。恭順の意を示すとともに荊州牧の印を朝廷にお返し致します」
「ほう、一戦も交えぬうちに降伏とは殊勝な心掛け。・・・いや、賢明な判断と言った方がいいか。内容を検討する。追って、使者を送ると劉琮殿に伝えよ」
劉琮の使者を返すと、重臣を集めて、今の降伏の件を吟味した。
「さて、今の降伏が真か虚偽か。諸将、どう見る?」
荊州は大きな戦乱に巻き込まれておらず、兵力は十分。物資も豊富と聞いており、あっさり降伏するとは考えにくい。
また、先日、新野城において、曹仁、曹洪軍が空城の計をもって壊滅させられているのも記憶に新しかった。
今度は曹操を襄陽城内に引き込んで、策を弄するのではないかという懸念が生じたのである。
「仲達、どう見る?」
本来、丞相府にいるはずの司馬懿を今回の遠征に連れて来ていた。
曹操は、夭折した郭嘉の代わりとなる者こそ、この司馬懿と見ている。そのため、多くの現場経験を積ませようと同行させたのだった。
司馬懿は、策かどうか論じる前に、諸葛亮の力量を正確に把握する必要があると唱える。
「私が思うに諸葛亮とは神か魔のように思います。遠く離れた樊城から書簡一つで、新野城にて火計と水攻めを行いました。いつ仕掛けるかが非常に重要な二つの作戦を、現場にいずに成功させることは、私には到底できません」
司馬懿は自分には不可能だと曹操に伝えるが、実は、実現可能な方法が一つだけ、頭の中にあった。
それは、諸葛亮と比する知者が新野城で指揮をとっていた場合である。
しかし、新野城の大将が張飛と聞くと、その可能性はないだろうと消したのだった。
諸葛亮を称える発言は、ここから来ていたのである。
やはり、かの天才軍師の存在を考慮すれば、おいそれと襄陽城に乗り込むのは危険だと思えた。
他に判断材料が欲しい曹操は、徐福にも質問する。
「徐福、諸葛亮と親しい君は、どう考える?」
「私ごとき、孔明の智謀を推し量るのは難しいですが、やはり罠の可能性は捨てきれませぬ」
問われたので、そう答えたものの、徐福はこの降伏、十中八九、本物だと思っていた。
荊州牧を継いだのが劉琦ならまだしも、劉琮ということは蔡瑁、蒯越らが後ろについている。
徐福が荊州を離れる前までは、劉備と彼らの仲は最悪だった。この短期間で解消されたとは、とても思えない。
客将の暗殺を試みるなど家の恥であるため、劉備と蔡瑁の確執が、表に出ていないのが幸いした。
この情報を黙っていれば、劉琮と諸葛亮は親族である。その繋がりから、通じ合っていると思わせることができるのだ。
逃走中の劉備のためにも時間稼ぎがどうしても必要。徐福は、あえて考え違いの回答をするのだった。
「しかし、諸葛亮の主君、劉備は襄陽城にはおらず南下していると聞くが?」
「孔明の恐ろしいところは、その主君さえ囮に使うというところでございます」
徐福にそう言い切られると、曹操も罠の線が濃いのではないかと思ってしまう。
それならばいっそ、降伏を無視して攻め込もうかとも考えた。
「その逃走中の劉皇叔、民を引き連れてとのこと。単身、私が追いかければ容易に追いつくことができると思われます。陣営の様子を探って参りましょうか?」
劉備であれば、かつて仕えていた徐福を間違っても殺すことはないだろう。
何か判断のきっかけになればと、曹操は徐福の提案を許可した。
「劉備についている民は、私の徐州での風聞を恐れてのことだろう。会った時、ついでに降伏勧告も行い、素直に応じるならば民を赦すとも伝えよ」
「はっ、かしこまりました」
早速、徐福が劉備の後を追うための準備にとりかかる。
徐福が、この場からいなくなると荀攸が進み出て来た。
「あの者を行かせて大丈夫でしょうか?いまだに劉備のことを劉皇叔と呼んでおります。裏切るのではないでしょうか?」
「いや、大丈夫だ。徐福ほどの知者、二回も節を曲げては天下の笑い者となる。彼はちゃんと戻って来るよ」
曹操は、そう言って荀攸の心配を退けた。
とりあえず、曹操は徐福からの報告を待つことにするのだった。
曹操の南征で対応が忙しいのは荊州だけではなかった。
揚州呉県では、連日、議論が繰り広げられている。
その中身は、曹操との和平か抗戦かだった。
和平派は張昭を筆頭にした文官、抗戦派は周瑜を筆頭にした武官と、その構図ははっきりしている。
孫策が遺言で頼れと言っていた二人が対立しているのだ。束ねる孫権の舵取りは非常に難しい。
話し合っても結論が出ないため、会議を中断し休憩を入れた。
孫権は自室に戻ると、疲れから椅子に身の全てを預けるように腰を掛ける。
「お疲れでございますね」
そこに魯粛が現れた。魯粛は、今のところ、自分の意見をはっきりとさせず中立を守っている。
「どちらの意見も一理あるのだ。これほど判断に窮することはない」
「私としましては、荊州の状況を把握してから、判断してもいいのでないかと考えております」
「それで、子敬は中立を守っていたのか」
どちらかというと意見が、周瑜よりとなることが多い魯粛が、今回、同調せず中立を守っていることを不思議に思っていたが、やっと得心する。
「劉表の弔問を名目にしますが、何とか劉備とも接触してみます」
「分かった。よろしく頼む」
荊州で頼りとなる人物は、劉琮でも劉琦でもなく、劉備、ただ一人と孫権陣営は見ている。
この劉備の行動や考え次第で、孫呉の方針も決めた方がいいと魯粛は考えていた。
魯粛は劉備に会うために出発することになるが、この時、奇しくも曹操、孫権両陣営から知者が劉備を訪ねることになるのだった。
その二人の知者、最初に劉備と接触したのは、徐福である。
徐福は、劉備たちの一団に南郡
襄陽城を発ってから、数日経過しているのに、まだ、この辺りにいることに徐福は驚く。
やはり、住民を引き連れての行軍は難しいようだ。
劉備の先行きを考えれば、不安を残す。
それでも、久しぶりのかつての主君との再会には素直に喜んだ。
「徐庶、久しいが、ご母堂は健やかにされているか?」
「ありがとうございます。母も私もつつがなく生活を送っております」
「そいつは、良かった」
一通りの挨拶を済ませると、徐福は、本日、来訪した用件を伝える。
劉琮の降伏の真偽確認と劉備への降伏勧告だった。
荊州の件は論じるまでもないと思っている徐福は、後者について、受けるべきではないと伝える。
「曹操は徐州での醜聞が予想以上に荊州の民に影響を与えていることを憂慮しているようです。ですので、仁者の姿勢を見せようとしていると思われます」
「それで、この話を蹴れば、俺の方が悪いって寸法か」
「ご明察です」
だが、荊州の民もそこまで愚かではない。
そんな見せかけでは、民の目、民の耳はごまかせないと徐福は言う。
劉備は、当然、降伏勧告など受ける気はなかったが、徐福の力説に自信を深めた。
そこに見回りを終えた諸葛亮が戻ってくる。
「これは、元直殿。ご無沙汰しております。ときにこの度の時間稼ぎの件、感謝いたします」
「さすがは孔明。全てお見通しというわけか」
「時間稼ぎ?」
その疑問について、徐福の尽力を諸葛亮が説明すると、劉備は改めて感謝の意を示した。
敵国に降ったとはいえ、未だに劉備に忠義を尽くしてくれることに感激を覚える。
「しかし、劉皇叔。時間稼ぎにも限界があります。このまま江陵を目指すとしても何か手をうちませぬと」
「その件について、我が君に進言がございます」
劉備が、何かと尋ねると、諸葛亮は江夏に赴いて劉琦に援軍を請うと答えた。
劉琦は諸葛亮に命を救われた恩義があるため、自身が訪ねれば、きっと色よい返事がくるともいう。
確かに、その通りだが、劉備には気になることがあった。
「それはいいとして、まさか単身で行くつもりじゃないよな?」
江夏は孫権との国境である。孫権兵が近くをうろついている可能性だってあるのだ。
ここで、諸葛亮を失うわけにはいかない。
「いえ、そこは私が心配せずとも・・・」
諸葛亮の言葉の途中で、関羽の姿が目に入った。簡雍に呼ばれたので、来たと申し出る。
さすがは簡雍、仕事が早い。諸葛亮の護衛は既に手配済みだった。
「この通りでございます」
諸葛亮も、その辺は簡雍を信頼しており、任せきっている。
徐福は、はた目に劉備一家のこの和が、眩しく見えた。
この輪の中にいる自分を想像せずにはいられないが、それは詮無きこと。
今の自分には、劉備の武運を祈るしかない。
「それでは、私もできる限りのことをいたしますが、どうかお気をつけて」
「分かった。色々とすまなかった。達者でな」
劉備と目が合ったところ、思いを断ち切って、徐福は旅立つ。
お互いに感じる部分はあるが、最後まで『戻ってこい』の一言を堪えてくれた劉備に感謝した。
もし、その言葉があれば徐福は、迷わず劉備の元に戻っただろう。
だが、そうなれば曹操領にいる母親の命はない。
今、感情のまま動いたとして、その時は満足するかもしれないが、将来、母親を見殺しにした自分を許せるわけがないのだ。
それを劉備も承知している。
徐福は、馬を走らせながら、心の主君の無事を願うのだった。
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