第46話 火門
田氏からの密書の中身をかいつまむと、以下のことが書かれていた。
一つ、濮陽を支配した呂布の暴政に民が苦しんでいること。
二つ、呂布と陳宮の仲が険悪で、統制がとれていないこと。
三つ、濮陽の民は、曹操が戻ることを待ち焦がれていること。
四つ、吉日に蜂起し、内側から城門を開放すること。
受け取った密書の内容はとても重大なのだが、曹操陣営はその真偽について、頭を悩ませなければならなかった。
一つ目と三つ目はともかく、皆が気になったのは二つ目と四つ目の内容。
まず二つ目について、昨晩の夜襲も読まれていたとはいえ、被害はそれほど大きくなかった。
今回の呂布との戦いでは、至る所に詰めの甘さが見られる。
これは、一体何を示すのか?
陳宮の差配が行き届いていない可能性があるのは確かだった。
そして、四つ目についてたが、もしこの約束が履行された場合、曹操軍の勝利は確実となる。
確実であるが故に危険も伴うのだ。
これがもし、罠だった場合、逆に曹操軍が壊滅する可能性もぬぐい切れない。
しかし、罠を疑い、この提案を拒絶した場合、田氏の協力は二度と得られないだろう。
濮陽を奪還する日が遠のくことは間違いなかった。
熟考を重ねた結果、曹操はこの提案は乗る方向で協議する。
その上で、
「城内に入る際は、二手に分かれて、様子を見た方がよろしいかと思います」
「そうですね。殿には城外で待機していただきましょう」
と、荀彧と郭嘉が慎重論を唱えた。
だが、曹操は、
「濮陽の民が私を待っているというのならば、私がいないと城内の協力は得られないのではないか?」と、勝利を確実なものにするための案を述べる。
確かにそうかもしれないのだが・・・
これが陳宮の策ならば、本当に絶妙なところをついている。
今回の密書では内通の約束だけで、日時については吉日と書かれただけ。
検証する時間は、まだ残されているはず。
とりあえず、曹操陣営では、次の展開が進むまで、じっくりと考えることにするのだった。
それから、数日後、呂布軍に動きがあった。
呂布が濮陽を離れ、黄河渡り冀州魏郡の
この動きの真意が曹操陣営の中では読み解けなかった。
一説には、呂布の病気説まで流れる。
小競り合いをけしかけて、様子を見ようにも呂布軍は応じる素振りもなかった。
そんな折、田氏から二度目の密書が届いた。
その密書には、今、城内には、
また、決行に関して、詳細な指示も記載されていた。
城壁に『義』の旗を掲げた日の夜半、銅鑼を鳴らすのでその合図とともに城門を開けるという。
了承であれば、『義』の旗を掲げたとき、曹操軍は『帥』の旗を一段、高く掲げてほしいとのことだった。
呂布が黎陽県にいる今が、好機なのは確かだった。
この機会を逃す手はないのだが・・・
呂布がいないことも含めて、曹操にとって状況が良すぎるのが気になる。
「呂布の動きが読めない以上、ここは慎重に動いた方がよろしいかと思われます」
「しかし、田氏の密書が噓偽りでなかった場合、千載一遇の機会をふいにすることになりますぞ」
兗州をともに守った荀彧と程昱の意見が分かれる。
「やはり、入城は殿ではなく、別の者が入るべきではないでしょうか?」
「しかし、それでは田氏の信をえられないのでないか?」
郭嘉と荀攸も、それぞれ別の意見を述べた。
曹操が誇る参謀集団の意見が、ここまでまとまらないのも珍しい。
そこに物見から、濮陽の東門に『義』の旗が掲げられているのを確認したと報告が入る。
曹操は、考え悩んだ結果、「『帥』の旗を一段、高くせよ。」と、指示した。
伝令がそのことを伝えに走る。
曹操は、参謀たちを見回すと、
「今夜、私が濮陽に入る」
そう、宣言するのだった。
「我が君」
「文若。君の前で覇道を誓った私が、こんなところで死ぬと思うのかい?」
止める荀彧を曹操が制した。荀彧に苦渋の表情が浮かぶ。
「分かりました。では、護衛として、典韋殿についていただきます」
その他、細かい軍の編成は郭嘉が行う。
こうして、曹操陣営は運命の銅鑼の音を待つのだった。
夜半、約束通り、濮陽から銅鑼の音が鳴る。
まずは、城門が開くかどうかだが、曹操が待っているとほどなくして、ゆっくりと門が開かれた。
曹操の一軍が城内に突入する。
軍の編成は一軍に曹操、典韋、李典、楽進が入り、二軍には夏侯淵、呂虔、于禁が城外で待機となった。
曹操は典韋が護衛としてついているため、すっかり安心していたのだが、進むにつれて何やら不穏な空気を感じとる。
門をくぐり、しばらく城内を侵入して行くが、人の気配がまったくしないのだ。
すると入って来た東門から火の手が上がる。
「くっ、やはり罠か」
退路を断たれた曹操は、予定を変更し北門からの脱出を試みる。
しかし、そこには高順が待ち受けていた。
「曹操がいたぞ」
高順の手勢に見つかり、襲いかかられる。
すると、武将の一人が飛び出した。
「ここは、私が引き受けました」
それは、一軍の中に編成されていた楽進だった。
楽進は千騎ほど、引き連れて高順を足止めする。
「今のうちに南門へ向かいましょう」
典韋の意見に従って、曹操は南門を目指すと、そこにも呂布兵が手ぐすねを引いて待っていた。
それは侯成が率いる部隊だった。
「典韋、後は頼んだ」
今度は、李典が楽進と同じく千騎ほどの兵を率いて、侯成軍に向かっていく。
北、南、東と行く手を塞がれたので、残るは西門しかない。
曹操は
しかしというか、やはりというか、そこにも敵兵が待機している。
しかも西門の前にいたのは、
「待っていたぞ、曹操。他の者に討ち取られたかと冷や冷やしたわ」
濮陽にいないはずの呂布だった。
曹操は、天を仰ぐ。一瞬、覚悟を決めるが、その時、典韋が呂布の前に立ちはだかった。
「この状況を見越して、私が荀彧殿に指名されたのでしょう。お任せください」
「なんだ、この前は二人がかりで勝てなかったのを忘れたのか?」
「鼻から勝とうとは思っていない」
典韋は呂布兵、二人を捕まえると力任せに投げつけた。
呂布は味方の兵だが、お構いなしに方天画戟で振り払うと、一気に典韋との距離を詰める。
それを待っていた典韋は、呂布の懐に飛び込んで体当たりに近い形で、赤兎馬から突き落とすのだった。
地上に落ちても典韋は呂布の体を離さない。
さすがの呂布も単純な力では典韋に敵わず、その手を振りほどくことができなかった。
「殿、今のうちに逃げて下さい」
「典韋、すまない」
典韋が作ってくれた隙をついて、曹操は呂布の前から逃げ出すことに成功した。
夢中で馬を駆っていたので、気づかなかったが、曹操の周りには味方の兵が誰もいなくなっている。
この状態で呂布軍の誰かに見つかっては、ひとたまりもない。
曹操は全知全能を傾けて、この場からの脱出方法を考えた。
・・・四方の出口を塞がれているが、可能性があるとすれば、やはり、あそこしかない。
曹操は意を決すると、逃げてきた道を後戻りする。
『たしかあの角を曲がったところに井戸があったはずだ』
曹操は濮陽のいた頃の記憶を頼りに、井戸へと向かった。
井戸がすぐ目の前に迫ったとき、曹操は慌てて馬を止める。
目的の場所に四、五人の敵兵がいたのだ。
その時、曹操は機転を働かせ、
「曹操が北門に行ったぞ」と、大声をあげる。
すると、呂布兵は声がどこから聞こえたかも確認せずに、北門へ向かうのだった。
誰もいなくなると曹操は、井戸の水を汲み、全身に浴びる。
そして、一路、東門へと向かうのだった。
東門は変わらず、激しく燃え上がっていた。
しかし、門は閉められているわけではないため、この炎の壁をくぐり抜ければ脱出は可能なのだ。
曹操は大きく息を吸い込むと、その炎に向かって馬を走らせるのだった。
濮陽の東門が炎に包まれる。
その報せを聞いたとき、傷の痛みをおして、夏侯惇は濮陽まで様子を見に来た。
二手に分けた一隊を指揮している夏侯淵も東門の前におり、そこで二人は顔を合わせる。
「妙才、殿は大丈夫か?」
「分からない。典韋がついているから、大丈夫だと思うが・・・」
味方からも恐れられる鬼将軍、二人が不安な顔をしているのだ。
ついている部下たちは、誰もが落ち着かずにいる。
その時、焦げ臭い匂いとともに黒い塊が東門から飛び出してきた。
地面に投げ出されたそのものをよく見ると、人型のように見える。
「殿!」
まず、先に夏侯惇が反応して、続けて夏侯淵が走り出す。
地面に倒れているのは、全身やけどに覆われた曹操孟徳だったのだ。
夏侯惇の手に抱かれた、曹操は微動だにしない。
・・・まさか。
最悪の状況を思い浮かべた夏侯惇の手は、思わず力がこもった。
すると、
「つっ!」
痛みに曹操の顔がゆがむ。
どうやら、意識が戻ったようで、曹操の目はゆっくりと開かれた。
「片目の閻魔がいるな」
その軽口に、曹操軍から歓喜が上がる。
「何とでも言え、孟徳」
涙を浮かべる夏侯惇は、この時だけ、臣下ではなく親族を心配する従兄弟に戻るのだった。
九死に一生を得た曹操。
その曹操を取り逃がした報告を聞くと、陳宮は歯噛みする。
「なぜ、作戦通り、西門の外で待っていなかったのだ」
それは、呂布のことを言っている。
陳宮の立てた作戦では、最終的に曹操が西門から出てきたところで門を閉めて、取囲む予定だったのだ。
逃げ道を一か所だけ作り、誘い込んでとどめをさす。
何度も説明したはずだったのだが・・・
これまで積み上げてきた布石、不審な行動で混乱させてきたことも無駄になってしまった。
近くにあった椅子を蹴とばすと、荒い息を整えるために大きく深呼吸をする。
まぁいい。・・・儂の恐ろしさがこれで分かっただろう。
軍師たるもの常に冷静でいなければならない。
足を引っ張られようが何をされようが、最終的に事を成すことこそが軍師冥利に尽きるというもの。
陳宮は、荒ぶる気持ちを抑えて、次の策略を模索するのだった。
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