第47話 徐州牧

濮陽での戦いの後、曹操軍、呂布軍ともに決め手を欠き、一進一退の攻防が続いた。

両軍の戦いは、始まってから百日余を数えたが、一向に決着がつくめどが立たない。


そんな泥沼化した戦争だったが、意外な形で停戦となる。

それはいなごの襲来だった。


この蝗の群れに作物が食い荒らされ、両軍はたちまち兵糧不足となる。

もはや戦争どころではなくなった。今日、明日、何を食べるかという問題に変わるのだ。


両軍とも兵を退き、曹操は済陰郡せいいんぐん鄄城県けんじょうけんに立て籠る。呂布は食料を求めて、山陽郡さんようぐん一帯に駐屯するのだった。


この蝗害こうがいは三城しか保有していない曹操にとっては大打撃となる。

兵糧がごく僅かとなり、弱っているところに、袁紹からの使者がやって来た。


その使者が持つ親書には、自分の下につけということが記載されている。

具体的にいうと家族を袁紹の本拠地である鄴県に差出せというのだ。そうすれば兵糧を援助する用意があるとのことだった。


盟約を結ぶというのならともかく、今さら袁紹の傘下に入ることなど、到底考えられない。

しかし、兵糧については枯渇する前に、解決しなければならない問題だった。


頭を抱える曹操の前に別の役目で鄄城県を訪れていた程昱が挨拶に来た。

曹操は、袁紹からの親書を程昱に見せる。


「殿のことですから、誤った判断はなされないと存じますが、何か迷いでもございますか?」

「私も袁紹の風下につく気はない。・・・しかし、兵糧問題が切迫しているのも事実でね」

「であれば、東阿県とうあけんに移られますか?」


東阿県は程昱の地元。

見知った商人も何人かいるそうで、もしかしたら、伝手を頼りに兵糧を用意できるかもしれないとのことだった。


曹操は、早速、本拠地を東郡東阿県に移すように指示を出す。

東阿県に移り落ち着いたころ、曹操のもとに急使が現れた。

その急使の報告によると、徐州の陶謙が死に、後を劉備が継いだというのだった。


これには、曹操が嘆息する。

「こちらは兗州を取り戻すのに、これだけ苦労しているというのに、劉備は血を流すことなく一州を手に入れるとは・・・」


いっその事、兗州を捨てて徐州をとりにいこうかと思ったが、その考えは荀彧に咎められる。

もっとも曹操も本気でそう考えていたわけではない。

たわむれだと言って、その場を受け流すのであった。



そして、話は劉備が州牧を引き受けるに至った経緯へと遡る。


曹操と呂布が兗州の覇権をかけて戦っている頃、徐州では老齢だった陶謙の容体が思わしくなくなり、寝台に伏せる日が続いていた。

そこで後継者問題が持ち上がる。


州牧、州刺史は、朝廷が任命する州の長官であり、世襲制というわけではけしてない。

本来、勝手に名乗れるものではないが、近頃は、権力のある群雄が自身の勢力を優位にするために、朝廷の許可なく自称することが増えていた。


もっともそれは実力が伴ってこそ、許される行為である。でなければ、待っているのは他の群雄に淘汰されるだけだった。


ここまで独自の勢力を築いてきた陶謙は、徐州を朝廷に返すのではなく、心ある者に譲ろうと考えていた。

その者こそが、劉備玄徳である。


これまで、何度か話してみたが、その度に固辞されている。

しかし、自分の命の灯が消えそうな今、最後の懇願を試みるのだった。


「劉備殿、ご覧の通り、私の老い先は短い。どうか、この老骨の願いを聞いてくれないか」

「しかし、陶謙殿には二人のご子息がいらっしゃる。そのご長男に継がせるのが筋でしょう」

「以前は、そのような考えもあったが・・・」


陶謙が気にしているのは曹操の存在だった。

今は兗州奪還で、それどころではないだろうが、いつかまた来襲するのではないかと危惧している。


息子が徐州を継いだことによって、自分の血が徐州に残れば、曹操の『恨み』も、そのまま残る懸念があった。

曹操が徐州を攻める口実も残るのだ。


「徐州の民を、また苦しめることはしたくないのだ」

涙ながら、陶謙は訴える。


劉備もその想いに報いてあげたい。徐州の民にもつらい思いはさせたくない。

しかし、劉備も曹操の問題を重く受け止めていた。


自分が州牧を引き受けたとして、この先、独力で曹操に抗しきれない場合、どこかに助けを求めることになる。


では、誰を頼る?

これまで劉備は、どちらかというと袁術と近い立場にいた。

それは、お世話になっている公孫瓚が袁術と同盟を結んでいるからだ。


だが、その袁術は孫堅が亡くなってからというもの、昔と比べて覇気がない。

曹操に対抗できるとは思えなかった。


となると、力関係からいって、袁紹を頼ることになるのだが、そうなるといつか公孫瓚と敵対する可能性が残る。

公孫瓚と袁紹は、華北の雄としての立場を競い合い、常に対立しているからだ。


情、義理、立地、軍事力、さまざまな要因が足枷となって、判断できないのだった。

「少し、考えさて下さい」


今までは、即座に断られていたが、その言を引き出させただけでも進歩なのかもしれない。

陶謙は、分かったと伝えて、劉備の背中を見送るのだった。



「思い悩んでいるようですね」

与えられた部屋にこもり考えている劉備の前に、孔融が現れた。

陶謙の容体が悪いと聞いて、お見舞いに来たのだという。


「これは孔融殿、ご無沙汰しております」

「州牧を受けるか受けないか。こんな贅沢な悩みは限られた英雄にしか経験できない。ゆっくりと考えて、しっかり味わった方がいいですよ」

陶謙に頼まれて、劉備に州牧につくように説得に来たのかと思ったが、意外な言葉だった。


「英雄ですか・・・本当に英雄ならば、すぐに断を下すのでしょうね」

「いや、それは自分のことしか考えない、梟雄きょうゆうのすること。真の英雄なれば、抱える重さに思い悩んで当然です」


孔融の言葉に、「そうでしょうか」と、言いながら劉備は乾いた笑いをする。

このままでは、圧し潰されるのではないかと心配した孔融は、ものの見方を一度、変えた方がいいと提案する。


「劉備殿は、民を護るものとお考えのようですが、果たして、本当にそれだけでしょうか?」

「と、言いますと?」

「いや、百聞は一見に如かずですね」


そう言うと、孔融は劉備を城壁まで連れ出す。

その下には郯県の城下町が見えた。

劉備が乗り出して眺めると、人々が往来し、少しずつだが活気が戻ってきているように見える。


すると、通行人の一人が劉備の姿に気づいたようだ。

城壁に向かって会釈をするのだった。

劉備も手を振って応える。


はじめは一人だったのが、次第に二人、三人と増えて、劉備を一目見ようとする民衆が後を絶たずに集まり始めた。

いつの間にか往来は人で溢れ、人の群れは、はるか先までひしめいていくのだった。


「劉備殿の姿を見たさに、これだけの人が集まるのです」

「ありがたい話ですね」


劉備は戸惑いながらも、民衆の声に応えて手を振る。

その挙動だけで歓声が上がった。

民衆からは、「劉備さま!」という声の他に、気の早い者からは「州牧さま!」という声も聞かれ、劉備は苦笑いをする。


そのまま耳を傾けていると、

「我らがお助けします。州牧になって下さい」

「何でもお申し付け下さい。お役に立ってみせます」

などという声が聞こえた。


空耳かと思い、もう一度、耳を澄ますが、やはり同様の声が聞こえる。

『俺が民を助けるのではなく、民が俺を助けてくれる?』

・・・そんなこと、今まで考えたこともなかった。


「民とは意外に強くしたたかなものですよ」

「そのようですね」

「つまり、あなたは必要以上に民を護らなければと気負うことはないのです」

確かに、そうなのかもしれないが・・・


「劉備さまは徐州の希望」

「今度は私たちが劉備さまをお守りします」

「大きくなったら、劉備さまの兵士になる」


黙って考えている内に、劉備を支える声がどんどん大きくなっていく。

声援の波は、熱気を加え大きな渦となり劉備を直撃した。

この徐州の民たちの声は、まるで劉備を天高く担ぎ上げる。そんな錯覚に陥るのだった。

いつの間にか、頬が上気し劉備の体温が上昇する。


「この民たちに応えるのは、手を振るだけですか?」

孔融に促され、劉備は決意した。


こんなにも民に必要とされる果報者は、他にいないだろう。

周りのことなんか関係ない。

劉備自身が、どうしたいのか?

その気持ちを素直に表現すればいい。

俺は・・・・


「みんな、俺はこの徐州を引き受ける。これからも、よろしく頼む」

劉備の声に、一瞬、静まり返るが、その後、大きな歓声が広がった。


民同士が抱き合う者、涙を流す者、手を叩いて騒ぐ者。

喜び方は、人それぞれだったが、徐州の民は間違いなく劉備を受け入れ、そして、劉備の一部となった。


「権力者には応えず、民衆の声には応える。面白い男ですね」

孔融が独り言をぼそっと呟いた。


「何ですか?」

民衆の大歓声で聞こえなかった劉備が聞き返す。

「いえ、あなたのことをよく分かっている部下たちをお持ちで、大切になさるといいですよ」


ああ、また憲和のやつが、こうなるように仕向けたのか・・いや。

今、孔融殿は部下たちって・・・

劉備が振り返ると、長兄の新たな門出に泣いて喜んでいる、関羽、張飛、簡雍がいた。


「お前らも、こっちに来い」

劉備は三人を呼び寄せると、劉備一家、全員で徐州の民衆に応えるのだった。

歓声は、いつまでも鳴りやまなかった。

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