第56話 天子奉戴
曹操が洛陽に向けて軍を起こした。
情報では、献帝陛下は楊奉のもとも離れ、警護すべき手勢も少ないらしい。
野盗の類と出会うだけで一巻の終わり。最悪の状況を回避すべく、曹操軍の進軍速度は、通常の倍で進んでいた。
そんな行軍を続けている曹操軍に早馬が届く。
曹操は、使者から書簡を受け取り、一瞥すると、
「惇、典韋、許褚を伴って、騎馬隊で先行しろ」
「はっ」
夏侯惇は命令通りに騎馬隊だけの編成をすぐ組み、更に馬に鞭打って洛陽を目指した。
曹操が受け取った書簡は荀彧からで、李傕、郭汜、張済軍が洛陽に侵攻しているとの情報が記載されていたのだ。
献帝陛下を狙う勢力は、旧董卓配下の長安組とそこから分裂し白波賊と手を組んだ元黄巾党組である。
元黄巾党組の楊奉たちがもっとも洛陽に近いが、それまで同行していた献帝陛下を取り逃がすという失態をおかしていることから、何か問題が起きていることが予想された。
やはり、警戒すべきは李傕、郭汜、張済の軍勢だ。
夏侯惇は騎馬隊として限界に近い速度で行軍し、長安軍より先に洛陽間近まで迫る。
そこで、ある一軍が行く手を遮った。
それは楊奉ほか、白波賊の連中だった。
洛陽には入らず、このようなところで待ち受けていることに、夏侯惇は不審に思ったが、邪魔をするというのであれば容赦する気はない。
「賊ども、我らはこれより洛陽に入る。邪魔をするというなら、踏みつぶしていくぞ」
「いえ、戦う意思はありません。どうか、我らをもう一度、献帝陛下にとりなしていただきたいと思い、お待ちしていたのです」
楊奉が代表して、夏侯惇に話しかけてきた。
事情を確認すると、献帝陛下の信用を失う行為をした白波賊だったが、心を入れ替えて再度、献帝陛下に会おうとしたところ、すでに
段煨という者は、そんなに強情者なのかと聞くと、楊奉は黙ってしまった。
聞くところによると、どうやら段煨とは折り合いが悪いだけらしい。
たまたま、夏侯惇配下に段煨のことをよく知る人物がおり、その者の話によれば、段煨は清廉にして、忠義にあつい人物とのことだった。
そのような人物と折り合いが悪いという楊奉の程度が知れる。
「駄目だ。お前らのような者たちと一緒にいては、我が殿の武名が廃る。下がれ」
夏侯惇に無下にされると、これまで我慢していた韓暹、李楽が怒り出した。
「下手に出てりゃ、調子に乗りやがって」
韓暹と李楽は白刃を抜いて、構える。
楊奉は、「よせ」と止めるが、聞く耳を持たない李楽が夏侯惇に飛びかかるのだった。
すると、横合いから大薙刀が飛び出し、李楽の胴を薙ぎ払う。
「お前たちからは、信用できない匂いがするぞぅ」
許褚の一撃で、背丈が半分になった李楽。それを見た韓暹はすぐに剣を捨て、降伏するのだった。
「今すぐ、我らの目の前から姿を消すなら、追うような真似はしない」
楊奉たちには、もう選択肢はない。
曹操軍、とりわけ夏侯惇の強さも十分に知っていたため、楊奉は韓暹を伴って素直に去っていくのだった。
何やら、袁術を頼るような声が聞こえたが、夏侯惇としては勝手にしろという感じだった。
それから、夏侯惇たちが行軍を続けると、ようやく洛陽に到着する。
洛陽は、以前、董卓に燃やされた直後に訪れていたが、その時から復興が進んでいる感じはない。
相変わらず瓦礫の山で、まともな建造物は一つもなかった。
こんなところに献帝陛下は、本当にいるのかと疑いたくなるほどだった。
洛陽の街中を進んでいくと、見るからに急造でこしらえたという簡素な建物が見える。
恐らく、そこに献帝陛下がいるのだろうと近づくと、建物を護衛する者たちが槍を構えて進路をふさいだ。
見るからに強そうな夏侯惇に対して、護衛の者たちが緊張している様子が手に取るように分かる。
こちらに敵意はないため、夏侯惇は下馬すると、兗州牧の曹操の使いであることを伝えた。
すると、将校らしき男が夏侯惇の前に現れる。
「夏侯惇将軍とお見受けする。私は段煨という者。よくぞ、参って下さいました」
段煨は慇懃な礼をしてくる。
なるほど、先ほどの楊奉とは雰囲気からしてまったく違う。信用のおけそうな男だった。
「段煨殿、献帝陛下の警護、ご苦労のほど、お察しする」
「いえ、私などは、こちらに着いたばかり。道中、ともにされた方々の方が大変だったでしょう。特に徐晃殿は、満身創痍のお姿でしたから・・・」
「徐晃殿?」
あまり聞いたことがない名前だったので、思わず聞き返した。
献帝陛下がいらっしゃるという間に案内される途中で、床に寝かされている人物がいるが、この者が徐晃であろうか?
「惇将軍、あの人、できるぞぅ」
許褚の目には、横たわる人物が強者に見えたようだ。多対一の闘いの後だろうか、全身に切傷の痕がある。
夏侯惇の存在に気づいた、徐晃は体を起こした。
「無理はなさるな」
「いえ・・・大丈夫です。私、
夏侯惇はしんがりと聞いて、納得した。献帝陛下を逃がすために、この男は盾となったのだろう。
全身の傷は、その時の勲章か。
「分かった。よければだが、我が殿にもご紹介いたそう」
「よろしくお願いいたします」
徐晃と別れると、段煨の案内で献帝陛下に謁見する。
「遠路、はるばるご苦労である。曹操将軍の忠心、心強く思う」
「ありがたきお言葉。我が主君の命により、命に替えても陛下をお守りいたします」
夏侯惇の拝礼に、典韋と許褚も倣う。
曹操軍が誇る三人の猛者の揃い踏みは壮観であり、献帝は頼もしく感じるのだった。
そこに、敵軍襲来の報が届く。
「陛下、それでは我らが撃退して参ります。ご安心してお待ち下さい」
「よろしく頼む」
段煨に献帝陛下の警護を引き続き頼み、夏侯惇、典韋、許褚の三人は急いで馬上の人となるのだった。
「奴らは所詮、落ち武者からの成り上がり。一気に蹴散らすぞ」
夏侯惇の号令とともに、曹操軍は長安軍と激突する。
苛烈なる夏侯惇の攻撃を受けて、たじろいでいるところ、長安軍は別の部隊からの強襲を受けた。
それは、曹洪が率いる第二陣である。
挟撃を受けた、長安軍は大打撃を受けて思わず退却するのだった。
夏侯惇と曹洪は深追いをせずに、献帝陛下の警備に徹すると、それを見ていた賈詡が渋い表情を見せる。
「さすがは曹操軍か。・・・軍の練度が違う。追ってきてくれれば、手はあったものの」
本隊の退却を餌に、伏兵をしかけようとしていた賈詡は、策を実行できずに残念がった。
賈詡は、献帝陛下の奪還を、今まで三人に任せていたが、どうにも埒が明かないため、今回から加わっていたのだ。
長安軍、本隊が安全な位置まで退却すると、合流して献帝を取り戻すための策を練る。
夏侯惇、曹洪、二隊の動きを見る限り、なかなか隙は作れそうにもない。
策がまとまらず、一夜明けると曹操到着の報せを受けた。
賈詡が曹操軍、十数万を目でとらえると、驚きの表情を見せる。
「あれほどの数の兵を、この短期間に洛陽まで連れてくるのか?」
曹操のその手腕に舌を巻いた。
そして、この現状では勝ち目がないことを悟る。
張済に、そのことを告げて退却を進言すると、李傕と郭汜が反発するのだった。
「敵は遠路からの強行軍。叩くのであれば今しかないだろう」
普通に考えればそうだが、昨日、戦った夏侯惇、曹洪の隊も同じ条件で、あれだけの動きを見せている。
その理論は通用しないだろうと推察した。
賈詡は張済軍だけで撤退するので、お二人はお好きなようにと告げる。
張済に主導権を握られている李傕と郭汜は、挽回のために何としても自分たちの手で献帝を取り戻したいのだ。
その張済がいなくなるのは、かえって好都合と、喜んで二人の軍だけで曹操に挑む。
しかし、賈詡の予見通り、曹操軍には疲れた様子など微塵も見せない。
許褚が、李傕の甥である
李傕と郭汜の両軍は、ほうほうの体で逃げ出す。
これで、献帝陛下を脅かす者どもが付近からいなくなり、曹操はゆっくりと謁見を行った。
「曹操将軍、久しいが、変わらぬ忠節、ありがたく思う」
「はっ。ありがたきお言葉でございます」
曹操は、献帝陛下の言葉に謝意を述べると、大きく左右を見回す。
「恐れながら、申し上げますが、この洛陽では陛下をお守り続けるのは困難でございます」
洛陽の復興は、まったく進んでおらず、その点については献帝も理解していた。
しかし、この地への思い入れは強い。
「それは、分かっているが、何とかならないものだろうか?」
「なりませぬ。豫州潁川郡の
献帝陛下の意見を頑として断ると、有無を言わさぬかのように曹操は立ち上がる。
長安から洛陽までの移動で、精神的にも肉体的にも疲れていた。
曹操に守られて一度、安堵してしまった献帝にとって、その寄る辺を失う勇気はない。
強く出られると、「承知した」と、了承するしかなかった。
その回答を引き出した瞬間、漢王朝の新たな都、
曹操は、この遷都によって、天子奉戴を揺るぎないものにするのだった。
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