第111話 君臣 水魚の交わり

劉備が諸葛亮を新野に迎え入れるのとほぼ同じ時期に、許都では大きな政治の変革が起きる。

これまで、漢王朝では、主に内政を担当する司徒、城郭建設や治水などを担当する司空、軍務を担当する太尉と、いわゆる三公が配置されていた。


しかし、曹操は、その三公を廃止し、全てを統括する上位職として丞相じょうしょうを設置すると決める。

そして、その丞相職に就くのは、当然、曹操孟徳だった。

これで、権力の全てが曹操に集中することになる。


曹操が丞相府を開くと、新たな人事に着手した。

丞相職を補助するため、西曹掾せいそうえん崔琰さいえん東曹掾とうそうえん毛玠もうかいを任命した。


そして、更にその下の役職、文学掾ぶんがくえん司馬懿仲達しばいちゅうたつを抜擢する。

実は、この司馬懿、曹操から任官を受けるのはこれが二度目だった。


最初の任官は、曹操が当時、司空だったころの話。

父の司馬防しばぼうには八人の息子がおり、八人とも優秀だという評判が立つ。

司馬懿はその次男で、八歳上には若き頃より名声を得ている司馬朗しばろうという兄がいた。


この司馬朗、後に兗州刺史まで昇り詰める逸材だったが、その兄をもってしても、弟の司馬懿には及ばないと評される。

その噂を許都で聞きつけた曹操は、司馬懿を招聘するのだった。


ところが、司馬懿は漢王朝が衰退しているとはいえ、忠節を曲げて曹操に協力するのをよしとせず、病気を理由に断るのである。

この時、曹操は司馬懿の仮病を疑い、夜中にこっそり、人をやって様子を探らせるが、司馬懿の演技は完璧で、寝台に横たわり身動き一つしなかった。


そこまでするのであれば致し方ないと、苦笑いを交え当時は諦めた曹操も、今回ばかりは渋るようであれば、屋敷に火をつけろとまで指示をする。

その脅迫に、司馬家には迷惑をかけられないと観念した司馬懿、曹操の招聘に応じることにした。


後年、諸葛亮としのぎを削り合うことになる司馬懿は、こうして自身の意図に反して、曹操に仕官することになるのだった



一方、劉備に説得され、最終的には自ら望んで仕えることになった諸葛亮だが、新野城において、不穏な空気の中にさらされていた。

三顧の礼は、劉備の徳を示す美談として、申し分ないが、悪い影響もある。


諸葛亮の実力が、いまだ未知数なことにより、過分な待遇だったのでないかはという疑問がついてまわるのだ。

疑問で終わっていれば、まだ、いいのだが不満として爆発するのは、どう考えてもまずい。


その点を簡雍は、当初から、危惧しており、そうならないように配慮していたのだが、努力虚しく、最悪の事態にまで発展してしまう。

それは劉備の義弟である、関羽と張飛が劉備の諸葛亮への対応に不平を述べるようになったのだ。


張飛であれば、もしやあり得ると考えていたが、関羽までとなると事態は、一気に重要性を増す。

二人は言わずもがな、劉備軍の中心人物であり、この不協和音はどんな悪影響を及ぼすか想像するのも恐ろしかった。

おそらく、劉備軍の力は半分以下となるだろう。


このまま手をこまねいていては、劉備一家が空中分解する可能性も十分にあり、簡雍は、改善する手立てに頭をひねる。

丁度、劉備と諸葛亮が並んで歩いている場面に出くわした簡雍は、二人を呼び止めた。


「大将、もう聞いていると思いますが、雲長さんと益徳さんが・・・」

「ああ、聞いている。雲長や益徳との絆や信頼が変わるわけがないんだが」


そう言いながらも、今も諸葛亮とともに過ごしている。そういうところに不満の種はあると思うのだが、その点については、劉備も考えを改める気はないようだった。


「私が魚だとすれば、孔明は水にような存在。生きていくためにどうしても必要なんだ」

「大将が、そこまで言うのでしたら、私からは、もう・・・」

諸葛亮の重要性を劉備は説くが、この説明で関羽と張飛が納得するだろうか?簡雍には不安が残る。


「簡雍殿、ご苦労おかけして申し訳ございません。ご主君からは、過分なお言葉をいただきましたが、その水も濁っていては、魚は生きられません。簡雍殿には、どうかこの孔明が清い水たらんがためのご指導をいただければと考えます」

「それは、もちろん手助けはさせていただきますよ。ただ・・・」


今抱えている問題は、そこではない。劉備一家に入り込んだ、諸葛亮という異物。

その異物に対する拒否反応をどうにかしなければならないのだ。


「問題は、私の力ですよね」

「そう、一番、分かり易いのが諸葛亮殿の価値を示すことです」


当人を前にして言いづらいことだったが、諸葛亮も十分に理解しているのであれば、話が早い。

簡雍は、当初から劉備と同じく、諸葛亮の実力を疑ってはいないが、結果がないと説明が難しいのだ。


「その機会は、間もなく訪れますよ」

「どういうことでしょうか?」

「おそらく、曹操軍が攻めてきます」

諸葛亮の発言に、簡雍はおろか劉備も驚く。簡雍と同じく初耳なのだろう。


「私が軍師についた話は、もう伝わっていると思います。元直殿に痛い目にあわされた曹軍は、必ず、私の力を確かめようとするはずですから」

「言われてみれば、確かに・・・それは、いつ頃になると予測していますか?」

「曹操が丞相について、そろそろ政権も落ち着く頃。近々とみていいでしょう」


諸葛亮に説明は、理由付けがしっかりしており、説得力があった。

おそらく、その予測は外れないと思われる。


前回、三万の兵で返り討ちにあった曹操軍、今度はそれ以上の兵力で進軍してくると考えられた。

諸葛亮の初戦としては、厳しい展開になるのではないかと、簡雍は心配する。


「戦の準備はほぼ終わっています。戦略通りいけば、撃退することも可能ですが・・・」

既に戦に備えているあたり用意周到と称賛に値するが、表情が冴えず、最後、歯切れが悪いことが気になった。

「何か問題でもあるのですか?」

「先ほど、戦略通りいけばと申しましたが、いかない可能性もあるのです」


戦場では、不測の事態は起こるもの。予想通りにいかないことも多いはず。

それをいちいち、懸念していては戦などできないと思われるが・・・

新軍師が、そんな心配をするとは、少し買いかぶっていたのかという思いが、簡雍の頭によぎる。


「戦は相手あってのことです。予想外のことを今から心配しても仕方がないのでは?」

「ああ、いえ。敵の出方は、私の予測の中を越えることは絶対にありません。心配なのは味方のことです」

ここで、諸葛亮の言わんとすることが簡雍にも分かった。それは、確かに前から懸念していた事項でもあった。


「皆が私の指示に、特に関羽殿と張飛殿が従ってくれない可能性があります。そうなると全ての計算が狂ってしまうのです」

軍師としては、味方が指示通りに動く前提で作戦を立てるのだろうが、そこに不安要素があれば、確かに表情も冴えなくなるだろう。


「ああ、それならば、こういう手法を使えばいいと思います」

簡雍は、そんな諸葛亮を安心させる。

以前から危惧していた問題なのだ。簡雍は既に対策を考え付いている。

その方法を披露すると、諸葛亮が声を上げて笑った。


「なるほど、さすがです。それであれば、確かに関羽殿も張飛殿も指示通り動いていただけるでしょう。使わせていただきます」

「単なる小知恵です。・・・私がお手伝いできるのは、ここまで。後は、お頼みします」

「それは、任せて下さい。曹軍、十万など一蹴してごらんに入れます」


諸葛亮の言い方からは、安請け合いをしているようでもなく、本当に確信がある様子が窺える。

さらっと言ったが敵兵力が十万というのも初耳だ。

来襲予測から兵力の見積もりまで、揺るがぬ自信があるのだろうか、落ち着き払った様子に、戦が未経験とはまったく思えなかった。


伏竜とは、竜が伏せているだけ。

起き上がれば、天に昇り、その竜の力をいかんなく発揮するということか。

本当に、この男を軍師として迎えることができて良かったと簡雍は思う。


「なぁ、盛り上がっているところ悪いが、本当に曹操は攻めてくるのか?」

「来ますよ」

簡雍と諸葛亮が、同時に応える。


劉備は、今までの話、ちゃんと聞いていましたか?と簡雍にたしなめられた。

無論、聞いていたし、諸葛亮の力を疑っているわけではないが、未来予測まで正確にできるとなれば、劉備が想像する以上の能力を、この軍師は有していることになる。


「我が主君、曹操軍に来ていただかないと、私の実力を示すことができません」

「そりゃ、そうだが。・・・だから、攻めてくるって?」

「その通りでございます」


簡雍との対話でも気づいたが、諸葛亮は、相当な自信家のようだった。

あの曹操軍を、まるで噛ませ犬のように話す。

まぁ、それくらいの人物じゃないと三顧の礼で向かえた甲斐がないというものか。

劉備は勝手に納得する。


「それじゃ、派手に出迎えてやろうぜ」

「ええ、本当に派手になると思います」

諸葛亮は羽扇で口元を隠しながら、不敵に笑うのだった。

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