第112話 博望坡の戦い
曹操が新たな人事を終えた頃、荊州新野でも新たに諸葛亮という軍師が劉備についたという報告を受けた。
天下にある多くの賢者を招き入れる曹操であっても、この諸葛亮孔明なる男の名前は聞いたことがない。
曹操は、早速、徐福を呼んで、劉備の新軍師について尋ねた。
「諸葛亮孔明は、私が知る限り、至高の大賢人。彼の前では天才という言葉すら、かすんでしまいます」
「我が軍の曹仁を手玉にとった君が、そこまで言うのか。では、徐福、君と比べた場合、諸葛亮をどう評する?」
「私では、比較対象となりません。・・・そうですね、強いて例えるならば、私が蛍とすれば孔明は満月です」
徐福の答えに、曹操は言葉を失う。荀彧からも、諸葛亮は不世出の奇才であり、迂闊に手を出すべきではないとの讒言があった。
荀彧は自分の出身である豫州潁川郡の人脈を使って、徐福の友人でもある石広元と接触し、事前に諸葛亮について、調査していたのである。
「丞相のお考え一つですが、私は孔明と対峙するのはお勧めいたしません」
曹操のために策は労しないが、友人の評価に嘘はつけない。
徐福は、思ったありのままの献策を行った。
徐福、荀彧の二人から諫められては、曹操も二の足を踏んでしまう。
荊州征伐の計画を根本から、考え直す必要性があるかもしれないと、迷いが生じるのだった。
そこに、笑いながら空気を一掃した男がいる。
それは片目の鬼将軍、夏侯惇元譲だった。
「まだ、一度も戦場に立ったことがない書生に対して、過大な評価だ。不世出の奇才など、そう簡単に現れないから、不世出なのだろ?こちらで勝手に敵を大きく見てどうするというのだ」
夏侯惇の言葉は、いかにもと言っていいほど、豪気に満ちたものである。
曹操は、その意気を買うことにした。
「分かった。それでは、惇将軍に十万を預ける。副将には、于禁と李典を連れていくといい」
「しかと、承りました」
こうして、夏侯惇率いる十万の軍勢は、許都を立ち、新野へと向かうのだった。
諸葛亮の読み通り、曹操軍十万が攻め寄せて来た。
夏侯惇が南陽郡に入ると、瞬く間に
これに対して劉備は、一万の軍を編成して立ち向かおうとした。
その指揮を執るのは、当然、諸葛亮である。
「作戦の概略を簡単に説明します。曹操軍十万を
博望坡とは、山間にある細い山道のことで、どんな大軍も兵の厚みを細くしなければ通れないほど険しい道だった。
その難所に敵を引き込むというのである。
諸葛亮のその説明を聞いた張飛が鼻で笑った。そんな作戦が、簡単に成功するわけがないというのである。
張飛ほどではないにせよ、他の諸将も同様に考えている雰囲気が会場にはあった。
そこで、諸葛亮はある物を取り出す。
それは劉備の剣と新野城主の印だった。
これは簡雍の入れ知恵で用意した物。
この二つがある限り、諸葛亮の発言は劉備が言ったことと同等なる。
劉備の臣下である以上、逆らうことができないのだ。
会場が緊張感に包まれるのを感じると、諸葛亮は改めて、今回の作戦の詳細を話す。
「まず、趙雲将軍は千名を率いて、正面から当たり、頃合いを見て退却してください。夏侯惇は、寡兵と侮り必ず貴方を追ってきます。まずは、この博望坡に引き込むことだけを考えて下さい」
「承知しました」
趙雲は軍礼をとり頷く。次に諸葛亮が指名したのは、
この青年たち、実は董卓が廃墟とした洛陽で、劉備の師である盧植が助けた子供の成長した姿である。
二人は、劉備と関羽、それぞれの養子として立派に成人した。今回が二人の初陣となるのだった。
その劉封と関平の役目は、山道の両側から夏侯惇を火攻めにするというもの。
それぞれ五百名ずつが配備される。
そして、関羽と張飛には千五百名が与えられた。
「関羽将軍は、曹操軍の中軍に攻撃を加えて下さい。特に輜重隊は必ず燃やすようお願いします。そして、張飛将軍は、火の手が上がったのを確認した後、後方から攻め込んで下さい」
この指示に張飛が反抗しようとするのだが、関羽がなだめる。
諸葛亮が持つ剣と印の前で逆らえば、劉備との絆も壊れてしまう。
「今回だけは、大人しく従うしかない。ただ、もし失敗するようなことがあれば、必ず責任をとっていだたこう」
「関兄が、そこまで言うのなら分かったよ」
関羽と張飛も承諾し、作戦会議は無事終了する。
事の成り行きを見守っていた劉備は、ほっとするのだった。
「大将、気持ちは分かりますが、まだ、戦は始まっていませんよ」
「分かっているが、今回ばかりはしびれたぜ」
劉備の剣と印で、諸将の不平を黙らせる。
この強引な手法だったが、何とかうまくいったようだ。
後は作戦がはまり、曹操軍を撃退するのを祈るだけである。
「祈る必要はありませんよ。我が君には祝杯の準備をしていただければと思っております」
諸葛亮にとっては、作戦遂行のめどがたった時点で勝利を確信しているのだろう。
実に頼もしいが、正直、劉備にも半信半疑の部分があった。
「では、私が用意しておきますよ」
「頼む」
どうやら、簡雍は信じ切っている様子。
雑事は簡雍に任せて、劉備は諸葛亮とともに帷幕の中に入り、勝利の報告を待つことにするのだった。
十万の軍勢を率いる夏侯惇は、配下の
その他、李典を中軍、于禁を後軍に配置し、輜重隊は李典に任せた。
博望県に差し掛かる頃、夏侯惇と対峙した劉備軍の将は、趙雲だった。たが、兵の数は見たところ千程度。
この貧弱な布陣に、夏侯惇は大笑いする。
「不世出の奇才が聞いて呆れる。あの程度の布陣で、この夏侯惇さまを止められると思っているのか」
軽く一蹴するとばかりに、夏侯惇は突撃の指令を下した。
趙雲は、夏侯惇の苛烈な攻撃に善戦しつつも、最終的には対抗しきれず退却する。
夏侯惇は、追いかけるのだが、趙雲の見事な引き際で、影も踏ませない。
何とか捕まえようと躍起になる夏侯惇を夏侯蘭は諫めるのだった。
「趙雲ほどの男が、ここまで逃げに徹するわけがありません。何か罠があるのではないでしょうか?」
夏侯蘭は、趙雲と同じ常山出身。趙雲の強さを嫌というほど、知っていた。
しかし、夏侯惇は、例え伏兵があったとしても、十万も兵がいれば返り討ちにできると、高を括るのである。
いつしか夏侯惇は、博望坡まで引き込まれるのだった。
細長く伸びきった夏侯惇軍に、頃合いを見計らい劉封と関平が油を染み込ませた大玉を転がして火矢を射かける。
この火攻めによる炎の壁で、前軍と中軍が分断された。
ここで李典が、夏侯惇を救いに行くべきか、後軍の于禁と合流すべきか判断に迷う。
その隙をついて、李典は関羽に攻めたてられた。
任された輜重隊が次々に焼かれ、行軍を続けるための兵糧の大半を失ってしまう。
仕方なく于禁の援軍を待つが、その後軍もなかなか姿を現さない。
それもそのはず。于禁は于禁で張飛の強襲と火攻めとで、兵の半数以上を失っていたのだ。
ここにきて、夏侯惇は自身の失態に気づくが、後の祭り。
引き返してきた趙雲軍にも、散々な目に合わされた。
配下の夏侯蘭が
趙雲が投降を呼びかけると、夏侯蘭は、やむなく応じるのだった。同郷者を殺すことに躊躇いがあった趙雲の想いが通じたようである。
その他、李典や于禁も何とか博望坡から離脱するが、当初、十万人いた兵が三万人を下回るまで減る結果となった。
もはや諸葛亮を侮る者は、曹操軍にはいない。
それは味方である劉備軍となれば、尚更だった。
徐庶は、三万の兵を撃退したが、諸葛亮は、その三倍以上の十万の兵を損害少なく撃退に成功したことになる。
関羽や張飛も、その実力を認めるしかなかった。
元々、陰湿とは程遠く豪快で裏表のない性格の二人である。
一度、素直に認めてしまえば、諸葛亮に対する害意は嘘のように消えた。
そして、劉備が諸葛亮を特別扱いしていると思い込んでいたが、実は、関羽と張飛、自ら劉備と距離を取っていたことに気づく。
邪心を捨てて、まっさらな目で見れば、やはり劉備は劉備。
彼らの長兄であり、桃園結義での絆は永久不変のものなのだ。
劉備一家の輪が復活したことに劉備と簡雍は喜ぶ。
「本当に、一時はどうなるかと思いましたよ」
「恥ずかしながら、不徳の致すところだ」
「まったくだな」
談笑する中に劉備が飛び込んだ。
「お前たち、本当に小僧じゃないんだから、いい加減にしろよ」
面目ないという言葉と笑いが入り混じる。
そこに剣と印を返しに諸葛亮がやって来た。
関羽と張飛は、年下の軍師に拝礼をする。
「両将軍が、指示通り動いてくれたおかげで曹操軍を撃退できました。今宵の勝利は、私の知だけでは達成できず、将軍たちの武だけでも達成できません。両方の力が合わさったことによる勝利です」
「そう言っていただけるとは、ありがたい。これからは、軍師殿の命令であれば、謹んで従うと誓う」
「おう、火の中に飛び込めと言われれば、喜んで飛び込むぜ」
諸葛亮が関羽と張飛の手をとり、感謝するのだった。
但し、「火の中も大丈夫ですか、それは楽しみです」と、最後に張飛をからかう。
いや、言葉のあやだと訂正するところが、どうにも締まらないが、笑いを誘うには十分だった。
曹仁、夏侯惇と続けて破った以上、次は曹操自ら攻めてくるという予測はたったが、今夜だけは、皆、勝利の余韻に浸るのだった。
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