第154話 四郡制圧
黄忠との再戦のため、関羽は臨湘城の前で待っていると、やって来たのは、別の将だった。
『魏』という旗を掲げ、手には薙刀を持っている。
「老将軍は、お休みだ。代わりに俺が相手になる」
「構わないが、貴公の名前は?」
「魏延」
短く答え、すぐ関羽に斬りかかって来た。自分から挑んでくるだけあって、その斬撃は鋭い。
しかし、関羽に傷を負わせるほどではなかった。
難なく受け止めると、より鋭い一撃を関羽は魏延に食らわす。
受けた魏延は、思わず目を白黒させた。
これが音に聞こえる武神・関羽の実力か。
魏延は、思わず唸り声を上げるが、これで終わるわけにはいかない。
ようやく手に入れた出番だ。
何としても関羽に一泡吹かせてみせる。
魏延は気合込めた一撃を繰り返す。五分とはいかないまでも、闘いと呼べるだけの形にはなってきた。
「少しはましになったが、まだ、黄忠殿の武技の洗練さには劣る」
「そんなもの、百も承知よ」
魏延は遮二無二、薙刀を振り回す。
技は未熟だが、刃に込める気迫が関羽に本気を出させるまでに至るのだった。
魏延の頑張りが、功を奏するのである。二人の闘いは、伯仲したものへと変わっていった。
その様子を城から見ていた劉巴は、今こそ、好機と黄忠の動きを見守る。
実は黄忠は、既に戦地に身を置いていた。朝早くに出発し、百歩ほど離れた丘に隠れて待機していたのである。
劉巴、同様に二人の一騎打ちを観察していたが、関羽の集中が魏延に向けられているのが、遠くからでも見てとれる。
黄忠が弓を引き絞ると、そのまま、一射。
陽の光に反射しながら突き進む矢は、風を切り、関羽ののど元を捉える。遠目ながら、『殺った』と劉巴は、一瞬、喜ぶが、矢は関羽をすれすれで通り過ぎて地に刺さった。
黄忠、会心の矢は関羽の見事な長髯をかすめて終わるのである。
「外したか」
魏延と劉巴、同じ感想を漏らした。黄忠が続けて、二射ほど矢を放つが、所在がばれた狙撃は関羽に通用しない。
全て、冷艶鋸で払い落とされた。
こうなれば、作戦は失敗である。これ以上無理をすれば、自身が危うい。
魏延は、尻尾を巻いて臨湘城へと逃げ出すのだった。
黄忠も同時に退却すると、戦場に敵は誰もいなくなる。
「これで終わりとは、何だったのだ?」
一人、残っても仕方がなく、関羽は自陣へと戻るのだった。
城に戻ると黄忠を待っていたのは、怒りに震える韓玄だった。
「黄忠、お前が矢を外すところなど見たことがない。わざとではないのか?」
「そのように言われるのは心外です。私は関羽の命を狙いました」
黄忠がいわれのない濡れ衣だと主張するが、韓玄は聞く耳を持たなかった。
このところ臨湘城では、劉巴の影響力が増している。その状況に苛立ちを感じている韓玄は、強硬な態度を崩さなかった。
「黙れ。貴様は独房にでも入っていろ」
衛士に命じて、黄忠を城の牢屋へとぶち込むのである。
これに気色ばんだのは、劉巴と魏延だった。
黄忠は貴重な戦力であり、今、失うわけにはいかない。
牢に入れるのも、打首にするのも、勝手だが、全ては関羽を撃退してからにしてくれ。
劉巴としては、そう叫びたくなった。
ただ、黄忠は韓玄の部下であり、その処置にまで口出すことができない。
劉巴の役目は、荊州南部の防衛なのだが、手持ちの駒までは選べないのだ。
一方、魏延の方は劉巴ほど理知的には判断できない。
憤怒の表情を浮かべて、韓玄に迫った。
「今、黄忠殿を失って、関羽に勝てると思っているのか?」
「貴様、誰にものを言っている」
これは魏延の方が悪い。劉巴という後ろ盾を得て、自分が偉くなったと勘違いしているようだ。
劉巴も魏延のやり過ぎに顔をしかめる。これで魏延まで失えば、勝算は考えたくなくなるほど低くなるのだ。
しかし、魏延を失うという心配は杞憂に終わる。何故なら、もっと最悪の方向に話は転がっていくからだ。
何と魏延は、怒りのまま韓玄を斬り伏せてしまう。
城内に悲鳴がこだました。
返り血を浴びた魏延が劉巴を顧みる。
「これで、邪魔者はいなくなった。作戦を伝えろ」
この様子に劉巴は絶句した。こんな状況で、団結して戦えるわけがない。
やっと、絞り出した言葉が、魏延を蔑む言葉だった。
「・・・この、狂人め」
自分の過ちに気づかない魏延は、劉巴の態度が不思議でならない。
勝つためにとった行動なのだ。ここは、俺を賞賛すべきだろう・・・
周囲の自分を見る目に耐えられなくなった魏延は、大きな声で叫びながら暴れまわるのだった。
これでは、もう戦にならない。
劉巴は、とっとと臨湘城を後にした。
ただ、これではおめおめと曹操の元にも戻れない。
劉巴は仕方なく進路を南にとり、交州を目指すのだった。
魏延の錯乱により、城内の者が一斉に逃げ出す。
突然、城門が開いたので、敵の作戦だろうかと関羽は訝しんだ。
「ありゃ、城の中で何かあったな。落とすなら、今だ」
いつの間にか関羽の横に龐統が立っており、立場を無視して軍を動かすような意見をする。
関平と周倉が慌てて、龐統のことを説明しようとするが、関羽は気にしていないようだった。
「まったくその通り。行くぞ」
号令とともに突入し、臨湘城を制圧する。
臨湘城に『劉』の旗と『関』の旗が立ち並ぶのだった。
城を制した二日後、報せを受けた劉備と諸葛亮がやって来る。
関羽は勝利報告とともに捕らえた武将を紹介した。
劉備の目の前には、黄忠が膝をついている。
「長兄、黄忠殿の偃月刀の冴え、弓の腕前は一流です。矢が外れなければ私も命を落とすところでした。ぜひ配下に加えることを薦めます」
「うちの雲長は、ああ言っているが、どうだい俺に仕えてみる気はあるかい?」
劉備は膝を折り、黄忠と同じ高さに目を合わせると、真っすぐに視線をぶつけた。
見た目は白髪白髭だが、いつまでも壮年のような力強さが、その目に宿っている。
黄忠は、澄んだ瞳で劉備を見つめ返すと、力強く頷くのだった。
「私の残りの余生、劉備さまに捧げます」
「その言葉を待っていた。ありがとう」
関羽が黄忠の縄目を解き、手を差し伸べて立たせる。
「本日より、仲間です。よろしくお願いいたす」
「こちらこそ。年はいっているが、まだまだ若い者には負けない」
「ええ、存じ上げております」
関羽と黄忠は固い握手を交わした。
すると、一点だけ、先ほどの関羽の発言を訂正する。
「私は関羽殿の命を外してはおらんよ」
「はて、私は生きておりますが?」
「いや、貴方の命に等しい、その美髯を狙ったのよ」
その言葉に関羽は大きく目を見開いた。長髯を扱きながら、記憶を辿ると、確かに黄忠の矢は髯をかすめている。
「これは、参りましたな」
「馬の脚が挫いたとき、私も命を助けられている。お相子だ」
「なるほど」
関羽は納得すると、二人は笑いながら陣中、奥に消えた。
戦場で命の削り合いをした相手だ。打ち解ければ、積もる話は尽きないのかもしれない。
黄忠の処遇は確定したが、問題は次だった。
未だ放心状態に近い魏延が、劉備の前に引っ立てられる。
「我が君、前もって話しておきますが、私はこの者を即刻、打首にすることを提言いたします」
諸葛亮が言うことは、もっともな事だった。
感情に任せて主君に手をかける人物など、配下にすれば、枕を高くして眠ることもできなくなる。
聡明な主君であれば、間違いなく諸葛亮の言に従うはず。
しかし、劉備には別に思うところがあった。
「なぁ、自分のしたことを正しく理解しているかい?」
「・・・分かっております。あの時は、あれが正しいことだとばかり、思っていましたが・・・」
劉備は魏延の前に、どかりと腰を下ろす。
ジッと見つめると、ある人物のことを思い浮かべるのだった。
『こいつは、呂布と同じだ。持て余す力の発揮場所を探しているうちに、悪い方に流されちまった。・・・だが、こいつは、まだ間に合うかもしれない』
劉備は立ち上がると、魏延の縄を自ら解く。
「俺がお前に居場所を与えてやる。そこで、迷うことなく忠実に力を振るうことができるか?」
「私が戦地で刃を振るってもいいのでしょうか?」
「ああ、構わない。使ってこその力だろう」
魏延は涙を浮かべると、額を強く地に打ちつけた。
額から流れる血と涙で、魏延の顔はぐちゃぐちゃになる。
「この魏延、生涯、劉備さまに忠誠を誓います」
あまりにもひどい魏延のありさまに劉備は苦笑いを浮かべるが、
「頼りにするぜ」と、一言、述べると、魏延の肩に手を置くのだった。
魏延の涙は止まらない。
「士元、我が君をどうみます?」
「孔明ちゃん。・・・やっぱり、気づいていたか」
臨湘城の城郭に二人の賢者が並んで立つ。
水鏡の元で、伏竜、鳳雛と称され研鑽し合った仲だが、面と向かって会うのは久しぶりのことだった。
「名君・・・というよりは、気前のいい親分ってところかねぇ」
諸葛亮の先ほどの問いの答えである。確かに諸葛亮の目からも、劉備は餓鬼大将がそのまま大きくなったという風に見えることがあった。
龐統の答えに思わず、笑ってしまう。
ただ、劉備がそれだけの男ではないことは、龐統も気付いている。
「魏延って奴の反骨の相は、俺にも見えた。しかし、劉備玄徳と話している内に、その相が消えた。・・・そんなことってあるのかい?」
「私も不思議でした。しかし、我が君であればと、納得できる部分はあります」
「ふーん。噂の大徳ってやつか」
龐統の言い方から、劉備に好印象を抱いていることが分かった。次の展開を先読みして、諸葛亮は相好を崩す。
「興味が湧いたということですね?」
「ああ。飽きるまででいいなら、孔明ちゃんと一緒について行くことにするよ」
「非常に助かります」
劉備は、長沙を陥落させたことにより、荊州南部の四郡、全てを手に入れることができた。
それと同時に、黄忠、魏延、龐統というかけがえのない人材も味方にすることができたのである。
確かな基盤が、この荊州に出来つつあるのだった。
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