第153話 黄忠の悩み
武陵郡から急ぎ馬を走らせた劉巴は、長沙がまだ落ちていないことに安堵した。
臨湘城にて、太守韓玄と面会し、対劉備の協議を行うのだが、話し合いは初めから難航する。
まず、韓玄が劉巴のことをなかなか信用しないのだ。
曹操からの割符を見せるも、今度は三郡の防衛を任されておきながら、すでに二郡が落ちていることに、その手腕を疑われる。
その件については、劉巴も返す言葉がなかった。
対話の主導権は、韓玄に握られてしまう。
「聞けば、関羽の手勢はわずか五百というではないか。その程度、黄忠将軍が出るまでもない」
「いや、相手の兵が少ないからこそ、様子見などせず、一気に殲滅した方がいい」
しかし、韓玄は劉巴の言葉を取り合わない。
その様子に劉巴は憮然とする。このまま韓玄に任せていれば、長沙も桂陽や武陵の二の舞だ。
「おい、あんた。韓玄が疎ましいんだろ?俺と手を組まないか?」
声の主を見ると二十代半ばの男であるが、佇まいからただ者ではないことは分かった。
「名も知らぬ相手と組めと言われて、頷く者がいると思うか?」
「俺の名は
魏延と名乗る男。見るからに暴れ馬だが、確かに扱いようによっては、面白い存在となるかもしれない。
話を聞くと韓玄に疎まれており、大きな役割を与えられたことがないという。
腕っぷしに自信があるだけに、相当、不満を溜め込んでいるようだった。
「楊齢とかいう男はすぐに敗れるはずだ。出番を必ずつくる上、待っていろ」
「よし、分かった」
お互いに、どこまで信を置いているのかは、定かではないが、ひとまず劉巴と魏延は手を組むことにする。
まずは、先陣の失策を追求し、韓玄から兵権を奪ってみせると、劉巴は、そう意気込むのだった。
関羽が布陣すると、臨湘城からも敵が出陣して来た。
見たところ、相手が黄忠ではないことがすぐに分かる。
ならば、軽く一蹴するまで。
関羽は冷艶鋸を強く握りしめ、敵将に相対する。
その様子を少し離れた丘の上で龐統が観察していた。
劉巴が臨湘城に入ったと聞いていたため、お手並み拝見といったところだったのが、予想に反する布陣に肩透かしを食らう。
『こりゃ、韓玄の差配か?敵さん、あまり上手くいってないな。とすると、このまま力を出させないのが最良なのかな』
龐統は、そう言うとそのまま、丘から姿を消すのだった。
臨湘城への潜入を試みようというのである。
一方、戦場では、関羽と楊齢が対峙していた。
「黄忠という男がいるらしいが、すぐにこの場に読んだ方が御身のためではないか?」
「少しばかり名を挙げて調子に乗るな。お前など黄忠将軍の足元に及ばんわ」
「その前に、貴公が私の足元に及ばんぞ」
関羽が冷艶鋸を振り下ろすと言葉通り、相手にならず、一刀のもと斬り伏せる。
楊齢は足元に及ばないというより、足元に転がるのだった。
指揮する将を失うと千の兵は浮足立ち、関羽の五百の兵に押し返される。
ずるずると後退し、臨湘城にまで、追い立てられるのだった。
すると、突如、臨湘城の城門が開く。
『黄』の旗とともに白髪白髭の男が偃月刀を持って、参上する。
関羽は、この男が黄忠で間違いないと見定めた。
「貴公が黄忠殿だな」
「そうだが、しばし待て」
黄忠は関羽の前を素通りすると、物言わなくなった楊齢の遺体の前で手を合わせる。
戦場で仲間の死を悼むとは、なかなか粋な男だと関羽は思った。
黄忠の気が済むまで関羽は待つことにする。
深いしわが更に深くなったところで、黄忠が刮目した。
どうやら、仲間との別れを済ませたらしい。
改めて関羽は、黄忠に正対した。
「私の名は関羽雲長。尋常に勝負」
「承知。いざ」
関羽と黄忠は、ほぼ同時に得物を振り上げると空中で火花が散る。
冷艶鋸の一撃を黄忠が受け止めたのだ。
手に伝わる衝撃で、関羽は相手の力量が相当強いことを悟る。
それにしても関羽の本気の一打を受けきられたのは、いつ以来だろうか。
あの華北の猛者、顔良ですら関羽の前では、刃を合わすことができずに、たった一撃で勝負がついた。
激しく打ち合うのは、恐らく、呂布や張遼と闘った時代にまで遡らなければならないはずである。
関羽は久しぶりに現れた雄敵に、戦闘を楽しんだ。
二十合、三十合と撃ち合っても勝負がつかない。
この戦いは永遠に続くのではと思われた時、突如として黄忠が態勢を崩した。
運悪く、黄忠が騎乗していた馬の脚が、地面の溝に引っ掛かったのである。
それでも超人的な反射神経で、冷艶鋸に空を切らせるのだが、二撃目はどう考えても防ぎようがなかった。
黄忠は覚悟を決めて目を閉じる。しかし、いつまで経っても必殺の一撃はやって来なかった。
「どうした?なぜ、斬らない?」
目を開けた黄忠が目撃したのは、距離を取って冷艶鋸の刃先を地面に向けている関羽の姿である。
当然のように、先ほどの質問を口にしたのだ。
「お互いの技量の差でついた決着以外は、受け入れることができない。早く、馬を替えられよ」
黄忠が乗っていた馬は、先ほどの溝のせいで足をくじいてしまった様子。
この馬では、引き続きの戦闘は難しいようだ。
「承知したが、本日は間もなく日が暮れる。明日、また勝負ということでいかが?」
「問題ない。では、明日」
関羽は、そう言って黄忠のもとから数歩離れるが、すぐに立ち止まる。
「あの男の遺体、持ち帰るというのであれば、私は構わないが」
「しかし、首は、貴方の戦功では?」
黄忠の問いに関羽は不敵に笑って、頭を振った。
「私の求める功は、臨湘城の陥落のみ。あの男にも家族がいるというのであれば、気にせず待ち帰るがいい」
「気遣い、感謝する」
黄忠は部下に命じると楊齢の遺体を馬に乗せて運ばせる。
深々と関羽に頭を下げて、この場を去るのだった。
黄忠が城に戻ると韓玄は苦虫を嚙み潰したよう顔をしていた。
緒戦の敗戦を劉巴に叱責されたのである。
事の結果を曹操に報告するとまで言われては、韓玄も大人しくするしかなかった。
主導権を握った劉巴は、黄忠に明日の作戦を伝える。
黄忠は弓の名手。
その弓を使って、関羽の命を狙えというのだった。
ただ、馬鹿正直に弓で狙っても関羽のこと、弾き返される確率が高い。
そこで、明日は魏延が先陣を切るというのだ。
関羽が魏延と一騎打ちに夢中になっているところ、隙をついて黄忠が弓で狙うというもの。
黄忠も魏延の実力は承知しており、関羽を倒せるとまでは言わないが、注意を引き付けるだけの力は、十分にあった。
作戦としては、非の打ち所がない。
それに、命令とあれば、黄忠も従うしかなかった。
ただ・・・
黄忠は、自室に戻ると、一人、思い悩む。
戦場で見せた関羽の男気に対して、姑息な闇討ちのような手段を用いていいのかと、考え込んでしまうのだ。
戦場にあって、何を甘い考えをと言われるかもしれない。
しかし、本日の正々堂々とした勝負や敵である楊齢の遺体への配慮などは、これまで歴戦を繰り返してきた黄忠でも、体験したことがなかった。
そして、何より、『技量の差でついた決着以外は、受け入れられない』
この関羽の言葉が、黄忠の頭から離れない。
「そりゃ、悩みむわなぁ」
誰もいないはずの自室で、声をかけられ黄忠は反射的に剣の柄に手をかけた。
見ると、そこには三十代に差し掛かったどうかという男が立っている。
どこか捉えどころのない飄然とした人物、そんな印象をこの男から受けた。
「お主、何者だ?」
「何者って、黄忠将軍のお悩みを解決するために参上した者ですよ」
そう話すのは龐統だが、現時点では名乗る気はない。名乗ったところで、今の龐統は劉備軍にあっては、ただの小役人。
相手を納得させるだけの肩書がないのだ。
黄忠の方も龐統がただ者ではないことは、雰囲気だけでも分かる。
それ以上、素性について聞くことはなかった。
「私の悩みを解決するというのは、どういうことか?」
「注意を他に引き寄せておいて、弓での一射。美しくありませんが、実務的でいい作戦ですね。・・・ただ、黄忠将軍は、納得されていない」
まさしくその通りだが、武人である以上、命令は絶対である。
そこを違えるのは、黄忠の矜持を曲げなければならないのだ。
「なに、黄忠将軍は関羽殿を狙って、一射、放てばいいのです」
「それでは、関羽殿に武人としての礼を欠くことになる」
「命令されたのは、関羽殿のお命を狙えで間違いないですよね?」
その質問に黄忠が頷くと、龐統は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
そして、耳を拝借と告げると、黄忠に耳打ちをするのだった。
黄忠は、その内容に怪訝な表情を示すが、理由を深く聞くと闊達に笑い出す。
「まぁ、納得するかしないかは別として、命令は違えぬということか」
「はい。ご検討をお願いします」
瞑想するかのように、目を閉じて考え込んだ黄忠は、目を開いた時、自分の中である決断を下した。
そこには、先ほどまでいた男の姿はなかったが、黄忠の心は晴れやかに変わるのである。
明日の出陣に迷いがなくなるのだった。
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