第102話 高幹の死と郭嘉の決意

河東郡で敗れた高幹は再び壺関に籠った。

ともに戦った者たちは、みな曹操軍に討ち取れているため、残る高幹が唯一の標的となる。


壺関は堅牢な関ではあるものの、虎牢関や函谷関のような鉄壁の関ではなかった。

守り抜くにも、当然、限界はある。

高幹は外に援軍を求めることにするが、その相手がみつからない。


「劉表は遠いし、袁尚はあてにならない。可能性は低いが、あそこに頼るしかないか」

藁にもすがる思いで、頼ったのは匈奴だった。

高幹が直接、交渉に赴くも呼廚泉は、すでに曹操に降っている。

この要請には困り果てた表情をした。


「貴方が降伏していることは理解しているよ。そこを曲げてお願いしているのだけど」

「高幹殿。長年、ともに戦った誼だ。曹操につき出すような真似はしたくない。ここは黙ってお引き取り願いたい」

呼廚泉も単于として、匈奴を率いる身。

曹操の力が絶大となった今、報復を恐れれば、簡単に裏切ることなどできないのだ。


「いや、分かった。無理を言って、済まない」

心のうちでは、ひどく落胆しているが、そのような姿を意地でも見せたくない高幹は、努めて明るく理解を示した。


その帰り道は、脳しょうが焼け焦げるのではないかと思うほど、考え抜くが、さすがに妙案など浮かばない。

特に打つべき手がないまま、曹操の大軍を迎えるのだった。


「高幹は袁家で唯一、本初の才を引き継いだ男だ。ここで禍根を断つべく、壺関の敵は根絶やしにする」

曹操の強い決意のもと、壺関の攻防戦が始まる。

高幹は曹操が認めるだけあって、防衛戦も見事だった。


戦が始まって、ひと月経っても壺関は、まるでびくともしない。

高幹の指示がよく行き届き、曹操軍に隙を与えなかったのだ。


そして、それが三か月ともなると、さすがに攻め方を考え直さなければいけないと、曹操は思い始める。

そこに曹仁がやって来て、今回の関攻めについて、ある提案をした。


「戦前、曹操さまが固い決意をされて、我が軍は一致団結しました。しかし、関を守る者たちも殺されると分かれば、一致団結するものです」

確かに曹操は根絶やしにすると宣言した。

どうやら、それが今回の苦戦につながっていると、曹仁は見解を示す。


「城や砦を包囲する際には、必ず生きる道を開けておくべきです。殺す予告をして固い城を攻めるのは時間がかかり、あまり良策とは言えません」

「まさしく理にかなっている」


曹操は、早速、曹仁の言を採用する。

すると、壺関から投降する者が現れ始め、ついには陥落するのだった。

壺関が落ちる直前、高幹は逃げ出したようで、曹操はすぐに追手を出す。


逃げる先は、劉表のところしかないはず。荊州へと続く道は全て封鎖した。

ところが、高幹を捕縛したという報せは、なかなか届かなかった。

まさか落ちぶれている袁尚を頼ったかと、幽州方面の警戒を強くしようかと思った矢先、高幹の首が届けられる。


その首級を持ってきたのは、上洛都尉じょうらくとい王琰おうえんという男だった。

酒が抜けていないのか赤ら顔で、下品な笑い方をしている。

曹操は、話すのも嫌だったが、一応、高幹を捕らえた経緯を確認した。


王琰は、昨晩、なじみの酒場で酒を飲んでいると財布を忘れてきたことに気づく。

家まで取りに帰るのも面倒だったので、たまたま、隣の卓で食事をしていた男に、声をかけたのだが、同然、金の無心は断られた。


酔った勢いもあり、その男に飛びかかるが、簡単に腕をねじ上げられて床に転がされると、王琰は諦めて家に財布を取りに帰ったのだという。


店に戻ったとき、丁度、先ほどの男が出て来たところだった。そっと後をつけると、先ほどの痛い目に合わされた腹いせをしてやろうと考える。


隙を見て後ろから棒で殴りつけると、見事、男を気絶させたのだった。

この騒ぎに官吏が駆け付け、倒れた男を見て驚いたという経緯らしい。


「その男が高幹だったのか」

「はい。左様でございます」


高幹は、すぐに逃げず、しばらく潜伏していようと考えていたのだろう。

さすがに機転は利くが、運が悪い。

しかも捕まったのが、このような低俗な男とは、敵ながら同情してしまった。


どのような経緯で、相手が誰だろうと功は功。

曹操は王琰に褒美を与えて、下がらせるのだった。


しばらくした後、変な噂が曹操の耳に入る。褒美で侯に取り立てられた王琰の妻が嘆いたらしい。

その理由というのが、王琰が偉くなれば、きっと妾を囲って自分への愛が奪われると考えたというもの。

「そんなこと、知るか」

そう言いたくなるような、どうでもいいことを聞かされた曹操は、少し不機嫌になるのだった。



高幹が死ぬと、袁家の生き残りは、いよいよ袁尚と袁煕のみになる。

二人は烏桓族に囲まれ、幽州の奥に潜伏していた。

鮮于輔への攻撃が失敗してからというもの、遼西で大人しくしていたため放置していたが、曹操はそろそろ袁家との決着をつけようと考える。


しかし、諸将の大半がこの遠征に反対の意を示した。

諸将の意見をまとめると、概ねこの通りである。


「烏桓族は、幽州攻略の失敗に懲りて、もう袁尚には協力しないでしょう。兵力を持たない袁尚など、放っておいても禍根にならないかと。それよりも、今、大軍を率いて遠征をなされば、劉備が劉表を説得して手薄になった許都を攻めるはず。万が一、変事がありましたら、一生の悔いとなります」


言っていることは理解できる。

しかも向かおうとする地は、漢民族にとって未踏の地と言ってもいい僻地。

危険を冒してまで、成敗する価値が今の袁尚にあるのかということだった。


そんな中、郭嘉が一人、手を挙げる。

「烏桓族はいかに蛮族とはいえ、生前、袁紹から受けた恩は忘れていないでしょう。今、北を放置して南征することがあれば、彼らは必ず背後を狙います。これを無視することは、腹をすかせた狼を放置すると同意。また、劉表は劉備をうまく使いこなせません。これまで許都を襲う機会は、幾度かありましたが、全て見送っています。今回も劉表が動くことはないと思われます」


郭嘉、一人の言に一同が黙った。

曹操は、みなの意見をよく吟味し、深く考えた結果、郭嘉の意見を採用することにする。

こうして、北方への遠征が定まった。


烏桓族は馬を巧みに操って戦うことを得意としている。

曹操も、馬術巧みな者たちを集めて編成することにした。

そして、選ばれた諸将は、西涼兵を多く抱える張遼、張繡。その他では、張郃、曹純などが北伐の将として選出される。


遠征方針など、あらかた定まったとき、郭嘉が部屋から退出した。

それを認めた荀彧が、後を追うのだった。


「奉考、少し、尋ねたいことがある」

「文若殿、何でしょうか?」


振り返った郭嘉の顔色を見たとき、荀彧は言葉を失った。

およそ血が通っているとは思えないほどに蒼白なのだ。


「もしや、体調がすぐれないのか?」

荀彧の言葉に郭嘉は黙って頷く。

「最近、咳が出始めました。でも、大丈夫です。時折、今のようにひどくなるだけです」

「養生していなければ、駄目でないか」


病人の大丈夫という言葉など信用できない。荀彧はすぐに床に臥す事を勧めた。

しかし、郭嘉は頭を振る。

「我らが安泰となるために北方の膿を出してから、ゆっくりと休ませていただきます」


そう言って、微笑むが覇気が感じられない。

荀彧は、嫌な予感がするのだった。


先ほどの郭嘉の弁。確かに理にかなってはいるが、どこか気が逸っているような印象を受けた。

他人を黙らせて、絶対、自分の意見を押し通すという気概のようなものが前面に出ている。

その事、自体は悪いことではないのだが、およそ郭嘉らしくないと思えたのだ。


「お主、まさか・・・」

荀彧は、自分が思っているよりも重篤な病に郭嘉がかかっているのではないかと推察する。

「やはり、文若殿の目はごまかせませんね」

「・・・命に関わるのか?」


郭嘉が視線を逸らして、黙り込む。

それは、肯定していることを意味した。


「文若殿、お願いです。皆には黙っていて下さい。今回の北伐を生涯最後の大仕事としたいのです」

郭嘉から、余命いくばくもないと告白された以上、その願いを聞き届けないわけにはいかない。

「北伐の最後まで持つのか?」

「持たせます」


強い言葉と意思を感じ取った荀彧は、了承する。

しかし・・・


「どうして、我らの中で一番若く、もっとも知略に富んだ天才が・・・」

「文若殿に、そこまで褒めていただいたこと、奉考の生涯の誇りといたします」


別れの挨拶をして、郭嘉が辞す。

荀彧にはその背中を黙って見送ることしか出来なかった。

その頬に、熱いものが伝い落ちるのだった。

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