第26章 劉備入蜀編

第174話 新時代の使者

中華の西に広がる広大な大地、益州。

現在の支配者は、父劉焉の跡を継いだ劉璋だった。


これまで、中央の戦乱をよそに独自の政治体制を構築し、大きな戦禍に巻き込まれずに済む。

永らく続く平和を求めて、中央から人々が、この地に集まった。


その人々から選抜した武装集団を『東州兵とうしゅうへい』と呼び、彼らを使って益州の支配を絶大なものにしていたのである。

しかし、東州兵との関係が劉焉から劉璋に代替わりしたことによって、微妙なずれが生じることになった。


新君主の劉璋が、彼らを上手く統制できないのである。

地元の豪族と外来である東州兵の争いが激化すると、次第に益州牧・劉璋の支配力が弱くなっていったのだ。


その象徴が、漢中の張魯である。

張魯は、もともと劉焉の指示で漢中を攻め取ったのだが、劉璋の力が弱まったと見て取ると、かの地で独立を図り見事成功するのだ。


怒りに震える劉璋は、益州に残っていた張魯の家族を殺害し、完全な敵対関係となる。

以降、両者の関係は、修復されぬまま今日まで至っていた。

これまで、小競り合い程度の戦闘はあったものの、大きな戦争にまで発展しなかったのは、二つの要因からである。


一つは、戦力的な差が開いていたことだ。

州内で、争いを続ける東州兵と地元豪族たちも、外敵が来たとなれば力を団結させる。

もともと益州の臣下だった張魯は、彼らの力を十分に承知していたため、無理に国境を侵そうとしなかったのだ。


そして、もう一つは、劉璋の性格にある

短慮で、すぐに頭に血が上ることはあったが、基本的には戦を好まない柔和な気質だった。


それゆえ、東州兵を抑えることもできず、時には暗愚と見られることがあったのだが・・・

そのおかげか、劉璋の方からも戦を仕掛けることが、今までなかったのである。


しかし、事情が変わったのは、関中十部の反乱が関係した。結果、敗れた馬超、侯選、程銀という涼州で、名の通った者たちが張魯に庇護を求めたことによる。

特に馬超の勇名は、益州にも轟いていた。


この万夫不当の勇将を手に入れたことにより、張魯の侵略の虫がうずく。

幸いにして、曹操の漢中討伐は、ただの流言だったようで、しかも遠征を終えたばかりとあっては、当分、大人しくしていることが想定できた。

これで、張魯の益州侵攻の条件が揃ったのである。


この軍事行動に慌てたのは、劉璋だった。

あの馬超が攻めてくると想像しただけで、生きた心地がしない。

すぐに群臣を集めて、対応を協議した。


「西涼の錦が槍を携えて来たら、我が配下に勝てる者はいるだろうか?」

劉璋の問いかけに、文官、武官、皆、下を向く。


益州に良将が決していない訳ではないが、平和だったということは経験値が絶対的に少ないことを示した。

一方、馬超は、あの曹操をあと一歩というところまで追い込んだ実績がある。


自信を持って、討てると言える者が出ないのは仕方がなかった。

進言、献策が出なく重苦しい中、別駕の張松が進み出る。


「ここは、外に援軍を求めてはいかがでしょうか?」

自力で対応できないため、他人を頼る。発想としては、同然のことだが、問題は誰を頼るかだ。

張松は、襄陽城で曹操に冷たくあしらわれた経験があり、毛嫌いしている。


また、帰国後、反曹操の考えを益州内に広めたため、曹操という考えは最初から除外されていた。

残るは、孫権か劉備である。


ただ、孫権は大黒柱の周瑜が死んだ後、荊州南郡から撤退していた。軍を発するとすれば、揚州からとなる。

益州と揚州では、あまりにも距離が離れすぎていた。


となると、劉備一択となってしまうが、大きな問題は感じられない。

張松は、そのことを告げた。


「劉備殿であれば、劉璋さまと同じ皇室の流れを汲んでおり、信用に値するのではないでしょうか?」

それに配下には関羽、張飛、趙雲と音に聞こえる豪傑が揃っている。

彼らであれば、馬超と互角以上に闘えるはずだ。


一択しかないが、それこそ、まさに最上の一択なのである。

「それでは、早速、劉備殿を迎え入れよう」


劉璋が安易に、そう宣言すると、さすがに止めに入る者が、数名、現れた。

その一人が従事の王累おうるいである。


「他にいないから劉備殿では、いささか短絡過ぎます。一度、劉備殿の人となりを確認するため、使者を送ってみてはどうでしょうか?」

そう言われると劉璋にも迷いが生じた。自分の運命を託す相手のことである。

もう少し慎重になってもいいと考え直した。


「では、誰を送ればよいだろうか?」

重要な役目のため、自薦する者が出ない中、またしても張松が進み出る。


「その役目、軍議校尉ぐんぎこうい法正ほうせい殿がよろしいかと思います」

法正の名前を聞いて、群臣、一堂、どよめいた。

劉璋からは重用されておらず、品行に問題ありという噂もあったためである。


「そちの推薦を疑うわけではないが、法正で大丈夫だろうか?」

「問題ございません。皆さまは、法正殿が人を褒めているのを聞いたことがございますか?もし、法正殿が会って、劉備殿を褒めるようなことがあれば間違いなく信用がおけると思われます」


張松の言い分には一理あった。法正は偏屈だが能力は確か。

その法正に認められるようなことがあれば、劉備はひとかどの人物と結論付けてもいいような気がするのである。

反対意見が出ないようなので、張松は自分の意見を押し通した。


「私から、法正殿に話を通しておきます。よろしいですね」

「分かった。全て任せる」


劉璋が諾したことで、本日の会議は締めくくられる。

その足で、張松は法正の屋敷へと向かうのだった。



張松が法正の屋敷に着くと、法正と同郷の孟達もうたつもたまたま、訪ねてきていたようだった。

張松と法正、孟達の三人は、実は親友同士。

時折、いずれかの屋敷に集まっては、酒を酌み交わして、世の中のことを語らっていたのである。


張松は、孟達がいることを幸いと、本日あった会議の顛末を二人に話す。

すると、途端に法正が嫌な顔をするのだった。


「劉備が仁者だという者が多いが、そういう場合、得てしてまがい物が多い。行くだけ、無駄ではないか?」

「いや、長坂で十万の民を見捨てなかったのは、本当のことらしい。行ってみる価値はあると思うぞ」

否定する法正に孟達が、軽く反論する。孟達は劉備のことを評価しているようだ。


「曹操を赤壁で破った後の荊州四郡を奪った手腕も見事だと思う」

「子敬、お前がそこまで劉備贔屓びいきだとは思わなかったぞ」


孟達が立て続けに劉備を褒めるので、法正はやや呆れるのである。

からかわれたと感じた孟達は、事実を言ったまでだ、と憤慨する。


しかし、友人の孟達が、ここまで賞賛するのであれば、法正も一度、劉備に会ってみようかという気持ちに傾きかけるのだった。

これまで、二人の話を聞いていただけの張松は、神妙な顔をすると、ある決意を打ち明ける。


「孝直、子敬。君たち二人だから、胸襟を開くが、私は劉璋さまでは、この乱世を乗り切れないと思っている」

張松の告白は、今まで、口にこそ出さなかったが、法正、孟達の二人も考えていたことだった。


「不敬だ」と、叫ぶようなことはしない。

友人二人が同じ思いであると確認すると、張松は話を続けた。


「私は曹操にだけは、この益州を渡したくない。だが、張魯ごときで右往左往するくらいでは、いずれ曹操に飲み込まれてしまうだろう」

張松の曹操嫌いは、相当である。あの謁見での一度の邂逅が、かなり高くつくことになったようだ。


「その流れだと、劉備玄徳が益州を託せる器か、私に見て来いと言っていることになるが?」

「そう思ってくれていい」


法正の質問に張松が明確に答える。そして、懐から一本の巻物を出した。

「それは?」

西蜀四十一州図せいしょくしじゅういっしゅうずだ」


それは益州の重要な城や砦、関所から軍が通行できる道、街の人口から特産物までを記した地図である。

いわば、これ一つを見るだけで、益州の現状を把握できるという代物だ。


「このような物まで、作ったのか?」

法正と孟達は、その地図の精巧さに驚く。


「孝直、もしお主の目から見て、劉備玄徳が仕えるに足る人物であった場合、この地図を渡してほしい。もし、不足であれば、焼き払ってくれ」

この地図は、万が一でも心無い人物の手に渡ると益州にとって致命的になる。

受け取った法正は、その重みも併せて受け止めた。


「分かった。必ず、劉備の真価を見極めてくる」

はじめ渋っていた法正も、ついにやる気をみせるようになる。

その様子に張松は大満足だった。


「二人、盛り上がっているところすまぬが、その役目、俺もついて行っても構わぬか?」

孟達も劉備という人物を見定めたいと申し出る。二人は、喜んで承服するのだった。


こうして、成都から法正と孟達が使者として劉備のもとへ向かうことになる。

これまで、中央からは未踏の地とまで揶揄されてきた益州に、運命の歯車が動き出す。

新たな時代の波が訪れようとしていた。

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