第18章 伏竜出廬編

第104話 的盧、檀溪を翔ぶ

曹操が華北を制し、その影響力が日増しに増大していくのと同じように、ここ荊州では、劉備への声望が高まっていった。

北方の争いに落ち着きを見せ、曹操に南下してくる兆しがあると、ますます荊州の人々は劉備に期待を寄せる。


これまで荊州では、内乱のような争いはあったものの、国をかけるような争いは、しばらく起きていなかった。

劉備の経験や戦歴は、荊州の武官の中では、圧倒的に飛び抜けている。曹操、呂布との戦いは、荊州人にとっては、まるでおとぎ話のような世界だった。


実際、時の権力者、曹操と幾度となく戦って、今なお生き残っているのは、劉備玄徳、ただ一人なのである。

主家の嫡男たる劉琦が、完全に劉備に心酔していることも、劉備人気に拍車がかかる一因だった。


人気が集中すれば、当然、そのことを苦々しく思う人間もいる。

それは、劉表の後妻、蔡夫人さいふじんと弟の蔡瑁さいぼうだった。


劉琦と自分の子供、劉琮りゅうそうの後継者争いを考えると、天下に名高い劉備が劉琦の後ろ盾と見られているのは、はなはだ面白くない。

蔡夫人は、事あるごとに夫である劉表に、劉備のことを讒言したが、まったく取り合ってもらえなかった。


「今の漢王朝は、有史以来、最大の危機を迎えている。同族の劉備皇叔とは手を取り合い、助け合っていかなければ、この難局は乗り越えられないのだ」


劉備に毒されたのか、劉表の関心は国内よりも国外に向いている。そのことも蔡姉弟は、不快だった。

こうなれば実力行使に出るしかないと考えた蔡瑁は、同僚の張允ちょういんと劉備を除く方法を話し合う。


「今月、開催される宴で劉備の油断を誘い、隙をついて葬り去りましょう」

「しかし、護衛には、あの関羽、張飛、趙雲の誰かが必ず来るぞ。あの三人を倒せる者など、この荊州にはいない」

張允と蔡瑁は、頭を抱えた。機会はあっても、決め手がないのだ。


「酒豪の張飛であれば、酒を餌にできますが・・・」

「うむ。関羽ならまだしも、生真面目な趙雲が来た場合、打つ手がないぞ」

「当日、誰が来るかはわかりません。その時になってから、対応を考えるしかないかと・・・」

張允の提案は、完全なる見切り発車だが、蔡瑁も他に良案が出てこないため、頷くしかなかった。


「とりあえず、手はずだけは整えておきましょう」

「うむ。襄陽城内には親劉備派もいる。慎重にいこう」

二人は、段取りだけを入念に確認し、襄陽城で開かれる宴、当日を待つのだった。



襄陽城に到着した劉備一行。

劉備の護衛として、一緒に来たのは、だった。

蔡瑁と張允は、顔をしかめて肩を落とす。


かといって、今回の機会を見逃す気はなく、張允が出迎えで並んでいた列から、離れて慌ただしく駆けていった。

その様子を文官の伊籍いせきが見咎める。不審に思った伊籍も、そっと列を離れるのだった。

そんな末列での出来事など、他の者は気づかない。視線を集めている劉備は恐縮して、劉表に対して拝礼した。


「毎度、城外までお出迎えいただかなくても結構です」

「なに、私が好きで行っていること、お気になさるな」


蔡瑁の陰気を消し去るほど、和やかな雰囲気で城内に案内される。

劉備には劉表の隣の席が用意され、そこで杯を受け取った。

ほどなくして料理も運ばれて、宴が始まる。


「それでは、劉皇叔。いつものように貴方の武勇伝をお聞かせ下さい」

酒宴では、いつも劉備が経験した戦話などが話題の中心だった。

多少、盛り上げるために大袈裟に話すのは、ご愛嬌というもの。


とにかく、その劉備の話を劉表と劉琦親子は、毎回、楽しみにしているのだった。

酒宴は、笑いが絶えずに進行していく。


ただ一人、笑っていないのは蔡瑁だった。

先ほどから、趙雲の所作を気にしているのだが、宴が始まってから、今までずっと劉備の後ろに立って、動こうとしないのである。

これが関羽や張飛であれば、自分の席について、多少は酒宴に参加してくれるのだが・・・


趙雲は、今までの酒宴で一度も自分の席についたことがない。

業を煮やした蔡瑁は、自分の部下に目配せをして、趙雲にお酒を勧めるよう指示をした。

ところが、趙雲は頑なに杯を拒否する。


「しつこいですぞ」

余りにも執拗な勧誘に、つい趙雲は声を荒げてしまった。

この剣幕に、会場が一瞬、静まり返る。


「みなさん、申し訳ない。この子龍、忠義心も篤いため、職務に忠実なものですから・・・いつも私のことを案じてくれているのです」

「なるほど、さすがは趙雲殿。武士の鑑ですな。一献どうです?」


険悪とまでは言わないが、場の空気を乱してしまったことに趙雲が悔いた。

劉備と劉表に、気を使わせてしまっていることも重ねて、申し訳ない気持ちになる。

この状況で、さすがに劉表の誘いを断ることができず、趙雲は杯を口にするのだった。


「酒の場では、色んなことが起きる。大したことじゃないだろ」

「恐縮です」

本当に大袈裟な話ではないのに落ち込んでいる。


そんな、趙雲に劉備は笑い飛ばすと、

「酒の席での失敗なんか、益徳の奴は数え切れねぇよ。子龍、今夜は気にせず飲め」

と、肩を叩いた。


比べられる相手がどうかと趙雲は思ったが、今夜は劉備の言う通り、酒宴に参加することにする。

この判断で、後で冷や汗をかくことになるが、それを今は知る由もなかった。

そして、この展開に蔡瑁は、一人ほくそ笑む。


酒宴は続き、しばらくすると、「どうぞ、一献」と、劉備に声をかける人物がいた。

それは文官の伊籍である。

伊籍は荊州の臣の中では、親劉備派の人間。

劉備が襄陽城に行くたび、親しく話しかけてくる。


「これは、伊籍殿。ありがたく頂戴します」

劉備が杯を差出すと、酒を注ぎながら耳打ちをしてきた。


「蔡瑁と張允に不穏な動きありです」

「おお、かたじけない。いただきます」


わざと大きな声でお礼をした後、伊籍と目を合わせて頷く。

劉備はかわやへ行くふりをして、立ち上がると、廊下を急いだ。

そのままうまやまで行き、的盧に跨る。


ここで、劉備不在に気づいた蔡瑁が後を追ってきた。

「劉皇叔、酒宴の途中ですぞ、どこに行かれます?」

「何、脾肉ひにくのたるみが気になったので、ちょっと遠乗りに出かけようと思っています」

「行かせんぞ」


蔡瑁の掛け声で、槍を持った兵士が劉備の行く手を遮る。

その槍衾やりぶすまを的盧が軽々と飛び越えた。


襄陽城の西門を抜けて、二里ほど走ると道が途絶える。

目の前には、檀溪だんけいの渓流が横たわっていたのだ。

天は、我を見捨てたかと、夜空を見上げたとき、的盧が前に進もうとする。


「おい、的盧、これを渡るっていうのか?」

決して穏やかとはいえない川の流れに、さすがの劉備も躊躇した。

しかし、蔡瑁の追手が迫っているのも事実。


「分かった。的盧、お前に俺の命を預ける」

意を決した劉備は、檀溪へと飛び込んで行った。

ようやく追いついた、蔡瑁がその様子に手を叩いて、喜ぶ。


「劉皇叔、その流れは馬では越えられませんぞ。劉表さまには、酔って奇行に走った挙句、お亡くなりになったと伝えます」

蔡瑁が言う通り、的盧は水の流れに押され始めた。馬での渡河はやはり無理のようだ。

劉備も少し、後悔し始めるが、ここで諦めるわけにはいかない。


「的盧、お前は凶馬か、良馬か。ここで、俺に力を示して見せろ」

すると、劉備の声に応えた的盧が、何と三丈も一気に跳躍する。あれよあれよという前に檀溪を渡り切るのだった。


「そんな、・・・馬鹿な」

「ははは。蔡瑁殿、劉表殿に中座の無礼を詫びておいてくれ」


劉備は勝ち誇り、呆然とする蔡瑁に、手を振る。

蔡瑁たちには、檀溪を渡る術がないため、歯噛みしながら見送るしかなかった。



劉備がしばらく川沿いに進んでいると、川辺に灯りが見えた。

それが焚火の灯りと気づくと、凍える身を暖めたいと近づく。

そこには旅人と思しき人物が、暖を取って休んでいた。


劉備は衣服が濡れている。自分も焚火の恩恵を受ける許可を旅人にとった。

その旅人は撃剣の剣士だろうか、飛刀のような短めの剣を帯剣している。


「風邪をひくといけない。どうぞ、こちらへ」

剣士が、あっさり許可したことに劉備は拍子抜けした。


身分高い身なりをした男が夜中にずぶ濡れで、こんなところをうろついていれば、自分でもいぶかしむ。

まぁ、こんなところで野宿している剣士の方も怪しいといえば怪しい。お互いさまといえばお互いさまか・・・


体が温まって、少し余裕が出てきた劉備は、この剣士の身なりを確認する。

身のこなしで武にたしなみがあることは分かった。受け答えを聞くに、非常に知性も感じる。

それで、この男は、ここで一体、何を?


「師を訪れるつもりでしたが、予想外に道中、時間がかかってしまいました。夜半の訪問は失礼と、ここで明日、出直そうとしていたところです」

何も言っていないが、向こうから説明してくれたので、状況は理解した。

自分も成り行きを説明した方がいいか、劉備が迷っていると、別の話題を振ってくる。


「失礼ながら、乗って来られた馬は、凶馬の相に見えますが・・・」

「馬相はそうみたいですが、俺にとっては良馬です。先ほども命を救われたばかり」

「なるほど」


旅の剣士は、焚火に木をたしながら、頷く。

劉備にも、もう少し火に近づくよう、提案した。


「凶馬から身を守る方法がございますが、興味はありますか?」

「いや、それをすると祟りより怖いことが起きるので、結構です」

「祟りより、怖いですか?」


面白そうな話に旅の剣士が身を乗り出す。

劉備は簡雍とのやり取りを打ち明けるのだった。


「それが祟りより、怖いことですか」

「誰かを犠牲にしてまで、生き残ろうとは思いません。それに俺にとって、大切な仲間を失うことは、死ぬことよりも恐ろしい」


笑っていた剣士は、劉備の言葉を受け止めると真顔に戻る。何やら自問をしているように見えた。

「それは例えば、今、貴方に祟りが起きてもですか?劉皇叔」


見事な跳躍で剣士が焚火を飛び越えると、劉備ののど元に白刃が当てられる。

劉備と剣士の視線がぶつかり合った。

焚火の熱気で揺らぐ陽炎の先で、劉備は命の危機を迎えるのだった。

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