第105話 師から名を授かる
「身の危険を回避するために、誰かを犠牲にしなければならないってんなら、俺は、その危険を引き受ける」
「ふふふ。この状況でも、そう言いますか」
劉備にのど元に当てられた白刃が離れた。剣が鞘に収められると、剣士は元の座っていた位置に戻る。
劉備は、首がきちんとついていることを確かめるように、自分ののど元に手をあてた。
「戯れが過ぎました、申し訳ございません」
剣士は、手を地につけて謝罪する。劉備も途中から、本気ではないような気がしていたので、その謝罪を受け入れる。
「いや、それより、俺のことを知っているのかい?」
「荊州で、貴方のことを知らぬ者がいると思っているのですか?」
劉備の問いに、剣士は逆に怪訝な表情をした。確かに注目を浴びているとは、思っていたが、知らない者はいないは言い過ぎだろう・・・
だが、よく聞くと、荊州の各都市では、講釈師が面白おかしく劉備の活躍を民衆に披露しているとのこと。
老いも若きも皆、聞き入っては、時に涙し、時に喝采をあげるほど大盛況ということだった。
何でも一番人気は、呂布と劉備三兄弟の対決らしい。
いわゆる虎牢関の戦いだそうだが、そのお話の中では、劉備も呂布と互角に闘っているというのだから、思わず吹き出してしまった。
劉表親子が、劉備に武勇伝をせがむのは、この影響かもしれない。
実に興味深く、劉備は一度、城下町で聞いてみようと思った。
「これまで、名乗りもせず失礼いたしました。今は
『今は』という言い方が気になったが、とにかく相手の呼び名が分かっただけでも、ありがたい。
やはり、名前がわからないと、相手との接し方が難しいのだ。
対話で、だいぶ打ち解けると、劉備は単福に檀溪を渡って、ここまでやって来たいきさつを簡単に話した。
「今回の件、劉表は噛んでいるとお思いですか?」
「いや、蔡瑁の独断だろうな」
「だとすると、お家騒動ですか」
「多分。そんな、ところだろ」
劉表の跡継ぎは、劉琦と劉琮の二人。
甥の劉琮に荊州を継がせたい蔡瑁としては、劉琦と仲の良い劉備も、同じく邪魔な存在ということだろう。
だから、殺すというのは、いかにも短絡的な行動だが、劉備も大人しく殺されてあげる義理はない。
「劉表との関係が難しくなりますね」
「曹操と対決することを考えれば、協力体制を崩すことはありえない。まぁ、うまくやっていくさ」
単福が複雑な表情を見せた。
いうほど、単純な話にはならないことは劉備にも分かっている。
だからといって、とるべき選択肢は他にはないのだ。
「ぶるる」
休んでいた的盧が、劉備に近づいてくると、頬をこすりつけてくる。
気付けば、いつの間にか空が白ずんできており、夜が明けそうだった。
どうやら、的盧は朝を報せにきたらしい。
こうして見ると、確かに凶馬にはとても見えない。頭のいい馬としか思えなかった。
「しつこいようですが、罪人を乗せるという発想はなかったのですか?」
「罪を償うために刑に服するのなら分かるが、俺の身代わりになって死ぬってのは、ちょっと違うと思う」
「なるほど。分かりました」
単福は、劉備の答えが腑に落ちると、一つ、提案を持ち掛けた。
それは、単福の師との面会である。
「わが師と劉皇叔をお引き合わせしてみたいのですが、いかがでしょうか?」
「それは、ぜひともお願いしたい」
荊州において人脈の少ない劉備にとって、弟子をとるほどの人物と懇意になることに損はない。
また、劉備が求める人材について、何かしらの情報が得られる可能性も期待した。
「それで、お師さまのお名前は?」
「
水鏡とは道号か何かだろうか?
劉備ははやる気持ちを抑えながら、単福の案内について行くのだった。
草庵の中から、琴の音が聞こえている。
朝の澄み切った空気に流れる旋律は、耳に心地よかった。
劉備たちが草庵に近づくと、琴の音色が止まる。
すると、草庵の中から、劉備より十歳ほどは若い男が、一人、出て来た。
水鏡のお弟子さんかと思っていると、その男に単福は頭を下げる。
「先生、ご無沙汰しております」
「善いかな、善いかな。外の空気が変わったと思ったが、単福、君だったか」
単福が師と仰いでいる人物となれば、高齢者のはずと勝手に決め込んでいた劉備は、水鏡が存外に若いため、驚いた。
水鏡も劉備の存在に気づき、単福に紹介を促す。
「この方は、・・・」
「いや、もしかして、劉皇叔かな?」
水鏡は身体的特徴や身なりから、判断したようで、単福の紹介が終わる前に劉備と言い当てた。
単福が話していた、荊州に住む者で知らない者はいないというのは、まんざら嘘でもなさそうである。
劉備と単福は、水鏡の草庵に招き入れてもらうと、中で一息ついた。
劉備は、単福との出会いと、ここでも檀溪を渡るに至った経緯を話す。
聞き終わった水鏡先生は、軽く苦笑いを浮かべてから、頭を振った。
「劉皇叔、貴方は大変、幸運に恵まれているようですが、人には恵まれていないようですね」
人に恵まれていない。劉備にも思い当たる節はあるが、素直に肯定はできなかった。
「失礼ですが、我が家臣の関羽、張飛、趙雲は当代の英雄と自負しています」
「確かに、三名は戦場に立てば向かうところ敵なしでしょう。・・・しかし、時代は変わったのです」
そう言うと、水鏡先生は中華の地図を取り出す。
そして、地図の上に小石を置いていった。
「かつては、このように袁紹や呂布、袁術などもいて群雄割拠の時代でした。一州や郡を争う戦では、関羽殿、張飛殿、趙雲殿の武勇は頼みとなるでしょう」
水鏡は次に十個近くあった小石を、全て払いのけると、今度は筆を取り出す。
曹操、孫権、劉表と名前を呼びながら、地図を塗りつぶしていった。
「群雄割拠は終わり、これからは統一に向けた覇者を決める時代です。かつては呂布がそうであったように武勇で一つの州をとることもできましたが、これからは、そうはいかないのです」
劉備も同様に感じている。水鏡の説明は分かり易く、説得力があった。
「果たして、この国を自分の色で塗り上げるのは誰か?それを決めるためには、武勇だけではなく、それを活かす知略、戦略が必要になります。果たして、劉皇叔の周りには、その戦略を司る人物はおいででしょうか?」
この質問には言葉がない。
劉備がもっとも懸念している事項であり、人材不足については素直に認めるしかなかった。
劉備軍の欠点を見抜き、ずばりと指摘するのであれば、そこを補填する術も持ち得ているのではないか。
水鏡の有識と人脈に、劉備は期待するのだった。
「先生がおっしゃられる通りです。しかし、用いようにも、そのような人物に私は心当たりがございません」
「いつの世にも英傑と呼ばれる人材はいるものです。ただ、その才を正しく見抜く者がいないだけです」
野に埋もれている英傑は、まだいると水鏡は言う。それが事実であればどんなに素晴らしいか。想像するだけで胸躍る自分を劉備は抑えられなかった。
「そのような方は、先生のお弟子さまの中にいらっしゃるのでしょうか?」
「善いかな、善いかな。弟子でもあり友でもあります。
「何と、お二人もいらっしゃるのですか。その方たちの名は?どちらにお住まいでしょうか?」
劉備の矢継ぎ早の質問に、水鏡は答えをはぐらかす。
「彼らは気難しいので、迂闊に名を教えるとへそを曲げてしまうかもしれません」
水鏡が、折りをみて紹介するというので、劉備は引き下がることにした。
いずれにせよ、そのような大賢者が二人もいることを知れただけでも収穫である。
「仁君たる劉皇叔であれば、必ずや賢者と相まみえる機会も得られましょう」
「そのことですが、先生」
今まで会話に参加していなかった単福が重たい口を開いた。
劉備と水鏡の対話に、何か思うところがあったのだろう。時折、視線に入った単福が何やら考え込んでいる様子は、劉備も承知していた。
「ん?・・・もしや、お主、ようやく重い腰を上げる気になったか?」
「はい。我が主君と見定めることができました」
何を言っているのか、さっぱりわからない劉備だったが、単福が自分の前で膝を折るに至って、やっと気付く。
「劉皇叔、昨晩から、色々試すような真似をして申し訳ございませんでした。どうか、私を家臣の末席にお加えください」
単福が優秀なのは、ともに過ごして理解していた。貴重な戦力、人材は喜ばしい。
「単福殿、それは願ってもないこと」
「伏竜、鳳雛には見劣りいたしますが、私も水鏡先生の元で軍略の何たるかを学んだ身。少しはお役に立てると思います」
単福をただの剣客と思い込んでいた劉備だったが、兵法をたしなんでいると聞いて、驚くと同時に期待を寄せた。
「伏竜、鳳雛に見劣りするとは、随分、控えめに言いましたね」
「・・・と、言いますと?」
「いや、弟子の優劣は申せませんが、単福であれば、そうですね。・・・曹操の荀彧、荀攸に比するかと」
「そこまでですか」
荀彧、荀攸といえば、一国に冠たる知者。彼らに比するとは十分な評価だ。
「・・・ただ」
「いえ、そこは私の口から申し上げます」
珍しく水鏡が言いよどんだため、何か事情があるのかもしれない。
察した劉備だが、大概なことは受け入れる腹積もりはあった。
「実は、私の本名は
出会ったとき、今は単福と名乗っていると言いまわしていたのを思い出す。
「何か偽名を使う事情があったのかな?」
「ご明察です」
単福、改め徐福が頷くと、昔話を語ってくれた。
徐福は義侠心に篤く、その昔、友人の敵討ちを引き受けたがため、役人に捕まるということがあった。
徐福は、後日、仲間たちに助けられて牢を脱出すると荊州に流れ、水鏡の門を叩いたのだという。
今までは、官吏から逃れるため、偽名の単福を使っていたとのことだった。
劉備としては、特段、大きな問題にならないように思えたが、そこで、話は終わらない。
その敵討ちとして殺した相手が問題だった。
「後で分かったのですが、私が殺めた相手は、蔡一族の遠縁の者だったのです」
徐福が声を落として話す。表情は痛恨の念に囚われている様子だった。
「それでも、私を・・・」
「何だ、全然、大したことじゃない」
徐福の言葉を遮ると、劉備は徐福の受け入れを了承した。
いや、劉備ならば、そう答えるだろうと徐福も予想していたが、即答とは・・・
「劉表との間に亀裂が生じるかもしれませんが、よろしいのですか?」
「心配するようなことは、俺が起こさせないから大丈夫だ。徐福殿は、これから堂々と本名を名乗るといい」
何か言いたげな徐福の肩に水鏡が手を置く。
「このような御仁だから、お主は仕えようと思ったのだろう。善いかな、善いかな」
但し、水鏡からは、徐福と名乗ることだけは控えるよう指示があった。
その名を使うといたずらに蔡瑁を刺激するかもしれないとのことである。
そこで一つ、師から名を与えることになった。
「これからは、
「はい。それでは、徐庶として劉皇叔にお仕えいたします」
「善いかな、善いかな」
単福から、徐福。そして、最後に徐庶とめまぐるしく呼び名は変わったが、変わらないのは、水鏡の徐庶のへのお墨付きである。
劉備は蔡瑁に命を狙われ、檀溪を的盧で渡る羽目となったが、結果、徐庶という頼もしい仲間を得ることができた。
まさに禍を転じて福と為すを体感するのであった。
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