第16章 華北決戦編

第88話 軍師の失望と勇将の復帰

劉備は、袁紹領である青州平原に何とか辿り着くことができた。

この地を守っているのは、袁紹の長子・袁譚である。

袁譚は、朝廷から官位を授かる際、劉備からの推薦を受けたことがあり、その縁もあって丁重に迎えるのだった。


ようやく人心地つく劉備だったが、気がかりなのは、やはり関羽のこと。

遠く徐州の方角を見つめると、つい溜息が漏れてしまう。


「長兄、関兄のことだ。きっと生きている」

「その通りです。あの武神のような雲長さんが倒される姿など、想像できないでしょう」


張飛と簡雍が励ましてくるが、その内容に根拠はない。

そんな様子に彼らの不安な情動が感じ取れた。何とか強い気持ちを持とうと心がけているのだろう。

それならば、劉備も、いや劉備こそが揺るがない姿勢を見せてあげなければならない。


「そうだな。死ぬときは一緒と誓った約束を雲長が違えるわけがない」

劉備の強い言葉に、二人は納得するのだった。


気持ちを落ち着かせると、劉備は袁紹と面会できるよう袁譚に働きかける。

ほどなくして、袁紹から了承の返事が届いたため、劉備は手勢を率いて鄴へと向かった。


この頃になると散り散りになっていた劉備の配下たちも集まりだし、鄴へ向かう一団には孫乾、麋竺、糜芳、陳到も加わる。


特にしんがりの大役を果たした陳到が無事に戻ったことは劉備を喜ばせた。

張飛が切り開き、陳到が後方を守る。

それで、なんとか劉備は命を繋ぎ止めたのだ。


劉備一家が旅を続けると、鄴から二百里も離れた場所で袁紹が出迎えてくれた。

徐州牧時代、曹操を二度も退け、呂布討伐の際にはとどめを刺すのに一役買っている。

そんな劉備の勇名は既に天下に轟いており、袁紹が敬意を払ってくれたのだ。


戦争の準備で忙しいと思われる中、盛大な歓迎会が開かれる。

その宴は、さすが袁家の御曹司と言わしめるほど、豪華絢爛なものだった。


宴の途中、袁紹の軍師の一人、田豊が劉備の前に現れ、その頭を下げる。

慌てた劉備は、その理由を聞いた。


「徐州の扇動、企てたのは儂よ。中途半端な計略となり、策を弄す者として恥ずかしい限りである」

「まぁ、過ぎたことだから、多くは言いません。ただ、不思議だったのは、どうして、あの時、曹操の背後を衝かなかったのですか?」

劉備の言葉に田豊は憮然とした表情を浮かべ、苦々し気に吐き出した。


「息子の病気で戦に身が入らない。これが理由よ」

「は?」


優先順位は、人それぞれ。

何が正解で、何が間違いなのか分からないが、命からがら、ぎりぎりの戦場を駆け抜けてきた劉備とすれば、理解に苦しむ理由だった。


『袁紹には危機感が足りないのではないか?』

絶対的な優勢の立場にあぐらをかいていては、いずれ、足元をすくわれる。

それは過去の歴史がそう物語っているではないか。


これで、先ほどから感じていた違和感の正体に劉備が気づく。

この宴、見せかけは劉備を歓待しているようで、その真の目的は主催している袁紹を大きく映すための演出なのだ。


これで袁紹という巨大な虚像は造り出せるが、真眼を持ち、強い意志で物事を実行できる者には通用しないのではないか。

劉備は、そう感じて仕方がなかった。


戦う前から、相手を見極めずにひれ伏す者ばかりではない。

特に曹操孟徳は、そんなやわな男ではなかったはずだ。


個人の優劣が、必ずしも戦の勝敗に直結するわけではないことを、経験から劉備は知っている。

しかし、曹操との資質の違いは明らか。現状の戦力差だけを鵜吞みにするのは控えようと思うのだった。


「お主の見立ては、恐らく正しいぞ」

そう言うと、田豊は劉備の前を去って行く。


劉備の思考を読み取ったのだろうか?

どの国にも知者と呼ばれる者はいるものだと感心する。


「今の田豊さんと、もう一人、沮授さんって人が、許都でいう荀彧さんと郭嘉さんにあたる人です」

「すると、その二人の意見を参考にすれば、間違いはないな」

簡雍は頷く。劉備は袁紹より、田豊と沮授に注目することに決めるのだった。


宴が開かれた翌日、対曹操の軍議が開かれる。

軍議の開始とともに袁紹が立ち上がった。

「私はここに宣言する。許都を攻め落とし、朝廷に寄生する賊どもを一掃することを」

集まった諸将から鬨の声が上がる。開戦に向けた雰囲気は整った。


そこに田豊が進み出ると、諸将を制する。

「お待ちください。許都にはすでに曹操が戻っており、我らの攻撃に備えております。備えているところを攻めるは愚。まずは、持久戦で敵の疲弊を待つべきです」

「田豊、貴様は、攻めろと言ったり攻めるなと言ったり、まるで一貫性がないではないか」

田豊の出鼻をくじく発言に袁紹は怒り心頭となった。


しかし、田豊にも言い分はあった。攻撃を仕かけるには、当然、期というものがある。

今回の南征は、完全にその期を逸しているのだから、止めざるを得ない。

確実な勝利を得られぬ以上、軍師としては、その方針を諫めねばならないのだ。


そんな軍師の矜持を袁紹は踏みにじる。

「もうよい。誰か田豊を捕らえて獄に入れよ。戦前に気勢を削がれては、勝てる戦も勝てなくなる」

「なっ、馬鹿な・・・」


前回の徐州の件に続いて、またも目の前が真っ暗になった。

軍師・参謀の役目を果たしただけの自分が、獄につながれるだと・・・

袁紹の言葉をにわかに信じられない田豊だったが、これはまぎれもない事実だ。


『・・・もはや、この戦は運頼みか。曹操が予想より、愚かであることを願うしかない』

覚悟を決めた田豊は大人しく衛士に連れていかれるのだった。



『おいおい、これは大丈夫なのか?』

『大丈夫かどうかはわかりません。ただ、沮授さんも同じ意見のようですけど、じっと堪えているようですね』

思わぬ展開に劉備は小声で簡雍に確認すると、沮授が拳を握って唇を嚙んでいると教えてくれた。


簡雍の見立て通り、沮授も持久戦をとるべきと考えている

しかし、田豊と同じく讒言を行い、沮授まで退場となっては、袁紹軍は一気に傾いて倒れてしまうだろう。

それだけはあってはならない。

沮授は、心の中で田豊に謝罪しつつ、必ず汚名返上の機会を作ると誓うのだった。


袁紹は会場に反対する者がいないことを再度、確認すると陳琳ちんりんを呼んだ。

陳琳は、文筆家ぶんぴつかとして有名な人物。

袁紹は、その陳琳に曹操を弾劾する檄文を書かせて、開戦の合図とした。


その檄文は、後の世に名文と謳われるが、その内容は曹操を貶めるだけではなく、曹操の父や祖父まで誹謗する内容だったため、劉備は、あまり好きになれなかった。


それに、

『曹操が、本当にここに書かれているような人物だったら、俺は敗れることはなかったよ』

そう、思わずにはいられない。


「分かりますが、心の中だけに留めておいて下さいよ」

「俺もそんな馬鹿じゃない」

心のうちを見透かした簡雍に釘を刺されるが、劉備も十分に分かっている。


本日の軍議は、以上で終了となった。

戦の作戦は、明日以降ということらしい。


それではと、劉備は張飛と簡雍を伴って、鄴城下町の様子を探りに行った。

今後の街造りの参考になればと思ったのだ。


しかし、街の情景を一目見たとたん、これは無理だと思い直す。

街全体が煌びやかな色彩を放ち、道行く人々はみな、上等な絹の服を着ている。

相当、お金がないとこんな城下町なんか造れはしないだろう。


「昔の洛陽より、凄いんじゃないか?」

「ここまで栄えているとは、私も驚きました」


これならば曹操に負ける気がしない。そう思い込んでも不思議ではなかった。

袁紹が見せる危機感のなさは、この絶対的な資金力からきているのかもしれない。


とにかく、劉備にとって仕事にならないのであれば、真面目な時間はもう終わりだ。

戦が始まれば、ろくな食べ物にありつけないため、今日は豪華に食事をしようと三人は繁華街に繰り出した。


その途中、道を歩いていると、劉備たちは懐かしい人物と再会を果たす。

劉備は感激のあまり、おもわずその人物を抱きしめてしまった。


「玄徳さま。お懐かしゅうございます」

「ああ、お互い元気そうで何よりだ」


劉備は、この男の武者ぶりを見て改めて惚れ惚れとした。

細身に見えるが、しっかりとした体幹を持ち、ただ立っているだけだが隙が見当たらない。


さすがに戦時中に纏う白銀の鎧は着ておらず、普通の旅装という出で立ちだったが、その背中には自慢の涯角槍が背負われていた。

出会ったのは、そう趙雲子龍である。


趙雲は、公孫瓚と別れた後、劉備の元を訪ねようとしたが、途中、兄の訃報を知り、今まで喪に服していたという。

そして、喪が明けた今、劉備が袁紹を頼っているという情報を聞きつけ、駆け付けてくれたのだ。


趙雲は張飛、簡雍とも旧交を温めると、そのまま劉備陣営に加わることを明言する。

唯一無二ともいえる強力な味方をつけることができた劉備は、そのまま四人で飲み明かすことに決めた。

大戦前、つかの間の休息。

劉備にとって、久しぶりの長い夜となるのだった。

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